睡蓮の千夜一夜

馬はモンゴルの誇り、
馬は草原の風の生まれ変わり。
坂口安吾の言葉「生きよ・堕ちよ」を拝す。

愛川町郷土資料館企画展PR 「戦争の記憶 -戦後74年-」①~③・よっちゃんちの金魚

2019-08-08 18:31:23 | 時事・世相・昭和~令和
【愛川町郷土資料館】企画展PR 「戦争の記憶 -戦後74年-」①

【愛川町郷土資料館】企画展PR 「戦争の記憶 -戦後74年-」②

【愛川町郷土資料館】企画展PR 「戦争の記憶 -戦後74年-」③




この企画展はぜひぜひ見たい。
図録(写真集290円)は絶対ほしい、
まずは二部買う予定。

愛川町の内陸工業団地が元飛行場だったのは知っている。
修理工場の爺様がここは飛行場の跡地で地盤が固いから
地震にゃ強かんべと自慢していた。

そのときに詳しく飛行場のことを聞けばよかったと
ずっと悔いが残っていた。
数年後に再び訪ねた爺様は呆けていた。

犬を連れて川沿いの田んぼに見回りに行くのだが、
行ったことを忘れて、すぐまた行きたがる。
犬が何度も可哀想とご主人(長男)がこぼしていた。


愛川町の地勢と歴史 (Wikiより転載)

地勢
戦前には段丘面上に広がる平地に陸軍の相模飛行場が置かれていた。相模原町の軍需工場、座間町の士官学校、綾瀬村・大和村の厚木海軍飛行場、横浜市旭区・瀬谷区の海軍倉庫施設などと隣接して軍都神奈川構想の一翼を担っていた。1966年には、この跡地に内陸工業団地が建設され、多くの工場や事業所が進出した。
県内厚木市、相模原市などへの通勤圏であり、県央・県北地域のベッドタウンとして経済的な結びつきが強い。
当地には相模ナンバーを統括する関東運輸局神奈川運輸支局相模自動車検査登録事務所がある。

歴史
愛名・愛甲・鮎川・愛川といった地名を一連のものと考えると大化の改新以前の記録がある相模国最古の地名のひとつである。戦国時代最初期、長尾景春の乱では、反乱軍の景春・豊島氏方の有力拠点であった小沢城(こさわ)が太田道灌によって攻略されている。武田信玄が小田原侵攻に関連して北条氏康と戦った三増峠の戦い(みませ)は、愛川町の三増周辺だったと考えられており、史跡三増合戦場跡が存在する。
西部の半原盆地を中心として、元来米の生産に向かない地形から養蚕、製糸・撚糸などの軽工業、宮大工などの出稼ぎ職人の本貫として知られていた。半原宮大工は江戸城修復にかかわるなど、飛騨の大工と並び、その腕を称えられていた。撚糸業では群馬県富岡の機械を模倣して水力を補助動力とした軽工業が盛んだった。内陸工業団地の完成により機械工業、住宅地域、流通拠点へと姿を変えて現在に至る。

愛川町はとてもいい町。
財政力指数 1.20 神奈川県市町村平均 1.0 
経常収支比率 79.1%
ラスパイレス指数 96.9 全国町村平均93.9

愛川町主導で開催されるイベントが年間多数あり、
お祭り好き。
人口は4万弱だけど集客率は高い
地元消防団OBが交通整理に駆り出される。

愛川町はよっちゃんが住む町。

小さい町ながら生活に必要な施設はすべてある
美化プラント(ゴミ焼却場)、立派な公営火葬場と併設の
祭儀場(愛川聖苑)をはじめ、子育て、老人福祉や施設など
住環境はよく整っている。

ぼくの故里、津久井町は相模原市に吸収合併され、
「津久井町」の名が消えた。
生まれ育った故里の名が消えるのは哀しいこと。

愛川町、
この先も独立独歩を願い健闘を祈る。





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