7 藤田一郎先生から学んだこと(生徒指導手帳(閻魔帳)の件)
校風の成せる技か!当時の記憶を辿って綴ろうとしている。過ぎ去った諸々の事柄は次第に美化されていく、と言われている。私の脳裏にはっきり刻印された記憶があります。それらをランダムに書き出そうと思う。高校生の指導者として、7年私学東山学園、10年府立東宇治高校と17年を経過して、新たな環境に身を投じることとなって、新鮮で、強烈な印象は後々までも記憶として残るのである。その1つ1つを可能な限り映し出そうと試みる。私が教育大学附属高校保健体育科の一員として、体育館二階の教員控え室で過ごす中の出来事、職員会議が月に一度の開催である。その会議は、私から見れば 議論のやりとり にうんざりしていた事が印象として大きいかった。そんな職員会議を終えて、控え室に戻って来て膨大な会議資料を次々と破り捨てている 藤田一郎氏 私はその様に怪訝そうな顔を見せたと思う。間髪入れず!彼は、会議資料などは残す必要はない、中身は頭に入った。従って会議資料は持っている必要は無い。従って破り棄てているのだ。これまでの経験ではファイリングして残して置くのが一般的であった。丁寧にファイルした過去の会議資料をどれだけ、後々活用してきたのか考えて見ることで自ずから答えは出る。万が一必要なときが来ても、職員会議所管の教務部が学校として会議資料を保管して置く部署があるだろう。必要なときはそれを参考にすればよい事になる。と藤田氏は持論をはきつけるのである。なるほど考えてみれば正論である。大いに賛成だ!
だがしかし、その後も私は膨大な時間を費やして毎年ファイルを作り続けた。いつも藤田氏の考え、姿勢を理解しながら私はそれでも作り続けたのである。自分の納得のためにやり続ける、何かしら頑固さを発揮していた。
話は変わって、その藤田氏が全日本サッカーの立場として海外へ数ヶ月出かける時期があった。彼が受け持つクラスは休講にする事いつさい無しで、生徒達自身の管理で授業が流れていくのである。しかもたまたま私の担当する講座と同時開講の時には、私の講座の授業の雰囲気よりも、はるかに整然と熱心に授業が進行している不思議に感心させられたのです。
さて、見出しの本題にやっとことで入ります。そんなこんなで、藤田氏の生徒コントロール力の秘密を探り当てる努力が、私の中で始まりました。そこで、1つのきっかけとして(生徒指導手帳→俗には閻魔帳と言われてる)ある時、大先輩の藤田氏の机上に乱雑に置き去りになっていたとき、良くないこととは知りながら、パラパラとページを繰って覗いたのです。何と、その中身は数字でなく文字ばかりであったのです。普通、実技テストの点数や数々の小テストの点数やA、B、C等が記入されているのだが、彼の閻魔帳にはそれらしい記述が無く、ひとりひとりに対するコメントや個性などが書かれているだけであったのです。 彼、藤田氏はどちらかと言えば個人克服種目を指導している場面は、極少なく、球技種目が大半であったと振り返ります。特に専門のサッカーには多くの時間を費やしていたように思う。それと、藤田氏が海外遠征時にはバレーボールであった振り返ります。試合中心で試合の流れをずっと追いかけ、試合後の長い時間の分析をひとりずつ細かく取り上げて、次の試合での奮起を誘い出すと言うのが特徴であった。心理分析ともちろん技術分析を併せて、個の心理状態や技術レベルを容赦なく指摘と、遠からず当たっている生徒達が夢中で動いている、混戦中の心理状態をあぶり出し、その人間性の一面を、今後来るべき個人の晴れの舞台での闘いぶりを、今とだぶらせて個人を評価するのである。辛口の中だが、もちろん、彼ら虚栄心と自負心の殊の外大きい彼らの心理を決してそらさないコメントを容赦なく出し続けるのである。まさに、藤田一郎氏勝負時である。 藤田氏により、まな板の上で徹底して料理された彼らは痛快でもあり、次の機会には何としても、藤田と言う指導者の鼻を明かしてやろうと、密かに決意するのである。何ともはや、見事に作戦成功である。ことわって置くが、一回の授業では5人から8人くらいだろうか、まな板の上で料理されるのは、他の生徒の心理状態は、僕の場合はどのように料理するのか、それこそ、楽しみにその時を待つ心境にさせている。不思議で高等なテクニックと言える。それで、合点が行く、昔、附属高校では生徒の評価を、この様に点けているのだと 耳にしたことがある。生徒ひとりひとりの顔写真を見て、点数を決定していくという方法である。まさに、それは藤田一郎方式である。納得せざるを得ない環境と雰囲気が醸し出されている。理想に近い方法である。仕事師的発想であり、サラリーマン的発想では成し得ない、出来得ない方法である。まさに教育実験校だからこそ可能となることではないか。 彼は、抜群の力量を備えた心理学者であるからこそ、学校経営者としての力を発揮する場面を嫌っていたと表現するのがあっているだろう。大きな要素に、日本サッカー協会の立場が邪魔をしたと言っても過言ではない。1附属高校の行方ごときに心を砕く意味を感じてなかったのが答えでは無いか。私は一足早く附属から転勤する事とした。彼もまなし日本サッカー協会に身を置く様になったのである。
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