私たち人間は毎日の生活の中で様々な活動をする。
人生とはある意味であらゆる活動の集積だけれど、
そのあらゆる活動には、必ず何かしら理由があり、
その、私たちを動かしている「何か」は大きく分けて、
External Oppression (外部・環境からの圧力や、
プレッシャー)と、Internal Motivation
(こころの内から湧き出てくるようなやる気や動機)
の二通りあると見ることができる。
仕事をしたり、勉強したり、飲んだり、食べたり、
芸術活動をしたり、誰かとどこかへ出かけたり、
掃除をしたり、運転をしたり・・・と、様々な
活動があるけれど、たとえば、「洗車をする」という
行為について考えてみたとき、その人が、自分の車が
大好きで、いつも愛車と時間を過ごすことで
満たされていて、愛車の手入れをするのが至上の
楽しみ、と言う場合、この人にとって、洗車するのは
「こころの内からの動機」によるものだ。
一方で、別に自分の車にたいした愛着もなく、
仕事に行くのに仕方なく運転している人が、
「汚れていると、みっともない」とか、周りの
目を気にして、「時間がないのに」とか、
「洗わなきゃ」と思いながらする洗車は、
「外部からの圧力」による。
これは他にもいろいろなことに言えることで、
「誰かとどこかへ出かける」という行為にしても、
その人が好きで、一緒に時間を過ごしたい、という
場合と、面倒くさいし乗り気じゃないけど、
行かないと人間関係がギクシャクするから、とか、
みんなが行くから、という理由で行くのとでは、
同じ、「誰かとどこかへ出かける」にしても、
二者の体験する精神活動は、全然違うものになるだろう。
ただ、人間は、社会的な動物だから、多くの場合、
この2つの要素は作用し合っているので、どちらか
一つの要因、というのではなく、その2つの割合や
程度の違いによって分けられる。
ここで面白い話があるのだけれど、絵を描くことが
大好きな、子供がいて、その子はどんどん自発的に
絵を描いていくのだけれど、その子供の親が
喜んで、その子に、もっと描く様にと、お菓子やお金
などの物理的な報酬を与たら、その子は、だんだん
絵を描くのが嫌になって、最後にはやめてしまった、
と言うものだ。
こういう話は、しばしば聞くもので、実際にこういう事って
多いのだと思うのだけれど、この話は、もともと
その子が、絵を描くことそのものを楽しんでいて、
それはこころの内面から湧き出てくる
喜びだったのに、それが、外部からの報酬という
プレッシャーによって台無しになってしまった、という
分かりやすい例だと思う。お金などの報酬がないから
こそ、その子供達は絵を描くのが喜びだったのだ。
私たちが、今している活動の中には、嫌々している
ことがあるかもしれない。それが何で嫌かと言うと、
それは、「そうしないと困ったことになる」とか、
「面倒なことを避ける」(締切日や法律や、周りの
人間の期待や、プレッシャー)という「自分の
置かれた状況や環境のプレッシャー」が私たちを
動かしているからだ。
そうした全てのことを、なんとか楽しく、というのは
難しいけれど、その活動の中に、自分のこころの
内から出てくる楽しみを見出せたら、その活動はまた、
今までとは違ったものになってくるから面白い。
ちょっとした工夫や思考の転換で、それは見つかったり
して、その「己の華」が、生活を豊かにしてくれることに
なるかもしれない。
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コメント遅れてゴメンナサイ(><)
しばらくブログから離れていました。
本当ですね。仰せの通りだと思います。
恋愛関係において、一方的な「片思い」の
段階の思いは、自発的で、そこに大した
報酬などがなくても常に内なる動機に
よって続いていくのに、いざ「両思い」の
恋人同士の関係になってみると、そこには
様々な外的要因が発生して、内外の刺激の
バランスが崩れてだめになってしまう
ケースは少なくないわけで、考えてみると
皮肉なものです。これはどこか、
遠足の前の日が楽しかったことと
似ているような気がします。
そうですね。 内と外の程よいバランス
は本当に大切ですね。そして、程よい
バランスの内外の動機は相互に作用し合い
それ自体が一種の生態系のように一つの
システムとして続いていくのかも
しれませんね。
言うまでもなく、一方的に相手に恋するのは、最も主体的、自発的な現象でしょう。ところが、相手の存在が決定的に重要に現実的に関わってくる恋愛ということになると、主体的に相手を愛することを起因として、更なる愛情の深まりを相手から引き出す為に、相手の性格や行為態様の傾向として自ら分析し、予測した、相手を表象する観念的な枠組みに制限され、抑制的に自らの人格や行為態様を変化変容させられる側面は、多かれ少なかれ、生まれてくるでしょう。
やがてその抑制が、過酷になると、先ほどの絵を描く子供の例の如く、許容をこえた変革を自らに求められ、しまいには主体的な動機そのものまでも、失われてしまうことになるのでしょう。
内と外の程よいバランスと、更に主体的な動機を増やしたり、深めたり、強くしたりできるような外的要素、が平行して存在すれば、良好な恋愛関係を継続発展していけるのだと思います。そしてそのような二人の関係が、社会的に意味あるものであれば、周囲から賞賛され、更に様々な良好な人的要因も相俟って、ExternalOppression はInternal Motivation の更なる向上に逆に大きく寄与するものになるとも言えるのではないでしょうか。