歴史ファンのきっどさんは
「さむら かわちのかみ」
と読んでしまったけど「さむらごうち まもる」って切るんですな。
例えば『交響曲第一番HIROSHIMA』のCDを買って聴いて感動して人は、
楽曲が素晴らしいから感動したのだろうか?
それとも「現代のベードーベン」佐村河内守というバックグラウンドがあったから感動したのだろうか?
まあ普通は後者でしょうな、高いワインと言われたら「美味しい」と思ったりするもんな。
昔、ワニブックスのタレント本、
正直ファンも誰一人タレント本人が書いてると思ってなかった。
松田聖子や中森明菜やキョンキョンがあれほど筆達者なら、充分そちらで飯が喰っていける。
当然ゴーストライターが存在していたのだろうし、
「本人にインタビューしたのをまとめた」なら良いほうで、
(佐村河内守の「提案した楽曲構成イメージを特定の別の人物に具現化してもらう形式で創作活動していた」てのはこのパターン?)
昔、松本伊代が自分のエッセイ集の事を訊かれて
「まだ読んでないのですけど」と答えたのは余りに有名な話。
ではアイドル本なら許されて、佐村河内守なら非難される理由はなんであろうか?
曲だけで感動させた訳でも
さらには佐村河内守に魅力があったのでもない、
結局は「全聾の作曲家」というファクターが大部分を占めていたんだろうな。
単純に楽曲の素晴らしさだけに感動したのであれば、作曲者が誰であろうと関係ない、
「現代のベートーベン」が「なにわのモーツアルト」でも名曲は名曲なのだ
「両手で聖子」には松田聖子のスナップショットが載ってたし
「微笑物語 ちょっぴりてれた16才」にはキョンキョンの水着姿があったもんな。
(因みにこの頃のキョンキョンの姿が有村架純のアレ)
重要なのはエッセイの中身なんかじゃなかった。
佐村河内守作曲であっても、彼がもし全聾で無ければ特に名曲と感じなかった可能性が高い。
音楽と言えば作詞家としての秋元康。
彼一人であれだけの楽曲を作り出しているとは、まさか誰一人信じていないだろう。
日本酒の「桶買い」と同じで、幅広く集めて来た歌詞を
「秋元康」名義で発表する、言わば「作詞:秋元プロジェクト」である事は周知の事実。
秋元康や、昔のアイドルが許されて、
佐村河内守が非難されるのは、実は
「全聾だけど絶対音感を持ち名曲を作れる」
「津波で母親を失った少女のために作曲」
「被爆二世で広島原爆投下が風化しつつある事に危機感」
なんて言うヒーロー的な偶像から「裏切られた」って感覚が大きいのか、
だから叩き易いのか。
きっどさんクラシック音楽には全く不案内だけど
それ程名曲をバンバン発表し続けたゴーストライターこそ
「凄い才能のある音楽家とちゃうん?!」と感心する。