すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

猪の解体その2

2017-01-25 | 日記
解体って
お腹を開くって
ドロドロでぐちゃぐちゃで血みどろのスプラッタなのかと思ってた。

それは勝手な思い込みだった。

血は血管に
細胞液は細胞膜に
食べた物は消化器官に
収まっている。
だから全然汚れてなんていない。


内臓(心臓とレバー以外)は犬のために川で洗いながら細かく切っていった。

肺は大気を吸って体中の血管に酸素を送り込むために
気道から枝分かれして
さらにさらに細かく分かれて
大きな木のようだ。


胃は大きな革袋
開いてみるとほとんどが草の繊維と
溶けかかったカエルが1匹 確認できた。

腸に近くなるほど壁が厚くなり
中身はトロトロになっている。


心臓は
あぁ、昔 理科の教科書で見たやつだ
ハート形
宗教画の宣教師の胸に あるやつだ。

強いやつだ。見るからに。
強くて美しい働きもの。
生を受けてから死ぬまで
休みことなく鼓動を打ってきたんだな。


どこをとっても
機能からできあがったカタチ


あぁ
哺乳動物である私たちもきっと
こんなふうになってるんだな と
おもいながら。

それは
普段は見ることができない私たちの
違う視点からの姿。


宇宙飛行士が大気圏を出て
引いて引いて
マクロの視点で
地球を見たときに
あぁ、私たちは こういう姿なんだ・・・!
と、思ったかもしれない。


逆に中へ中へ近づいて
ミクロの視点になったとき
感じることは、どこか近いのかもしれないな。



これは なんだ
こんな精巧なしくみ
だれが 創ったんだ

そして これはロボットみたいな「装置」ではなく
どこにもスイッチなんか ない。

これを
動かしていた のは

なに?



そしてそれは

どこへ行った?



それは
ここにある「これ」と

おなじもの。

猪の解体

2017-01-24 | 日記
先日、はじめて猪の解体に立ち合った。


後ろ足をガレージの梁に吊るして
私の背丈くらいになる大物、雌。
70kg位と猟師さんは言っていた。


近くに繋がれてる犬のコマは
もの言わぬナゾの巨体に向かって
威嚇してずーっと吠えている。




私は食わず嫌いなところがあって
経験したことないことをすることに
いつも躊躇する。


解体とか、今まで
どちらかといえば見なくていいかな、と思ってた。

でも今回は解体を頼もうとしたケンタロー氏が旅中だったので
うちでやることになったのだ。



昼の仕事が終わってからの、夜中の解体。

小さな包丁で
内蔵を傷付けないよう、慎重に腹が割かれていく。

包丁が上(下腹部)から下(喉元)までいったとき
切込みの隙間から見える大腸が
青白く磁器のようにライトに照らされていた。


お腹を開いてもなお
臓器たちは
それぞれの位置に納まっている。

整然と配置されているさまに
秩序という言葉が浮かんだ。



分厚い皮の内側に
そっと手をあててみたら
まだ暖かかった。


生きていることと死んでいることの
境界ってほんとはこんなにゆるやかなんだ。


外の世界から酸素と有機物を取り込む入口~
老廃物を排出する出口までの
さまざまな器官を
傷付けることなくまるごと取り出しにかかる。


臓器は大きなまとまりで薄い膜で覆われていて
さらに膜のようなものやレースのようなもので
体の内側に吊るされている、というほどスカスカでもなく
固定されている、というほどキチキチではないし
繋がっている、というほどハッキリしてない。

内臓と、体のあいだってのはこんなに自由度があるんだ、
だけどその位置はちゃんと保っている。
すごい絶妙なしくみ。


臓器と体の繋がりを外していくとき
ライトを近づけ手元を照らす。
覗きこむと体の内側の壁が白い洞窟のよう。


繋がりを全て外してから
そーっとゆっくり傾けていき
20ℓのバケツに受けとる。
バケツいっぱいに、ズッシリきた。


コマの方からは切っているところは見えないので
相変わらず吠えていたけど
肉の切れ端を投げてやると
パクッと食べて
・・・あれ?・・・こ、これは・・・?! という顔

それきり静かになり
目がキラッキラに輝いてる。
コマにとって
「外敵」から「お肉♥」に変わった瞬間だった。



内蔵を取り出し皮を剥いでいくと(これも時間かかった)
私たちにとっても食料としての肉になってきた。


空になったお腹の中を覗くと
脊椎と肋骨が船底のようだった。


つづく












日日是好日

2017-01-20 | 心で生きる
11月半ばからブログ止まってました、
というのも


日々がなんだか毎日濃くて
一週間が一ヶ月いや二ヶ月くらいの内容で
じっくり書くタイミングがなかったり
12月は体調不良が来て調整中だったり


年明けから復活したものの
今度は
ノートパソコンを閉じるの忘れて寝たら
猫たちが夜中、大運動会して
朝起きたら
見たことない画面になってて
それからいろんな操作ができなくなってます。_(-ω-`_)⌒)_

( でこれは普段使わない慣れないタブレットから書いてます)




日々 いろいろな気付きがありますが
書けなかったのは

すごいきれいな夕日を見た時に

あー…
とても表せないや

と、カメラに撮るのを諦めるみたいな感覚に近くて



とても追いつけない

私の言葉では。




∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞




去年の春
八方塞がりな
行き詰まりを感じて

私の中のにある
◯◯ねば、◯◯べき、を
ひとつずつ意識上に上げて
捨てれるものから捨てていく作業をした。

ほんとはどんな自分になりたいのか。
こんなもんだろう、と自分を小さく見積もって
叶う前から諦めてる私がいた。


どんな些細なことでも
どんな馬鹿げたことでも
すくい上げて
私のことを聞いてあげた。


世間から見て ではなく
私はどう感じるか、を基準に。


そういう「練習」だと思ってやってた。
ひたすら黙々と自分を肯定する作業。

そしたら
いつしかそういう姿勢が身に付いてきた。



それからが
濃ゆくて

どんどん加速してる気がする。



気が付いたら
私の住んでる世界が
ガラッと変わってた。




優しい。



誰より先に
自分で自分を大事にしたら
セカイはこんなに優しいのかーーー(゚O゚)



セカイって客観的なものではないんだなぁ って最近おもう。
同じものを見てても
隣の人には隣の人のセカイ

ものごとはただ起きていて
それぞれの「反応」で世界が作られていく。
それぞれの内面にあるものが反応してる。
結局は何を見ても自分が映ってるだけだ。

これは例外なく。









毎日
来る日来る日を味わっている。

何も持ってはゆけないから。

あとには
何も
残らなくていいのかもね。
まぁ だからキュンとくるのだ。(っ*´ェ`*c)



にちにち これ こうじつ