ナビのアナウンスのままに、尾根筋から急な道を海岸に下ると小さな入り江が待っていました。
周囲に人家が全く見えません。
そんな入り江の一隅に、石積みの壁に囲まれた半泊教会を見出しました。
白い門柱の上に十字架が掲げられています。
半泊教会に掲げられてた解説文を要約しますと、
「江戸時代末期にキリシタン弾圧から逃れ来た数家族が福江島北東部の小さな浜に上陸しました。
しかし、それだけの人数が住み着くには土地が狭く、その半数だけが留まり、残りの半数は三井楽方面へ向かったことから、この土地は半泊と呼ばれるようになりました。
1920(大正9)年から教会の建築計画が具体化し、アイルランドからの浄財が建築資金に充てられ、鉄川与助の手によって1922(大正11)年に完成しました。
新築から5年、信徒たちは教会を台風被害から守るため、海岸の石を集め、教会正面に暴風石垣を築きました。
1970(昭和45)年には敷地の境にブロック壁が設置されるなど、現在も大切に維持管理されています。」
と記されていました。
入り江の左側には鬱蒼とした森に包まれた小山が迫り、
教会の裏手は、建物の横から木々の茂る山の斜面が立ち上がります。
そして、入り江の右側は、猪でも出そうな山が壁を作っていました。
弾圧を逃れ来た人々は、この地でどんな暮らしを営んでいたのでしょうか。
そして、半泊教会を後にする時、以外なものを目にしました。
門柱に、かなり錆びついた銘板を残して廃校となった、福江市立戸岐半泊分校です。
更にネットで「福江市立戸岐半泊分校」を検索すると、
興味あるページにヒットしました。
五島市が廃校となった小学校を活用する事業者を公募していました。
面白そうですが、募集期間は2020年4月30日までです。
陶芸や木彫、水彩画などの工房兼ギャラリーに活用すれば、創作に没頭できること請け合いです。
車に戻り、尾根に通じる細い道をはしり、次の堂崎教会を目指しました。
尾根に上ると、福江島の北東に突き出た、糸串鼻に通じるであろう道が、民家の脇を通って北へ伸びていました。
何時もであれば、私は躊躇なく車をそちらへ進めるのですが、ナビに現在時16時45分が表示されているのを確認し、寄り道を諦め、堂崎教会へ向かうことにしました。
1時間程前にUターンした辺りを過ぎると、対岸の久賀島に、白い浜脇教会が見えてきました。
昨日、福江港から久賀島へ渡る渡船から見えていた赤い戸岐大橋を渡って、
17時を過ぎた頃堂崎に着き、パーキングに車を停め、砂に埋もれた堂崎湾の縁を歩いていると、
干潮の海岸の中に、誰かが造り置いたかのような、不自然な程に丸い石に目が留まりました。
調べてみると、1500万年ほど前に、堂崎湾にできた花崗岩類の岩床が、多分、波や潮流などの風化を受けて球形に変化したもので、リンゴ石と呼ばれているそうです。
教会に近づくと、散策路にテーブルを置いたコーヒーショップがありますが、人影がありません。
堂崎教会受付の窓も、白い扉が半分閉じられていました。
正面に回ると、ネットで見ていた堂崎教会そのものを見ることができました。
堂崎教会は、禁教令が解かれたあと、1879年に五島で最初の天主堂(木造)が建てられ、1908年に現在のレンガ造りの教会堂が完成し、1974年に、県の有形文化財(建造物)の指定を受けています。現在は、弾圧の歴史や資料を展示する資料館として、一般公開されています。
駐車場戻ると、私が借りたレンタカー以外に車はなく、人の姿も全く見当たりません。
雲に覆われた空に、明るさを感じさせるものはなく、周囲に夕暮れが迫り始めていました。
福江島に、もう少し見ておきたいものが残されています。
先を急ぐことにしました。
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