びわ湖・勝手気ままな日々!

温故知新!大切ですね、次代に生きる方々の知恵と活力となります。令和時代を健康で楽しみましょう。

如月12日(水)眺め白っぽくてスッキリはしない。管理事務所での地元新聞を探索!を、

2025年02月12日 | 日記

桐生選手を追い越す選手の出現の記事・・

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こほくの子白鳥の群れに一羽の黒鳥が、御一緒の様子・・

 

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 去年久しぶりに台湾南部の高雄より更に南、屏東にマンゴウ栽培の研修に1週間行きました。ので・・母や母の父親や母の嫁ぐまでの奥野家が高雄の吉井百貨店の関係で母は16歳から21際迄・台湾第二の都市高雄(カオシュン)市や隣接の屏東(ピントン)で充実した生活を送っていたのです。滋賀県長浜市出身の吉井長平氏と三人兄弟が日本が50年統治していた間に、近江商人の台湾・高雄市を中心に大きな商い(あきない)をして、高雄市の市会議員等にもなり、台湾の発展に活躍された。1941年には、高雄市に五階建てビルの吉井百貨店を立てるまでの発展であった。母の父親の奥野捨次郎が、吉井百貨店の建築責任者であった事もあって、奥野家の子供は女四人男四人と現代では大家族、残念ながら男四人の長男だけは当時生き残られたのですが、あとの三人は戦死と病気で無くなり、女四人は長女が滋賀県大津、の瀬田の唐橋の近くの安土家へ嫁がれ、次女の民子さんは台湾で結婚され、ピントンの吉井百貨店の支店長夫人となられた。三女の奥野美江子が、私の母で、高雄市の吉井デパートと屏東(ピントン)の支店でお手伝いをしていたようです。四女の信子さんも台湾で親戚関係という事で、1945年日本敗戦で関係者全員、帰国されたと言う事です。・・話は大きく飛んで、母が亡くなって後、台湾関係のアルバムが遺品としてあり。母の弔いを兼ねて、アルバムの写真をコピーして、台湾へ持参して奥野家関係者、母の知り合い、もちろん吉井百貨店と関係者をさがしまわりました。合計、数えて見ましたら十数回もの多くを、高雄市・屏東市を訪ね歩きました。高雄市の新聞にも「母を訪ねて何回も、何回も」載せてもらったのも思い出です。又、私のBlogを高雄の大学教授プロジェクトチームが、あなたのBlogに載っている写真を本に使いたいとの依頼が来たのをきっかけに、是非次回台湾に来られた際にプロジェクトメンバーとの会食をと招待させて頂きますので、是非・是非おいで下さい。台湾で活躍された日本人という本も出来上がり。当方にもその本は贈呈して頂きました。そんないきさつがあるがゆえに・・下の新聞記事には、しばらく目が離せませんでした。のです。長く成りましたが、まだまだ一杯の、思い出話があります。母の連れ合い(吉田武治)も、台湾旅行もいった記憶はあります。・・

     

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新聞記事に戻って・・

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     大阪万博の話題の入場券・・

     

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          以上・・

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=今日の万歩計= 

3515歩・2.6km・燃焼脂肪7g・総消費量1349kcal   現時点

 

「スマホ嫌 落ち着かないで 追い立てられ」

「活字への 郷愁を 動かない」 

「人生の 晩年なのに 落ち着けず」  

「流されず 眼で追えずして じっくりも

 

=1年前の今日のブログから思い出す=

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