55.世界の哲学者に人生相談 ①
ニーチェ 最悪の敵 2017.08.28
『この世で闘わなければならない敵はたった一人。自分なのだ。』
「永劫回帰(または永遠回帰)」もニーチェの根本思想として知られています。
永劫回帰の考え方は、「世界とは終わりを迎えるものではなく、何度も繰り返されるもの」です。
永遠に繰り返されるものならば、自らがもう一度歩みたいと思える人生を送るべきだと説いています。
Once Upon A Time In The West
55.世界の哲学者に人生相談 ①
ニーチェ 最悪の敵 2017.08.28
『この世で闘わなければならない敵はたった一人。自分なのだ。』
「永劫回帰(または永遠回帰)」もニーチェの根本思想として知られています。
永劫回帰の考え方は、「世界とは終わりを迎えるものではなく、何度も繰り返されるもの」です。
永遠に繰り返されるものならば、自らがもう一度歩みたいと思える人生を送るべきだと説いています。
Once Upon A Time In The West
56.世界の哲学者に人生相談 ②
アラン 幸福論
世界三大幸福論のひとつであるアランの『幸福論』は、“哲学を文学”に、“文学を哲学”に変えようとす独特の文体によって日本でもファンが多く、学生からビジネスマン・経営者まで幅広く親しまれてきました。
どんな環境にあっても、ものの見方や心の持ちかたを変えることで幸福になれると説くアランの言葉と通じ合う写真もお楽しみください。
「この世の中は、自ら求めようとしない人には、なにも与えてくれない」
「あなたは幸せを自分の中に持っているはずだ」
「自分を愛してくれる人たちのためにできるいちばんいいことは、
自分自身が幸せになることなのである」
Si tu reviens - Rina Ketty
積極的幸福
57.世界の哲学者に人生相談
③ ボーヴォワール 別れの儀式 2017.08.28
1908年1月9日パリ生まれ。父は控訴院判事、母は司書、家族は敬虔なカトリック信者であった。
若い頃から文学を志し、1926年家族の反対を押し切ってソルボンヌ大学哲学科に身を置いた。
そこで”事実上の”夫となるサルトルと出会う。1943年に最初の小説「招かれた女」を発表、サルトルと並び実存主義作家の代表として機関紙『レ・タン・モデルヌ』で活躍した。
その後1949年に代表作となる『第二の性』で一躍注目を浴び、現代フェミニズム運動の先駆けを担うとともに、1954年、
『レ・マンダラン』でゴンクール賞を受賞し、フランス文壇の第一線で活躍を続けた。
1966年9月、サルトルとともに来日。東京、京都、広島を回り、知識人の役割や女性問題について鋭い意見を述べ、一ヶ月の滞在ではあったが日本の思想界に大きな影響を与えた。
1986年4月14日、78歳にて没。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。
君に捧げるラブソング
「契約結婚」 自由選択 別れの儀式
58世界の哲学者に人生相談 ④
サルトル 実存主義 2017.08.28
サルトルの実存主義は「実存は本質に先立つ」、つまり人の本質は元々備わっている訳ではなく、
個々としてなりたいものになるために選択と行動を通して現実化するもので、それは「人間は自由だ」ということを表現している。
実存主義とは、19世紀のヨーロッパにおいて誕生した、「生きる道を自分で切り開く、今ここにあるひとりの人間の現実存在(=実存)としての自分のあり方」を求める思想です。
Iggy Pop - Et si tu n´existais pas
実存主義
索引 高梁備中松山城
国指定重要文化財の備中松山城は「現存12天守」の一つで、天守が現存する“唯一の山城”です。
標高430mの臥牛山小松山山頂にそびえ、9月下旬から4月初旬(とくに10月・11月)には雲海に包まれる幻想的な姿を見ることもでき「天空の山城」とも形容され親しまれています。
松山城
2.備中松山城紀行 2014.05.03
備中松山城紀行
鎌倉時代~室町時代~戦国時代~江戸時代~現代の城の流れをみる
臥牛山に初めて城を築いたのは、一二四〇(延応二)年、相模(さがみ)(神奈川県)の豪族(ごうぞく)だった秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)と言われている。
秋庭氏は承久の乱(1221)で鎌倉幕府方として戦い、その功で有漢郷(うかんごう)の地頭となった人物であり、この時の山城は簡単な砦であったとされている。
それが大松山の城跡
秋庭氏五代の後、元弘年間(二一三二~三四年)には、高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうさえもんむねやす)が備中の守護となって城をひろげ、
高橋氏三代のあとは秋庭氏七代、上野氏三代、庄氏三代と栄枯盛衰を重ねたと伝えられている。
一五六〇(永禄三)年、成羽の城主三村家親が毛利氏の援軍を得て庄氏をくだし備中松山城主となったが、
この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになった。
備中兵乱によって三村氏は滅(ほろ)ぶが、この時の松山城は、本丸は小松山に移っており、
臥牛山一帯には大松山をはじめ三本松・天神の丸・相畑・左内丸・馬酔木丸などの砦二一丸が築かれており、
臥牛山全体が難攻不落の城塞となっていた。
備中松山城は重要な戦略上の拠点であったばかりに、中世には絶えず血生臭い争奪がくり返されたのである。
三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の備中支配の拠点となった。
織田信長の支援を得た山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が尼子勝久を立てて播磨の上月城
(兵庫県)で兵を挙げ、これを討つため毛利氏が出兵したが、この時、毛利輝元は松山城に陣所を置いている。
毛利氏に降伏した山中鹿之助が無念の最期をとげたのは、松山城へ護送される途中の阿部の渡しであった。
毛利氏は関ケ原の戦ののちに備中から後退し、備中国奉行小堀遠州(くにぶぎようこぼりえんしゆう)が松山城を守った。
一六一七(元和三)年には池田長幸(いけだながゆき)が六万五千石で松山藩をたてたが、その子長つねみずのやかつたか常に子どもがなく、一六四一(寛永一八)年には絶えてしまった。
翌年には水谷勝隆が五万石を与えられ成羽から入城した。水谷勝隆の子勝宗(かつむね)の代になって、幕府のゆるしを得て松山城の大修築(だいしゆうちく)が行われた。これによって、現存する二重櫓をはじめ、
大手門(おおてもん)、二の平櫓、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所)、足軽番所などが新たに建てられ、松山城が完成した。しかし、水谷氏も三代で子どもがなかったために、一六九四(元禄七)年家が絶え領地は取り上げられた。
その後の松山城には安藤重博(六万五千石)、同信友、ついで一七一一(正徳元)年から石川総慶(六万石)が入城した。最後の松山城主は、石川氏にかわって伊勢の亀山(三重県)から移って五万石を領した板倉氏であった。
板倉氏は、一七四四年、旧防守勝直が入城してから明治にいたるまで七代一二五年間続いたが、とくに、七代目勝静は江戸幕府の老中という重い役について将軍徳川慶喜を助けて国の政治にたずさわった。
6.備中松山城 春休み 2021.3.31
国指定重要文化財の備中松山城は「現存12天守」の一つで、天守が現存する“唯一の山城”です。
標高430mの臥牛山小松山山頂にそびえ、9月下旬から4月初旬(とくに10月・11月)には雲海に包まれる幻想的な姿を見ることもでき「天空の山城」とも形容され親しまれています。
Mr. Acker Bilk - La Paloma
7.備中松山城 春休み 後編 2021.3.31
Mr. Acker Bilk - La Paloma
備中松山城 天守
山田方谷
2016年 真田丸タイトルシーンに使われた。
高梁国際ホテルでランチタイム
泰たい立寺薬師院
城郭のような高い石垣に囲まれた真言宗善通寺派の寺院。映画「男はつらいよ」のロケ地にもなった。
高梁駅蔦屋書店から備中松山城を遠望できる