京都三大祭の一つ、時代祭に行って来た。これで夏の祇園祭
春の葵祭と三大祭全てを制覇したことになった
行列は京都御所建礼門前行左折を12:00に出発して烏丸御池を経て
ここ平安神宮に14:30到着予定だ
当日はあいにくの小雨模様。晴天の日に見たかったナー
この時代祭は、平安神宮の創建を奉祝して京都市民あげて始められた祭りで
毎年京都の誕生日にあたる平安遷都の日、10月22日に行われる
この祭が京都の誕生を祝う市民の祭ということもあって
知事、市長、府議会正副議長、市会正副議長、商工会議所会頭、
時代祭協賛会会長らが名誉奉行を勤めている。この馬車はその先頭
行列は明治維新から平安時代へ遡る倒叙法で構成され
当初6列であった行列も、折々に遂次加増され、現在は20列
およそ2000余名の大行列となっている
平安神宮の行列の所では、ご覧の美人アナウンサーが、それぞれ
行列の解説をしてくれる
丁度、目の前にアナウンサーがいて、かなりその仕草が気になった
いよいよ明治維新時代が来た
都大路にくりひろげられる時代風俗絵巻は、見る者に祭という場の
華やぎや厳粛さのみならず、日本の歴史を振り返る面白さを伝えてくれる
維新勤王隊列
各時代行列に使用する衣裳や祭具の一つ一つが厳密な時代考証を
もとに作製された本物であるところにその特徴がある
♪ピーヒャラ、ラッタッタと軽快なリズム
明治維新になってからも、東北地方では、幕府方諸藩が激しく抵抗していた
鎮撫の為、丹波の国北桑田郡山国村(現在の京都市右京区京北町)
から官軍に参加した「山口隊」の姿に倣ったもの。
錦の御旗。官軍の旗印。赤地の錦に金色の日像、銀色の月像を刺繍した旗
朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に下賜するものであった。
維新志士列。御祭神孝明天皇100年祭を記念して
昭和41年に維新に活躍した志士たちの顕彰の列が加わった。
これらの志士は20~30歳代の青年が中心ということもあって
京都青年会議所が奉仕している。
桂小五郎(後の木戸孝充) 他にも西郷吉之助、坂本竜馬、中岡新太郎
杉晋作、七郷落(三條實美 久坂玄瑞など)橋本左内
吉田松陰など、幕末の英傑の列が続く。
近衛忠熈など公家の列。
本列も夫々往時の服装を考証したものである。
ここから江戸時代
徳川城使上洛列。
徳川幕府は、朝廷の重要な儀式などに将軍の名代として親藩
又は譜代の大名を城使そして上洛させた。大礼の時などは
1700人に及び、一般の大名行列よりずっと盛大で格式の高いものであった。
本列は人数を簡略化しているが、時代祭の中では最大の行列となっている。
豪華な駕籠や器具、先頭の奴の所作などに当時が偲ばれる。
徳川城使上洛列から江戸時代婦人列へ
ここでは江戸時代の京都で話題となり活躍した女性が登場する。
皇女「和宮」、孝明天皇の御妹君にあたられる方で
有栖川宮との結婚をあきらめ、「惜しまじな国と民のためならば
身を武蔵野の露と消ゆとも」と御歌を残し公武合体の為、
14代将軍徳川家茂に降嫁された。
他にも中村内蔵助の妻、女流歌人梶なども動画でお楽しみ下さい。
寛永の頃の名妓とうたわれた芸妓「吉野太夫」 打掛小袖に帯の盛装である。
出雲大社の巫女で、社殿勧進の為に入洛、念仏踊りを演じた「出雲阿国」
これが歌舞伎の起源とされている。
安土桃山時代の豊公参朝列。慶長年間、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が参内した。
「一日晴れ」と称される規定外の華やかな装束をまとった5名の大名の一人万田三成。
びんろう毛唐庇車とよばれる最高級の牛車。ビロウの葉で屋根をひいている
平安神宮の創建と同時にその維持母体として組織された全市にわたる
市民組織「平安講社」の皆さん。彼らがこの祭りを支える縁の下の力持ちだ。
応仁の乱の後、京都はさびれ果てていた。織田信長は永禄11年(1568年)9月
正親町天皇の召しに応じて兵を率いて上洛し
皇居の修復や街の復興に尽力した。この丸いのは馬印
信長に仕え、次第に頭角を現し始めた頃の羽柴秀吉
派手な兜で一段と目立っていた「滝川一益」
室町幕府執政列。この列は武家風俗を中心とするもので
当時の武士の軽武装姿を表現している。
足利将軍
子供がかわいいのでアップで撮ってみた 「童菊」
将軍補佐の大役で細川・斯波・畠山の三家(三管領)で交替で就任。
今年は細川氏
室町洛中風俗列。16世紀室町時代後半に経済力を
蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊り。
これが全国各地に伝わり、江戸時代以降の盆踊りの原型となった。
このアナウンサーはこのカメラを意識しているみたいだ。
側踊りの女性。奇抜な仮装や派手な衣裳で着飾っている。
吉野時代、楠公上洛列。楠木正成公一代の盛事といわれ、
多種にわたる華麗な甲ちゅうや武具が一目に見られるのが特徴だとか。
主将楠木正成か副将楠木正季。どちらかだかもうわからなくなってきた。
雨もこの頃はほとんどやんできた。
本当に鎧といい、兜といい、太刀といい、立派なものだ。
兵士も立派だ。
中世(平安時代後半から桃山時代)婦人列。
洛北大原から京の街へ薪や炭を売りに出たのがこの「大原女」
洛西の桂から、鮎や飴を売りに出たり、婚礼や出産の時に
祝詞をとなえる巫女などを業とした「桂女」
太閣秀吉の側室「淀君」桃山時代を代表する豪華な衣装をまとった外出姿
源義経の愛妾で悲劇の女性として有名な「静御前」 水干を着けた白拍子姿
鎌倉時代、城南流鏑馬列。狩装束射手武士を中心に郎党と従えた5組で構成されている。
藤原公郷参朝列。平安時代中期以降 藤原氏全盛期の王朝風俗で
宮中での儀式に参加する文官 武官の夏正装姿。
公郷(文官) この時代唐様式の影響が薄れ、日本独自の国風文化が成熟し、
強装束が起こり、大いに容儀が整えられた。
平安時代婦人列。建礼門院の雑仕女「横笛」
源義朝の側室「常盤御前」
牛若を懐に今若、乙若を連れて雪中六原に向かう外出姿
枕草子の著者「清少納言」の女官の正装と源氏物語の著者「紫式部」の略装姿
百済王明信と女官。平安朝初期の女官の正装姿
延暦時代の延暦武官行進列 桓武天皇の治世794年(延暦13年)に
平安京に遷都。この列は正倉院御物や古墳の出土品などで時代考証されている
東征を終えた征夷大将軍 坂上田村麻呂
矛持兵子
延暦文官参朝列
服装は身分によって色が定められている。最高位の浅紫の三位は
平安神宮に到着後全行列を代表して大極殿で祭文を奏上する。
時代祭の祭事にたずさわる神饌講社列。供奉する20人の水干姿の講員
この列は京都料理組合がその役にあたっているそうだ。
神幸列。この御鳳輦には前に孝明天皇、後に桓武天皇の御神霊が鎮まっている
比叡山に源を発する白川の流域に住み、季節の花を売りに歩くのを
業とする女性が白川女で、神前に供える花を頭にのせている。
時代祭終了のアナウンス。笑顔がチャーミングなアナウンサーだった。
所要時間は約1時間10分。壮大な時代絵巻。今回は予備知識も
殆どなく、帰ってきてこのブログお書いていて新発見の連続だった。
機会があれば次回は出発時点の京都御所でもう一度、見てみたいと今思っている。
(平安神宮)
平安神宮は、明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念して
平安京創始の桓武天皇を御祭神として創建され、その後
昭和15年(1910)に幕末の激動のなかで近代日本の礎を築かれた孝明天皇を
合祀して現在の輪奐が整えられ、京都総鎮守として崇敬されている。