すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

はじめから ほんとのほんとは愛のなか

2019-02-28 | サンガ
人は名前を付ける

人は意味を付ける




あれは夕陽、赤い

あれは空、青い


どこまでが夕陽で
どこから空なんだろう


どこまで赤で
どこから青?



どこまでが空気で
どこからが息?



どこまでが細胞で
どこからが私?








「私」が落っこちたとき

「意味」が落っこちた


区切りのない認識だけがあった






「あるがまま」ってこれのことかーーー



そりゃわかんなかったわ(*´Д`)




「私」はわかるわけがない

だってそこに「私」がないのだから








あるがままのいのちが

あるがままに生きているところに

なぜか「私」という思い込みが現れている





「私」という思い込みが

「私」を守ろうとする習性?が

すべての苦しみのもとだった



「私」は幸せになりたくて
幸せになりたいがために
私の周りに壁を築くから
不自由しか知らない


「私」は幸せになりたくて
愛を求めて
求めるがために
不足しか知らない



でも
はじめから
ほんとのほんとは愛の中








私が落っこちたとき
すべては生きていて
かってに生きていた
区切りなく
いのちだった
そこに苦しみはなかった






苦しいなら
「私」を握りしめてる証拠

放したらいいんだけど
「私」が放すことはできない

私がいないところに私が行こうとするのは不可能だ



だから諦めて

ただ止まって

静かに

呼吸とともにいてみよう



「私」は諦めるしかないけど
体は還りかたを知っているから





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誰でもない自分

2019-02-25 | サンガ
これでもか
これでもか というくらい
自分のこだわりが
ひとつ捨てたら
また ひとつ
出てくる出てくるw


こだわり、
思い込み、執着ですな




抵抗すればするほど苦しいけど
放してしまえば
なんてことない
それだけ自由になる

なんだけど毎度毎度
自分内大騒ぎなのだ 

ウケる




*******




数日前の夕暮れ時

薄暗い廊下で
ストーブの灯油をひとりシュポシュポ入れてたら


入れてたら



(これは言葉であらわせないこと承知の上で書くけど)




ただ

それだけがあった




それっていうのはその景色、私も含めたその景色で、

そこには「私」が抜けていた


灯油を入れている私、
いつも私が私と呼んでいる私がいなかった・・・


「あれ、、、?」

「あ、、、、、」
「これ、、、、、、」


それで
いちばんの最初に出てきた思いは

「あぁー

よかったぁぁぁーーーーー」



だったんだ



深い
ふか~~~い
安堵感




「私」がやってるんじゃなかったんだ・・・

ただ
そのように
起きている・・・



「私」が実体のないものなら
誰も実体がないのだった


私とか誰かとかない

(あ~、言葉に書くとオカシイよね(^▽^;))







半年前のあの海でも
同じの経験があったけど
あの時はなんでそうなったかわからなかった

「私」が落っこちたからだったんだ





いつも禅のメッセージを聞いたり読んだりしてるから
それがガイドになってくれた
(そのおかげでこれが起きたっていう意味じゃないよ
起こったことの説明になったってこと)

これが

ほんとのリアル



その上に
人はそれぞれ「解釈」を持ち込む


解釈がつながって
人生というストーリーになる





誰でもない自分は


安心していて

生を享受していて

楽しんでいる・・!

とてもエネルギッシュなんだ




これは「私」がそう「しよう」としてできることではなく

「私」が落っこちたときに訪れる
というかもともとそうであるのが現れる 




おかしなことと思われるかもしれないけれど
なんか引っかかる・・という人に読んでもらえたらいいな



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ただの日記

2019-02-19 | 日記
言葉は何の 役に立つんだろう

こうして文字を打って
伝えたいことは何だろう



うちは核家族で
家には仏壇も神棚もなかったけれど
子供の頃から
宗教的なものにどこか惹かれていた


法事で行ったお寺で見た地獄絵図が恐ろしくて強烈で、忘れられなかった

寒い日、祖母について行った教会の
石油ストーブで暖かい部屋で
牧師さんと祖母が話してる間、退屈してたら
陶製の小さな人形をもらった
お祈りをする男の子と女の子が対になった人形だった

近所の歴史好きのおじいさんが教えてくれた隠れキリシタンの話にひかれた

18,19の頃はキリスト教や仏教に関する本をいろいろ読んでみた
けどどれも難しくてよくわからなかった

10代後半から20代前半は
強い虚無感がいつもついてまわり
アパートに訪問してきた近くの教会の信者さんのお誘いに応じて
日曜の礼拝に行ったこともあった
行ってみたけど探してるものはここにはないという気がして続かなかった

聖書も読んでみた
般若心経も読んでみた
けどやっぱりよくわからなかった

宗教というより
宗教が指し示しているものは何なのか?に興味があった



絵でも立体でも
祭壇のような
額縁のような作品をよく作ったけど、
いつも
縁どられ奥まっているその真ん中は、空っぽだった
その中心には何が入るんだろう? ってわからないままだった


だけどやっぱりそこに入る“モノ”はないんだと
光が漏れる仕掛けを作った

暖かな家の光だったり
暗い森のなか木々の間から差す光だったり



そうやって
長いこと
憧れていたんだな、、

いつかどこかで
光のきわまで行けるときを
待っていたんだな、、、

待っている、その姿勢こそが遠ざけてるとも知らずに






言葉は額縁のよう
けして“真ん中”は表せない


縁どるだけ
いくらたくさん言葉を使って説明しても
周りを縁どるだけ




私とは何か






存在とは何か






額縁の真ん中の空白は
いま
固定できない、全体
リアル

であって
真ん中の空白は普遍的な
永遠


外側の額縁こそは
カタチはあれど移ろうもの
朽ちゆくもの






いつか光がやってくるんじゃない
いまの
これが
光だ




私とはなにか



この問いは単なる入り口


答えはただ


体験のなかにある




いまここに既にある



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芽吹きの気配

2019-02-10 | 日記
2019年明けて
早くも1月がとうに過ぎ・・・


この10日ほどは風邪が長引いて引きこもり気味だったけど
やっと回復


気がつけば
お山でも
水仙の花が咲き
梅の花が咲き、、

まだ寒いけど、どことなく瑞々しい(みずみずしい)気配というか
空気の中に滴る(したたる)感じがあって
地上に芽吹きのエネルギーがみなぎってきている

春はもうすぐそこだ





今日、突然の訃報が届いた
十年来、マッサージをさせていただいていたTさんが亡くなられた

お通夜に行き
お別れをしてきた



約11年間、毎週病室に通った
TさんはALS(筋萎縮性側索硬化症)だった


はじめて病室に行ったときは
病棟内のあちこちから聞こえてくる人工呼吸器の音にビビった

なんかすごいとこ来ちゃったよ・・(@_@。っておもった
初対面で人工呼吸器で
話せない体も動かないおじさんをマッサージするって・・💦
めちゃくちゃ緊張した


声が出ないから、意思疎通は
はじめの頃はパソコンや
口パクを見て動きを読んだり(表情筋は動かせた)
50音表の文字を指して繋げていったり

病気の進行に合わせて変化していった




声を失ってから
障がい仕様のパソコン(右手の拳がかすかに動くので、グッと力を入れたときにピクッと動く腕の「筋」にセンサーを繋げて、選択・決定で入力できる)を覚えられ
はじめの頃はブログも書かれていたし
メールでやりとりもされていた


体の機能が少しづつ失われていくのには
段階があって
その変化の「時」というのがついに来たとき、
その時の
凄まじさ


入力がうまくできなくなったとき
とにかく来る日も来る日もずーーーーーっと
練習されてた

そしてとうとう
あるとき
練習が終わる

そんなとき
誰もそこには触れなかった
機械もそのまま
しばらくは使えるようにしてあった

そして静かに
その手段は終わり

しばらくすると
また別の手法(機械)を導入し
新しい方法を習得された

それも
また使えなくなる日がくるのだけど
その日がくるまでは
できることをいつも精一杯されてた



ふりかえってみたら
Tさんと過ごした時間は

Tさんのその時その時
いろんなとき

私のその時その時
いろんなとき

ふたりのいろんな時々で
響きあっていたのだろうか

いいトキばかりではなかった
不協和音のトキもあった

それはまるで鏡だな―って今は思う
ふたりが不協和音の時は
既に不協和音でいっぱいの私がいたもの
(その時は気付いてなかったけど。
すんごい頑張ってたけど。
頑張りの方向が間違ってたなーー 笑)



最後のころは
病状が進行して
苦しいに違いないはずだけど
表情は穏やかに
朗らかな日が多かった

表情筋の動きも鈍くなって口パクもほとんどわからなくなってたし
50音表の文字盤使ってのやりとりも
うまくできなくなってたけど
なぜか言わんとしてることがこちらもわかったりして
そんな時
「当たり!?すごくないですか私!?」とか言ったら
ホッホッホッって満面の笑みがこぼれた
声は出ないけど、今にもそう聞こえてきそうな笑顔だった




言葉ではあらわしようもないものを
たしかに
しっかり
頂いたんだなって思う






今日のお通夜でTさんの身内の方が話してくださったこと


10年くらい前
私がちょうどマッサージに行きはじめた時期のこと
Tさんの妹さんに、Tさんからメールがきたそうだ

「いままで僕は
なんともったいない生き方をしてきたことか
これからどんなことが起こるか 
ワクワクしている」



進行性の難病に侵され
肢体の自由がすべて失われ
声も失ったあとのTさんが、だ



その言葉を今日、聞けたこと
ほんとにほんとに
うれしいギフトだった

その言葉の発信源なるものが
この11年間のTさんの
生きざまの
底のほうから光輝いて
照らしてる気がした

ちょうど暗い海底にいて
波の陰から陽の光が挿すように
苦しみの底のほうから光が挿しているような

そんな感じ



大切なことは
けして見えない
表せない

ただ
それを
生きるのみ




Tさんに心からの
おつかれさま を




ありがとうございました











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