興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

理解できないことを裁くな ("Don`t judge what you don't understand")

2016-04-23 | プチ精神分析学/精神力動学

 これは何度がインターネット上で出会った言葉なのですが、私たちの日常生活において、とても大事なことだと思うので、この言葉について少し皆さんと一緒に考えてみたいと思いました。

 まだ理解できていないものについて裁くのは、おかしなことですが、こうしたことは実際よく行われています。人は、誰かのことが理解できないという状態が心地悪く、不愉快なため、裁くこと、批判すること、こき下ろすことで、とりあえず終わりにしてしまう傾向があります。近年日本でも、少数派の人達に対するヘイトスピーチが問題になっていますが、それはこの最たるもので、あらゆる差別や偏見は、そもそもが、自分とは異なる他者に対する無知や誤解、想像力の欠如から起こるものです。そうです。無知や誤解、貧困な想像力が、差別や偏見に繋がります。

 ヘイトスピーチや差別や偏見はやや極端な例ですが、理解できない人を裁いたり、悪口をいうという現象は、あなたの職場や学校、コミュニティーなどでもしばしば見られるものだと思います。あるママ友が別のママ友について、陰口を言っているとき、その人は、今悪く言っているそのママ友について、一体何を知っているのでしょうか。悪口を言っている人はまず相手について知りません。そして、相手の人が、自分とは異なった行動、自分には理解できない選択、自分には理解できない発言をしているとき、その「理解できなさ」が(多くの場合無意識レベルで)その人のこころにとって脅威になるので、ごくごく限られた情報を使ってその人を単純化し、わかったつもりになって、見下して、こき下ろすことによって、一時的な安心感を得ています。しかしこういう「分からなさ」に耐性のない人は、すぐにまた「理解できない人」に出くわして不快感を経験し、再び噂話をはじめます。

 心理カウンセリング、サイコセラピーという仕事は、クライアントという他者について深く理解していくことが不可欠な仕事ですが、それは時に非常に難しいものです。そういうとき、そのセラピストの技量が試されます。その「わからなさ」に身を委ねて、クライアントに寄り添って、その目の前の相手の話を聞き続けることが大切なのですが、そうし続けることができずに適当なところでアドバイスをしたり、話題を変えたり、小手先のテクニックに走ったりする人は少なくありません。分からなさに耐性のないセラピストは、答えを出すことに急ぎますが、そのようにして、十分にクライアントの話を聞かずに出した答えは本当の答えではありません。そして彼らはその表面的で深みに欠けた、誤った答えを元に、あなたにアドバイスをします。

 しかしこれでは根本的な解決にはなりません。とりえあずもっともらしい「任意」な答えを出して、相手に伝えることで、彼らは「わからなさ」から解放され、「相談の問題解決率95%」とか宣言するのですが、それは傷口にバンドエイドを張るようなもので、本質的なところには届いていないので、相談者はその瞬間からしばらくはすっきりするかもしれませんが、それが2週間後、1か月後、数か月後にはその問題は息を吹き返します。これは本当の心理カウンセリングではありません。

 心理カウンセラーのあるべき姿勢はこれとは真逆で、「人のこころはそうそう分からないものだ」という前提に立って、目の前のユニークなクライアントの話に常に好奇心を持ち続け、共感的に聞き続けます。知らない、分からない、ということを前提にじっくりと聞いているなかで、本当のことが分かってきます。話している本人が一番わからずに苦しんでいるので、早く何とかしてあげたい、という気持ちにとの戦いになりますが、分からなさに身をゆだねて、目の前のクライアントに常に興味を持ち、決して判断したり裁いたりすることなく聴き続けることで、本当の意味でその人の力になることが可能になります。判断や裁きをし始めるときから、相手の話をきちんと聴けなくなります。そして、カウンセラーがきちんと話を聞くのをやめたときに、クライアントは話をするのをやめます。逆に、人は、「本当に聞いてもらっている」と直感的に感じるとき、話し続けます。

 批判してはいけない、悪口を言ってはいけない、と提案しているのではありません。ただ、何かを公平に批判するにあたって、まず私たちは、その対象に興味をもって、深く理解する必要があります。その対象の本質をきちんと理解する必要があります。なぜなら、正確な理解なしの批判は的外れであり、間違ったことだからです。ただ、逆説的ですが、あなたが本当にその対象のことを理解できるようになったとき、多くの場合、あなたはその対象を非難したり批判する必要も感じなくなっているでしょう(脚注1)

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(脚注1) もちろんこれには例外もあります。たとえば私は冒頭で差別や偏見、ヘイトスピーチについて批判的な意見を述べました。私はこうした現象について、良く理解しているし、ヘイトスピーチに携わる人たちの心理やロジックについても熟知していると思いますが、それでもヘイトスピーチについては極めて批判的ですし、強く非難します。ヘイトスピーチは格好悪くて最低です。