興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

中間的な関係

2006-12-01 | プチ臨床心理学

以前にも書いたけれど、対人恐怖症というのは
日本文化固有の病気で、日本国外では、
中国と韓国を除くと臨床例は非常にまれである。
Taijin-kyofusho(TKS)と、そのままの名前で
国際語になっているのも、それが日本文化独自の
ものであることを如実に表していると思う。

(ところで、対人恐怖症の一種であることが
 多い引きこもりが、Hikikomoriとそのまま
 国際語になっているのも、Hikikomoriがいかに
 日本独特の文化によるものかがうかがえる
 ことだと思う)

少し古い文献や、知識の不足した精神科医などの
研究では、対人恐怖症が、Anthrophobia(人間恐怖)
と誤訳されていたりするけれど、対人恐怖症の人が
実際に恐れているのは、人間そのものではなく、
「人間関係」や「場」であるので、対人恐怖は
Anthrophobiaとは異なるものだろう。

ところで、対人恐怖は、非常に広範な概念で、
その幅は実に、精神科受診の必要に至らないほどに
軽症で社会に普通に見られる例から、妄想などを
伴う、分裂病圏のものにまで至る。

しかし、今回扱う「中間的な関係」というのは、
こうした広範な精神病理の中でも、軽症といわれている
神経症圏の対人恐怖症のケースだ。

対人恐怖症の人は、人間関係に大きな不安や恐怖を
感じるというけれど、すべての人間関係が不安
なのではなく、多くの場合彼らが苦痛を感じるのは、
「中間的な人間関係」であるといわれている。

つまり、彼らは、家族とか、恋人とか、配偶者とか
親しい友人といった、特に親しい人との関係や、
その逆に、全くの赤の他人との関係には特別な
不安は感じないし、感じたとしても、それほど
大きなものではない。

それではどんな関係が不安を喚起させるのかと
いうと、職場の同僚や上司や部下、学校のクラスメート
などの、「それほど親しくもないけれど、それほど
知らない関係でもない」という、微妙な距離がある
人間関係だという。

日本文化は、暗黙の了解とか、以心伝心と言った
非言語的なコミュニケーションが文化的に美徳と
されていて、その傾向は今日にも残っていて、
日本文化圏に生きるものは、多かれ少なかれ、
周りの人間の非言語的なメッセージや、その場の
雰囲気などを、ほとんど無意識のうちに読みながら
生活している。そうした環境の中で、日本人は
「周りの目」を常に気にしているわけで、
その「不確かさ」が特に問題になってくるのが
この「中間的な関係」だという。

(どんなにマイペースと言われている日本人でも
 例えばアメリカ人と比べると、その傾向は
 必ずといっていいほどある。周りの目に対して
 完全に無頓着な人は、日本社会ではうまく
 機能できないとも、よく言われている)

気の知れた関係では、不確かさは少ないし、
例えば電車で乗り合わせた全くの赤の他人との
間には、人間関係を築いたり維持したりする
必要もなく、雰囲気などが読めなくても特に
問題にはならない。

そういうわけで、中間的な、微妙に親しくも
親しくなくもない人たちとの関係に難しさを
感じるのが軽症の対人恐怖だといわれている
けれど、なぜ捉われてしまうのかというと、
その不確かさの中で、完璧に振舞おうとする
「完ぺき主義」が影響しているという。

対人恐怖の人は、自分の粗相だとか、社会的
不器用さとか、視線の仕方とか、赤面とか、
自分のそうしたもので相手を気まずくさせたり
することを恐れている敏感で繊細な人たち
だけれど、完ぺき主義を捨て、「別にいつも
うまく振舞えないてもいいんだ」と知り
不安の場でとりあえずやれるように日常生活を
続けていくのが何より治療的だとする森田正馬の
森田療法は、とても理にかなっていると思う。