アメリカ英語に、"Don't throw the baby out with the bathwater" (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)という面白い表現がある。これはドイツの諺が元になっているようだけれど、アメリカ人がしばしば使う慣用表現だ。
ずっと昔、まだ今のような文明がない時代、人々は一家全員で同じ風呂の同じ湯水を使いまわし、赤ちゃんを洗うのはたいていその仕舞い風呂であり、赤ちゃんを洗ったあとの湯水はだいぶ汚くなっている、という背景があったようだ。人々はその仕舞い風呂のすっかり汚れた湯水を当然捨てるわけだけど、この汚くなった無益な水と共に赤ちゃんまで捨ててしまわないように、という話である。
奇妙でありえない話だけれど、この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。
例えば、ある人が、とても大事に思っている恋人の家族がどうしても好きになれなかったり、また、恋人の持っている問題(借金、その人の以前の恋人との問題、多い出張、飲酒、喫煙など)が嫌で、葛藤している人が、その葛藤に耐えられずに衝動的に別れてしまうような状況だ。また、好きな習い事に通っていた人が、そのクラスに嫌いな参加者がいてそれが嫌で習い事をやめてしまったりとか、念願の仕事についた人が、その仕事にまつわる面倒な任務にうんざりして衝動的に辞めてしまったり、好きな人が犯した間違いが許せずにその人のそれ以外の性質は今でも気に入っているのに衝動的に関係を絶ってしまったり、ミクシィなどのSNSを長年楽しんでいた人が、そのたくさんの友人のなかの一人との問題に嫌になって退会してしまったり、長時間掛けて絵を描いていて、その出来栄えが気に入っていたのに、ふいにミスをして、そのミスがどうしても嫌で絵を丸めてゴミ箱に捨ててしまったり、などなど、枚挙に暇がない。
この諺のポイントは、その言外にある「衝動性」と、分離機制(Splitting)というこころの防衛機制だと思う。分離機制とは、Black-or-white thinking(黒か白かの思考パターン)、All-or-nothing thinking(全か無かの思考パターン)とも呼ばれるもので(これについては別のブログで詳しく述べようと思っています)、世の中のほとんどの物事は、白か黒かではなく、そのグレーゾーンが存在するわけだけど、このグレーゾーン(完全に良いとも完全に悪いともいえない領域)は、そこに立ち続けるのはなかなか居心地が悪いもので、人はしばしば衝動的にそのどちらかを選んでしまう。赤ちゃんは大切だけど、その赤ちゃんが入っている湯水はとても汚い、よって赤ちゃんも汚いもの、となってしまうのは、観葉植物を育てていた人が、楽しんでいたのに、そこにたかっていた毛虫が嫌でその植物を捨ててしまったり、恋人と喧嘩したらその恋人が最低な人に見えてきたりとか、尊敬していた大学教授が何かおかしなことを言ったことで急に敬意が消失して彼が駄目教授に思えてしまう、というようなものだ。
今、あなたが何かに苦心していたり、うんざりしていたりして、その何かから逃げたくなったり、すっかり足を洗ってしまいたくなっていたら、この諺、Don't throw the baby out with the bathwater、赤子を湯水と共に捨てるなかれ、を思い出して、今一度立ち止まって考えてみると良いかもしれない。何が本当に大切で、何が実はどうでも良い、瑣末なものなのか、また、瑣末でなくても、その好ましくないものが、好ましいものと一緒くたに諦めてしまうほどに悪いものなのか、今一度検討してみるといいかもしれない。
もしかしたら、それは一時の気の迷いかもしれないし、またもしかしたら、それは本当に潮時で、そこから退くのに良いときなのかもしれない。ポイントは、その判断が、湯水を流すように衝動的なものであるかどうか、ということと、その悪いものに惑わされて、良いものまでが悪いものに見えてしまったり、またその良いものを見失ってはいないか、ということだ。真っ白な状況、真っ黒な状況は、そうそう存在しない。
この記事を読んで、私のことを言い当てられているような気がしてびっくりしました!もしかしたらそうかも、とは思っていたものの、私にもAll-or-nothing thinkingの傾向がやっぱりあるのかなと思いました。詳細の記事も予定されているとのことなので、楽しみにしています。
白か黒かの思考パターンは、人間が陥りやすい認知の歪みの代表的なもので、人は程度の差こそあれ、この傾向を持っているものですが、これが人間関係や社会における認知のデフォルトとなっている場合、そこにはいろいろな問題が出てきます。Splittingについては改めて書いてみたいと思っています。
私も、言い方悪いけど、ミソもクソも一緒にするな!と言いたい場面にしばしば出くわします。
しかし乍らそれは、割り切りの悪い同調し得る様々な相反する価値観を同時に内在させている自分というものが、確かにここに存在するという事に、すべては起因しているのだろうと思うのです。
グレシャムは、経済に於いて、悪貨は良貨を駆逐すると言いました。この意味するところとは違うと思いますが、要するに絶対的な価値的是非を、人間はなかなか中立的に判断するのは難しく、時に是に偏り、或いはまた、非に視点を都合良く移して論評している自分の価値的ポジションの、いかに脆弱でひ弱な自分の思想というものを、人生の別の場面で思い知る訳であります。
間違っていることと正しいこと、その人間が果たして人生の中に、その総和として、どちらが多いか、質的にも量的にも、それを考えれば全否定も全肯定もあり得ません。
まさしく、矛盾の集積が人間というものではないかと、つくづく思うのです。
そうなのですよね。そして、その矛盾や曖昧さ、アンビバレンスといった、物事の本質的な事象を受け入れてそこに留まることができずに、分離して、衝動的に動いてしまうのがまた人間ですね。どちらかはっきりしたところに人は居たいものですが、それは本質ではないわけで、しかし分離をしないには結構な精神力が必要で、難儀なものだと思います。
進化心理学ではどのように考えられているか、ということで大いに結構なので、ご教授いただければ幸いです。
お待たせ致しました。
これにはいろいろな説があるようですが、ひとつに、我々の祖先がかつて生きていた原始時代の環境は、現代社会とはいろいろな意味で異なっていたところにあるようです。狩猟時代の人々において、とにかく咄嗟に正しい判断をすることが必要で、一瞬の誤った判断が命取りです。それは文字通り、0か100か、黒か白か、生か死かの二分法であり、この二分法的思考パターンが生き残りに直結しており、この思考パターンの持ち主がうまく次世代に遺伝子を残すことができていたため、我々の代までこの思考パターンが残っているけれど、現在社会は当時とは比べものにならないほどに複雑で多様的なので、この思考パターンが却って問題になるようになった、という説は個人的に説得力のあるものです。
進化心理学は、進化論を心理学に統合した学問なので、進化論からの借り物は非常に多いです。