ハナウタ うたこの「宝物がいっぱい」

自分にとっての「好き」や「嬉しい」を集めて綴る、ささやかなことのブログです。

福田君の自慢

2015年05月20日 | ❺ 追憶の日々

我が家の男チームの大きい方の人は自分の名前に濁音が2文字入っているのが

小さい頃から嫌だったそうです。

濁音の1文字もない名前に憧れて、結婚前の私は何度も名前を褒められました。

そんなことまったくどうでもいいけどね。

意味分からないけど当人にとっては大事な事なんだな、と「へー」くらいに聞いておりました。

 

子どもが生まれて名前を付けた時も

「濁音避けたかったけど、1文字入っちゃったな。合わせて2文字か・・・申し訳ない」

と申し訳ながって?おりました。

自分の嫌なことは人にしない、と決めて生きて来たのに、とね。

・・・・もっとお互い共通の“自分がされたらイヤであろうこと”を、

私にはいっぱいしてると思うけど、そっちは気づかないのか

私は余程そっちの方が気になりましたけど。

 

ちなみに私も左手上腕部の内側、わきの下近くにある小さなほくろが嫌でした。

なぜここに?という理由で。

ふふふ、今となってはなんだそれって感じで、ホントどうでもいい。

“名前に濁音”と同レベルの、可愛いどんぐりのせいくらべです。

 

 

で ちょっと思い出しました。

小学校の4年生の時に隣の席だった福田君を。

 

ある日登校するなり、いきなり興奮してしゃべりかけてきた福田君。

「ハナウタ、俺すげーこと発見しちゃった。自分でもビビったー、発見した時!」

「何を発見したのさ、福田」

「俺の名前、全部濁音つくんだぜ 調べたらさ、このクラスでたった一人なの

「・・・・・・!」

「福田、ホントに!? 

 一人しかいないの!?

 ちょ・・ちょっとやってみてよ

「いいか、聞いとけ。

 ふくだとしひこ、だろ? ➡ ぶぐだどじびご ほらなっ

 

 

平和だ。

この時代の小学4年生は、かろうじてまだとことん平和。

 

しばらくの間ふざけて「ぶぐだ君」とか「どじちゃん」とか呼んでましたけど

すぐ飽きちゃった。

でも福田君のこの快挙と誇らしげな眼差しを 私はありありと思い出しました。

 

 

今度大きい方の人が濁音の話をしはじめたらすぐさま打ち消して、

この話を、

濁音で唯一無二の存在としての自分に気づき 濁音から自己肯定感と自信を得た

小学4年の福田君のこの話を聞かせてやりたいと思います。

 

「何の努力もしないのに普通に濁音2つも持ってるなんて、福田君からしたら“神”だから。

 口がさけても もう人前でそんなこと言っちゃダメだよ。

 聞く人が聞けばあなたの話は 濁音を持つ人間のただの自慢話だからね。」

とね。

 

そしてこれからは小さい方の人にも言ってやりたいと思います。

「あなたの名前には濁音が2つも入ってる。

 これは知る人ぞ知るラッキーネームだから。

 自信を持って生きなさい。あなたは名前からも祝福されている人なのよ。」

とね。

 

 

 

 

 

 

 


近所の難しい家

2015年04月20日 | ❺ 追憶の日々

実家のはす向かいに 超がつくほど節約家の一家が住んでいました。

農家じゃないのに ほぼ自給自足的な生活をしていらっしゃいました。

畑を借りて野菜を作り、ニワトリを飼って卵をとる。

近所のスーパーを自転車で回って 捨てるような半端なものを貰ってる。

いいんじゃない、ってことと いいのかな・・・ってことが入り混じってる。

 

庭はほとんどないのですが、家と道の間に柵を作っていないので

道も自分ちの一部のように使っていました。

駐車場として。駐輪場として。それから花壇として。

よく、役所の人ともめてました。

 

また家の南側が人んちの畑に面していて その畑は家庭菜園として貸し出されていたので

(住宅地なのですが、取り残されたように畑があったんです。去年とうとうマンションに

なってしまいましたが)

自分ちに面した1区画を借りて その畦道も含めて庭のように使っていました。

段ボールや発泡スチロールのケース置き場として。

使わなくなった鍋やフライパンなどのゴミ置き場として。

 

極力電気を使いたくないと言って、夜明けとともに起き 日の入りとともに寝る生活。

日が暮れてからは家族全員一部屋に集まり、その部屋以外は消灯です。

灯の消えた家は人の気配もありません。

寒い冬に暖を取るのは 電気でもガスでも灯油でもなく練炭だそうです。

 

3人の子どもはいつも薄着で 痩せこけて 体が汚れていましたが

とても凛としていて 近寄りがたかったです。

近寄りがたかったのは私だけではなかったようで、今思えば子どもに罪はなく気の毒ですが

おじさんもおばさんも恐そうな人だったし、何しろ変わってて・・・・。

 

私が小学校に上がる時、

鍵っ子になるので何かあったらよろしくとあいさつに伺ったおり

お茶を入れていただいたのですが

お茶請けは スイカの皮のぬか漬けでした。

誰のかわからない不気味な歯形がついていて 何度も勧めて貰ったのですが

恐ろしくて手が出せませんでした。

こういうお茶請けを見たのも、

出されたものに手を付けない失礼な母を見たのも初めてでした。

 

ある時 回覧板を持って来てくれたおばさんの服に目が釘づけになりました。

「〇〇工務店」とか「△△水道」とか印刷された薄いペラペラの手ぬぐいを

4枚縫い合わせただけの布を服の代わりに着ていたのです。

 

工務店や水道屋さんはおばさんに広告宣伝料を払ってあげて。

もしくは営業妨害だと訴えて。

 

 

そんなある日私はまた不思議な光景に出合いました。

我が家の周囲を塀に沿ってぐるりと様々な容器が取り囲んでいるのです。

容器には水がなみなみはってあります。

何のまじないだ?

雨乞いか?

それとも新種の猫よけか?

あ・・・うちで猫飼ってるんだからそれはないな。

遊びか?

容器はどれもひん曲がっていて そうとう年期が入ってるから

・・・容器の消毒か?

「お母さんたら何のつもりか知らないけど みっともないからやめてよ」

と言いに行くと母は首を横に振りました。

「あれ、角のおばさんだから」

 

どうやら水を温めて 料理やお風呂に使っているらしい。

いいアイデアかもしれないけど なぜ うちで

・・・・お願い、うちから手を引いて。

自分ちに戻って。

・・・・・と言えるはずもなく、暫く黙認していましたが、

近所の人からはうちがやってると思われてるらしく興味本位にいちいち聞かれるし、

うちとしてもヘンな家として地域で孤立してもなんなので 

とうとう父が 角のおばさんにやめて貰えるよう申し入れることになりました。

その後、あたらずさわらずのお付き合いが出来てるところをみると

父はうまくやってくれたのでしょう。

 

 

ずっと、貧乏なのだと思っていました。

でもそれは大いなる誤解であることが ある日判明したのです。

そこのうち、なんと市内に3件も家を建てていたのです。

3人の子供たちに1件ずつ

将来のことを考えて

 

なにをもって幸せというかは、家族の数、いや 人間の数だけあるということでしょう。

そしてその幸せは人に判断されることではなく 自分が決める事。

住宅街で自給自足的な精神を貫いた両親を 子どもたちは今どう思っているのか

機会があったら是非とも聞いてみたいです。

でも聞く機会ないだろうし、あっても私が聞けないな。

 

今私が知っているのは、末のお嬢さんが結婚して北海道に行っちゃった・・・ってことだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


何が自信になるかはわからないものです

2015年04月11日 | ❺ 追憶の日々

小学5年生になった春のある日それは起こりました。

校庭で体育の授業の始まりに みんなで準備運動をしていた時です。

冬枯れた芝生が緑色に変わりつつありました。

 

私たちは2人1組になって柔軟体操をしています。

ブルマからむき出しの足を 芝生の新芽がちくちくとくすぐるそんな季節。

 

異変が起きたのはその時です。

「か・かゆい・・・」

脚がかゆいのです。

みると芝生のチクチクした場所が ぷつぷつと隆起してるではありませんか。

脚の裏側全体が見事なぷつぷつ模様です。

こんな可愛らしいパターン模様が私の体に出現するなんて

規則的な間隔で同じ大きさで同じ高さのぷつぷつがびっしりです。

ぎょぎょっとなる私。

見たことない体の異変に喜ぶ私。

私にこんなすごい能力があったなんて

 

生まれてこのかた 人前で体調を崩したことがなかった私は

朝礼で倒れたり 授業中に鼻血を出したり 骨折した腕を三角巾で吊ってる人を見ては

「いつかはああなってみたい」

と憧れていました。

ついにその時が来たのです。

 

「先生こんなになっちゃいました」

と急いで先生に駆け寄る私は嬉々としていたことでしょう。

授業を中断させる私。

ちょっと目立ってる。

友達が集まってくる。

ああ、至福。

 

「気分悪い?」

「いいえ」

「痛い?」

「いいえ」

「痒い?」

「少し」

「辛い?」

「いいえ」

「体育出来る?」

「・・・はい」

授業は無事再開されました。

ちょっとした不満を私に残したまま。

 

でもこの日から私は「何かに触れると皮膚がとぷくっと隆起する」という特異体質を

手に入れることになりました。

なんのことはない、「接触性じんましん」というそうですが、

子どもには関係ない。

何の取り柄も才能もない私に初めて宿った、人と違うという個性(個性)。

超能力かと思いました。

以来、授業中に鉛筆の先でちょんちょんと左腕に絵を描く私がおりました。

徐々に浮かび上がる文字や絵をこっそり隣の席の子に見せて

その子の驚く姿を楽しんだものです。

100%の確率で「触ったらうつる?」と聞かれました。

「たぶんうつらない、今まで人にうつったことないから」

と答える私は得意げでした。

 

人づきあいが苦手で友達の少ない私を心配した神様がくれたギフトだったように思います。

私にとってはたった一つの、確実なコミュニケーションツール。

でも弊害もありました。

アプローチのちょっと変わった子、と

かまいません。

人にこの体質を羨ましがられたこともありません。

気持ち悪がられたり、

気の毒がられたことはありましたが。

・・・かまいません。

 

体の成長とともに症状は消え、今ではやろうと思っても出来ませんが

私が自分の内面世界から出て、外に向けて自分を発信し始めるのを助けてくれた

影の功労者です。

人生に無駄な事なんて何もない、と誰かが言っていましたが、なるほど

その通りかもしれませんね。

母はこの症状を治そうとしてくれていたようですが、治ってもらっては困る私がいましたから。

一見無駄に思えることも 何かの役に立っている。

そう、それは私の存在自体が身を持って証明していることなのです。

 

 

 


人の金だといい気な私

2015年04月07日 | ❺ 追憶の日々

両親が共働きだったので 保育園を卒園した私は鍵っ子になりました。

40年も前のこと。

親は相当心配したようです。

 

でも当時は学童保育なんてありません。

なのでうちの親、仲間を集めて学童保育を作る運動をして(多分保育園在園中から始めていた)、

紆余曲折を経て 小1の途中か小2になった頃には本当に作ってくれました。

すごいや。

その名も「たけのこ学童保育」。

 

でも当時は学童保育を必要としている家庭が少なくて

いくつかの学区をまたいで中間地点くらいに作ることになったので

チビの私の足では60分もかかる場所に開設されたのです!

雨の日はほんと 延々 とぼとぼと歩いてたように思います。

 

なので、たまにサボりました。

同じ小学校からもう一人通ってたので その子と一緒にバックれました。

バックれた時の隠れ場所は我が家の物置です。

ゴミ屋敷かと思うほど乱雑に積み上げられたほこりまみれの不用品の中に

子ども2人分くらい座れるスペースをこじ開けて、

私たちは親にみつかるまでこっそり隠れているのでした。

学童では「休みます」の連絡もなしに姿を見せない私たちを心配して てんやわんやだった

ことでしょう。

こっぴどく叱られる2人。

それでも懲りずにまたサボる2人。

なんで子どもって(私って?)あんなにネジがユルいのでしょうか、どなたか教えてください。

 

 

クリスマスも近いある日、サボった私たちはあることに気づきました。

そう、その日は菜穂ちゃんが親から預かった「学童保育料」を持っていたのです。

当時保育料はお習字の月謝のように 毎月封筒に入れて手渡されていました。

なんだ、このお金?

あれれ、このお金でお菓子買えるんじゃない?

・・・いっぱい買えそうだよね。

よし、買おう。

 

なんと罪悪感の薄い小学2年生でしょう。

子どもってそんなもんなんでしょうか。

大人になった今となっては本当に理解不能です。

でも、私たち、すっごくいっぱい、普段買えないような大物を

しこたま手に入れたのでした!

 

その日近所の駄菓子屋には ささやかな店構えにしては大胆な値段のお菓子が置いてありまして

多分クリスマス前だったからでしょうけど

大・中・小のブーツにお菓子がいっぱい詰まったヤツを 

その中の「中」サイズのブーツを 私は菜穂ちゃんに買ってもらったのでした。

サンキュー、菜穂ちゃん。

いい人だ、菜穂ちゃん。

 

年が明けて翌月、12月分の保育料を請求された菜穂ちゃんの親によって

私たちの秘め事は白日のもとに晒されるわけですが、

あの日のドキドキと幸福感は今でも忘れていません。

罪悪感を覚えとけって話なんでしょうけど、まあ、いいか・・・・と。

だってあの頃の我が家は お菓子や甘い飲み物禁止で、アメも禁止で、

赤いウインナーも禁止で・・・とにかく禁止だらけだったので、

あのクリスマスのブーツは、夢の宝石箱って感じの喜びだったのです

世の中のお菓子を全部手に入れた様な お菓子の家に住んでるような

なんとも幸せなブーツとの時間。

いや、マジありがとう、菜穂ちゃん。

 

その後学童で、子ども経由の保育料の受け渡しが全面取りやめになったのは

こうした私と菜穂ちゃんの過ちによる 大人たちの学習によるものですが、

今でも懐かしく思い出す子どもの頃の風景なのでした。

ああ、でもよかった、あの時味をしめなくて。

泥棒にも詐欺師にもならずに今日まで生きて来られたこと、本望です。

 

 

 

 

 

 


昔の私はピグレットだった

2015年04月06日 | ❺ 追憶の日々

小さい頃からい100%インドアな性格だったと思うけど、

生まれてすぐに保育園に入れられているので 否が応でも外遊びを強要された。

冬でも下着姿で裸足で走り回ってる子がよしとされていて

大人は子どもを 寒がらない生き物だと思っているらしく

「寒さで死ぬかもしれない」という子どもの私の叫びは聞き届けられなかった。

私は毎日寒さと戦った。

子どもにだって個人差があろうに・・・。

 

 

一番好きだった遊びは泥団子づくり 二番目は散歩中のどんぐり拾い。

竹馬や ポプラの落ち葉の茎でする「葉っぱ相撲」も好きだったな。

あとはレンゲやクローバーで冠(花環)作り。

 

 

逆に嫌いな遊びは「フルーツバスケット」です。

負けたら罰ゲームをさせられると思うと気が気じゃありませんでした。

怖くて怖くて、少しも楽しくなかったわ。

思い出すだけで 吐きそう

 

 

「椅子取りゲーム」も大嫌い。

音楽聞きながら 顔ひきつってたと思う。

人と競って 力ずくでイスを奪うなんて 嫌で嫌でたまらなかった。

いつも混乱の輪からはじき出されて 泣きそうになってた。

 

 

「はないちもんめ」も。

いつも名前を呼ばれなくて 

「今日も呼ばれなかったの私だけだ・・・」って心の中で思って悲しかったな。

 

 

公園での缶けりでは、鬼がなかなか探しに来ないので

勇気を出して鬼の陣地まで行ってみると とっくに遊びは終わってて

もう誰もいなかったり。

はっ!?  いつ終わったの!?  私聞いてませんが

 

 

「かくれんぼ」もたまに 探して貰えなかったな。

まだ隠れてるのに 「はい、みんな見つかったねー!おわりでーす」とか言われてさ

のびた(ドラえもんのね)かっつーの。

 

 

 

引っ込み思案で 影の薄い子どもだったのは間違いないけど

集団遊びって 苦手な子には残酷なものです。

 

 

思い出した。

落ち葉で焼き芋した時も、私には「芋」回ってこなかったな。

私が「芋」食べてないこと 誰も気づいてなかった・・・。

園で飼ってたヤギ🐐ですら貰ってたのに

 

「・・まだ食べてません・・。」

と消え入りそうな声で訴えた時には 芋はすっかりはけたあとでしたわ。

「え!?食べてないの? もう終わっちゃったよー ダメだよ早く言わなくちゃ」

と注意を受けましたっけ。

そんな勇気があればとっくにゲットしてます。

言えない性格なんです。

・・・でも知ってます。

むらたなおき君が2つ食べたから 私の芋が無かったこと。

 

 

今なら躊躇なく言えるんだけど、子どもの私はイライラするほど内弁慶。

 

「焼き芋」マジで食べたかったな。

あの時 みんなに隠れて ひとりで泣いた気がする。

迎えに来た母にも

「食べられなかったの 貰えなかったの」とずっとぐずってた気がする。

余程欲しかったのね~。

 

 

 

でも、こんな子でもちっとも心配いらなかったね。

時は過ぎ こんなに図々しく自己主張できるまでに成長したのだから。

小さい頃に損した分を すっかり取り返してるしね。

結局私は自分に足りないものを補いながらここまで生きてきたわけだ。

焼き芋をただ待っているだけの子どもじゃないよ。

もう自力でいつだって作れちゃうんだから、恐れ入ったか

 

 

大人ってすごいな

大人になってよかった

人生ってよくできてる