スミダマンのほのぼの奮戦記

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明の十三陵

2019-11-13 06:07:43 | 旅 ~海外

明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等陵基群がある明の十三陵は

北京市の中心から約50km離れた燕山の支脈、天寿山の南麗にある。

一般公開されているのはここ定陵、長陵、昭陵の3つだ。

明の十三陵は中国最大の皇帝陵基群で成祖永楽帝以後の皇帝13代の

皇帝の陵基がある為、この通称となっている。

その中の長陵は成祖永楽帝、徐皇后、

昭献貴妃権賢妃の陵基で最大規模を誇っている。

定陵の陵門に行く手前にはそれなりにしっかりした

長屋風のみやげ物店が並んでいる。

到着した時はほとんど客がおらず、店員さんと身振り手振りで

のんびりとコミュニケーションを楽しむことができた。

ここで売っているみやげ物はとても安く、果物も豊富に並んでいた。

これは神功聖徳碑と言い、もともと入母屋造式の碑亭であり、

碑亭の四面にアーチ門が設けられていた。

清乾隆の時代に修繕の際、碑亭は取り壊されて壁しか残っていない。

この石碑は竜のような想像上の動物を

碑の頭部に浮き彫り亀の形を台座にする形で碑身に文字がない。

ここ定陵は第14代神宗万暦帝の陵基だ。

この皇帝(1573年~1620年)は在位期間が最長の皇帝で48年の長きに渡り、

贅を尽くし財をむさぼった歴史上に名を残す暗愚の君子と言われている。

昔、稷恩門があった遺跡跡。

この門は崇禎17年(1644年)3月に李自成をはじめとする

農民反乱軍によって焼き壊され、清乾隆50年に縮小再建されたが、

日本偽政府の時にまた焼き壊された。

こちらは稷恩殿の遺跡跡。

門と同じように石柱跡が残っている。

欄干の彫刻は竜と鶴で眼に迫ってくる。

この門は霊星門と言われ、天の門を象徴して、皇宮、壇廟などに広く使われ、

王権のシンボルとして、標識的な意義を持っている。

ガイドさんがこの木が花を咲かしているのを見て盛んに強調していたが、

いまいちその意味が分からなかった。

中国ではこの木を桂花というらしいが日本ではキンモクセイの木だ。

1959年に建てられた第一展室には

明朝時代の歴史、お宝などが展示されてある。

万暦帝と2人の皇后の画像。

金冠はすごい。

ブルーの冠は7匹の竜と7羽の不死鳥があしらわれているらしい。

丸形な構造で城壁に囲まれた宝城。

宝城の壁は全部レンガで造られている。

文化財には防火設備は重要だ。

火警の下に119番は偶然の数字か?

定陵は万暦12年(1584年)に起工し、

6年の歳月をかけて万暦18年に完工した。

白銀800両に及ぶ工費は当時の国家税収の2年分に相当したそうだ。

1956年5月に国務院の承諾を得て、試堀が始まり、1年間を経て発掘に成功した。

この発掘により内部は地下宮殿として公開されており、

玄室は前中後左右という5つの部屋に分かれ、

石を積み上げたアーチで支えられている。

総面積は362坪、出土した文化財は3000点あまりにもなる。

棺床には山となった紙幣が乱雑に積まれてあったのが印象的であった。

中殿には漢白玉の王座、後殿には万暦帝と

左右に2人の皇后の棺が安置されている。

又、色鮮やかな漆塗りの道具入れの家具が数多く置かれてあった。

ここには多くの団体観光客が訪れていた。

明の十三陵で唯一発掘されたのが定陵という希少価値性が

そうさせているのかもしれない。

明楼には「聖号碑」があり、碑首に「大明」、

碑の真ん中に「神宗顕皇帝の陵」と刻まれている碑の基座は

上が小さく下が大きくて、九層の方台からなり、

「九五の尊」を意味している。

定陵からはるか彼方には定陵よりずっと大きい他陵がうっすら見えた。

こちらは帰路に立ち寄った第二展覧室。

ここにもその当時の貴重な資料が展示されていた。

館内のみやげ物売場にはトランプ形式で54位の皇帝と

各臣の姿絵が展示してあった。

よく見ると最後の皇帝、各臣の姿だけは写真が使われている。

ひょっとして清朝最後のラストエンペラーかもしれない。

 


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