2.備中松山城紀行 2014.05.03
備中松山城紀行
鎌倉時代~室町時代~戦国時代~江戸時代~現代の城の流れをみる
臥牛山に初めて城を築いたのは、一二四〇(延応二)年、相模(さがみ)(神奈川県)の豪族(ごうぞく)だった秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)と言われている。
秋庭氏は承久の乱(1221)で鎌倉幕府方として戦い、その功で有漢郷(うかんごう)の地頭となった人物であり、この時の山城は簡単な砦であったとされている。
それが大松山の城跡
秋庭氏五代の後、元弘年間(二一三二~三四年)には、高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうさえもんむねやす)が備中の守護となって城をひろげ、
高橋氏三代のあとは秋庭氏七代、上野氏三代、庄氏三代と栄枯盛衰を重ねたと伝えられている。
一五六〇(永禄三)年、成羽の城主三村家親が毛利氏の援軍を得て庄氏をくだし備中松山城主となったが、
この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになった。
備中兵乱によって三村氏は滅(ほろ)ぶが、この時の松山城は、本丸は小松山に移っており、
臥牛山一帯には大松山をはじめ三本松・天神の丸・相畑・左内丸・馬酔木丸などの砦二一丸が築かれており、
臥牛山全体が難攻不落の城塞となっていた。
備中松山城は重要な戦略上の拠点であったばかりに、中世には絶えず血生臭い争奪がくり返されたのである。
三村氏滅亡後の松山城は、毛利氏の備中支配の拠点となった。
織田信長の支援を得た山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が尼子勝久を立てて播磨の上月城
(兵庫県)で兵を挙げ、これを討つため毛利氏が出兵したが、この時、毛利輝元は松山城に陣所を置いている。
毛利氏に降伏した山中鹿之助が無念の最期をとげたのは、松山城へ護送される途中の阿部の渡しであった。
毛利氏は関ケ原の戦ののちに備中から後退し、備中国奉行小堀遠州(くにぶぎようこぼりえんしゆう)が松山城を守った。
一六一七(元和三)年には池田長幸(いけだながゆき)が六万五千石で松山藩をたてたが、その子長つねみずのやかつたか常に子どもがなく、一六四一(寛永一八)年には絶えてしまった。
翌年には水谷勝隆が五万石を与えられ成羽から入城した。水谷勝隆の子勝宗(かつむね)の代になって、幕府のゆるしを得て松山城の大修築(だいしゆうちく)が行われた。これによって、現存する二重櫓をはじめ、
大手門(おおてもん)、二の平櫓、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所)、足軽番所などが新たに建てられ、松山城が完成した。しかし、水谷氏も三代で子どもがなかったために、一六九四(元禄七)年家が絶え領地は取り上げられた。
その後の松山城には安藤重博(六万五千石)、同信友、ついで一七一一(正徳元)年から石川総慶(六万石)が入城した。最後の松山城主は、石川氏にかわって伊勢の亀山(三重県)から移って五万石を領した板倉氏であった。
板倉氏は、一七四四年、旧防守勝直が入城してから明治にいたるまで七代一二五年間続いたが、とくに、七代目勝静は江戸幕府の老中という重い役について将軍徳川慶喜を助けて国の政治にたずさわった。
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