須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

須永博士83歳の誕生日

2025年02月11日 | 須永博士の人生
今日2025年2月11日、元気に83歳のお誕生日を迎えることが出来ました!
 
 
良い笑顔✨の須永博士😊
 
 

 

https://www.instagram.com/shouriki980423/

↑北千住のお好み焼き屋 笑力の店主 笑ちゃんからお誕生日のプレゼントに美味しい干し柿をもらって喜んで食べたそうです。

 
昨年10月に東京へ行った時は本当に体調も心配で・・・
 
「来年83歳の誕生日を、ちゃんと迎えられるかなぁ」と本気で思うくらい心配だったけど、やっぱりすごい生命力を持っているようです✨✨
 
昨日も電話で話し、
「明日のお誕生日を元気に迎えられそうですね」と話したら、
 
「うん、本当だよ、こうやって返事ができてるもん。」
 
と☺️
肉体は衰えても、まだまだ気力と生命力はあります✨
 
今朝、須永博士の読んでいる新聞の朝の占いで、午年生まれの運勢には
 
「肉体的に限界あれども精神に限界はない
縛られず自由自在に活躍できる日」
 
と書いてあったそうです😆
まさに!!
 
今月に入ってから、須永博士美術館スタッフブログで、あらためて須永博士の人生を綴っていこうといろいろな原稿や資料を見ているのですが、
詩人という道を、この道一筋で60年以上生きてきた、生きてこられたことは、本人も言ってますが
「奇跡」のようです。
 
この道しかなかった 
とも言ってますが、それは須永博士だけじゃなくて、私たちもみんな同じ、
自分の生きる道は、ひとつ。
誰のものでもない、自分の人生ですね。
 
まだまだ、たくさんの詩を書いてもらって、人生を教えてほしいです。
 
 
昨年3月、沖縄県平安座島にて
 
 
 
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須永博士の人生⑦【北海道函館 岸部さんとの出逢い】

2025年02月10日 | スタッフより

今日は、須永博士が詩人として歩んできた人生での大きな出逢いとなった、北海道函館の岸部さんとの出逢いを書きます。

須永博士が初めて展覧会で函館へと足を踏み入れたのは32歳の時(昭和49年 1972年)

24歳の時に銀座三愛で初めて展覧会を開催し、そのご新宿の三愛デパートでは常設展示になっていました。

ある日、全国の三愛グループの店舗店長さんが集まる展示会があり、その時に須永博士の展覧会も開催して、それを見た全国の三愛から「うちにも来ていただけますか?」と声をかけていただき、それから昭和44年9月に九州小倉へ 11月には北海道札幌へ行き展覧会を開催しました。それから翌年昭和45年は横浜、小倉、神戸、札幌、そして銀座で開催しました。その翌年昭和46年は展覧会だけでなく全国の旅へも行きました。

北海道知床、京都、倉敷、尾道、指宿、長崎へ・・・

そして、旅の詩や、出逢った人に書いた詩をまとめた詩集「ひとりぼっちの愛の歌」を昭和47年3月12日に発行しました。

そのころ、函館の棒ニ森屋という百貨店の中の三愛で展覧会をすることになりました。

上野発の夜行列車に乗り・・・青森駅から青函連絡船に乗り4時間かけて行った場所そこが函館でした。

知る人は一人もいません。自分を試すような想いで向かった、展覧会場となる棒二森屋函館

その展覧会には、多くのお客様が来てくださったそうです。

その様子を見てくださっていたのが、当時部長をしていた岸部さんという男性でした。

「わたしはこれからあなたを応援します。」と声をかけて下さり、そして函館での初めての展覧会が終わり連れていっていただいた場所は、大森浜でした。

その浜で海を眺めながら

「石川啄木は生涯2冊の本をこの世に残した。

須永さんは3冊作ってくれ。応援する。」と言ってくださいました。

それから20年近く、1年に2~3度呼んで下さり、その度に

「ちゃんと食べてるか」

「大丈夫か?」と須永博士のことを心配し、宿泊費も出して下さり、北海道各地(札幌、釧路など)のダイエーやボーニストアを紹介してくださって展覧会を開催したり、

「詩人の経験のために北海道を旅するといい」と旅費を手渡してもらいました。

こんな話を、須永博士から聞いてきましたが、初めての出逢いから39年の年月を経て、私も岸部さんとお会いすることが出来ました!それが、2011年の函館での講演会でした。

函館看護協会主催の講演会でしたが、函館の新聞に講演会の事が載せられていてそれを見て岸部さんが来てくださったのです。

本当に感激でした。

来ることを知らない須永博士(もちろん私も)が、講演前に書いていた詩です。

 

「2011年5月14日(土曜日)

北海道看護協会 道南南支部様主催、

須永博士 旅の詩人の講演会

演題「優しいこころ」を

いまからはじめさせて頂きます。


絶望、対人恐怖症

ひとりぼっちの青春から

ひとり、

“詩人”と“絵描き”の

人生をめざして 旅をはじめました。

北の旅でたどりついたところが

「函館」でした。

青森から

青函連絡船で4時間、

函館山がありました。

美しい夜景がありました。

優しい人達が生きていました。

助けてもらいました。

泊めてもらいました。

旅の旅費を頂きました。

いま“詩人”をめざして47年目、

この世に生きて69年目、

なつかしい

心のふるさと

「函館」へもどってきました。

帰ってきました。

いまから

旅で出逢った

感動、涙、笑いのはなしを

語りつくします。


はじめます。」


“助けてもらいました。

泊めてもらいました。

旅の旅費を頂きました。”


その人が、岸部さんだったのです。


講演直前、会場に来てくださった岸部さんと、須永博士が会う瞬間を見ることができました。

それは、成長した息子に会いにきた父と、父に

「こんなに大きくなりました」

と、誇らしげに胸を張る息子の姿のようでした。

「岸部部長、まず講演会場を見て!  

こんなステージになっちゃったよ!」

子どものように嬉しそうに、話すよりも何よりも会場へ案内していました。

それをニコニコ微笑みながら歩く岸部さん。

「おお!!」

と一言いい、

「じゃ、また講演が終わってからな。」と、席に着かれました。

 

この日、

「今、息子が店をしているから、良かったらここへおいで」と名刺をいただき、講演の後におじゃましてそこで岸部さんと貴重な時間を過ごさせていただきました。

https://www.gutz.com

初めて函館で展覧会をしたときはまだ32歳、詩人になろう、絵描きになろうと努力しはじめて、

まだまだ人生経験の少なかった須永博士を温かい目と大きな心で見守り支えてくださっていた岸部さんから、わたしに伝えたいことを話してくださいました。

「この詩人の周りで仕事として支えていくことは、

きっと大変だと思うけれど、

この自由さ、大胆さ、それと

“目の前の人に無償の想いで詩を書いてあげたい”

という須永博士の生きかたを生涯続けさせてほしい。

多くの事の中で、成功も失敗もあるだろうけれど、

人は、とにかく何でも経験することだ。

とりあえず全て受け止め、吸収して

そのあとに自分に必要のないものは取り払えばいいのだから。

須永さんは、そうして今の須永さんに成長してきている。」

 

今読んでも、ぐっと胸が熱くなります。わたしはこの言葉を貫いてこれたかな。

須永博士の詩人としての人生を横で見てきて、ぶつかったこともあるけれど、でもこの岸部さんの言葉は、やっぱり大きなものでわたしの心にもあると思います。

 

長くなりました。

岸部さんとのことは、まだ続きを書きたいので、あとで付け加えますね。

 

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須永博士の人生⑥ 【ひとりぼっちの愛の詩】

2025年02月09日 | スタッフより

須永博士が、詩人として人生で初めて作った詩集

「小さな夢の詩集 ひとりぼっちの愛の詩」

昭和47年(1972年)3月12日発行 (須永博士 30歳)

2冊目を作ることを考えていなかったので、最初の詩集には、「第1集」とは書かれてありません。

その詩集の最初のことばです。

 

「字あまりがあるかもしれません

誤字があるかもしれません

でも ゆるして下さい

わたしはガムシャラに旅をしてきました

わたしは心の思うままに書いてきました

そこには わたしの目に映ったものしかありません

わたしの心にひびいたものしかありません

それが あなたのさみしさを

少しでもやわらげることが 出来るのならば

それが あなたの心を

少しでも幸せにできるのならば

それだけで わたしが ひとりぼっちで歩いてきた旅が

むくわれるように 思うのです

生きてきたならば

幸せになって下さい

苦しむことは本当にさみしいものです

あなたの人生が

幸福であることをねがっています」

 

旅をしながらノートに書き溜めた詩を、この本に詰め込みました。

手書きの文字も挿し絵も今とはタッチが違って、とてもほっこりします。

 

 

 

 

 

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須永博士の人生⑤【九州福岡での出逢い】初めての九州の旅~日本各地の旅

2025年02月08日 | スタッフより

銀座三愛、西銀座デパート、上野ABAB,池袋パルコなどでの「小さな夢の展覧会」を開催し、

全国の三愛が入っているデパートを紹介していただき、その地で、出逢いを重ねてきました。

初めて九州に行った時のことも、

生きる力をあなたへ

にも掲載しています。

 

↑博多での展覧会で出逢った男性、西岡さんという方には、「男」としての生き方を教えてもらったと、よく話していました。

1981年、今から44年前に当書いた「心のであい新聞」にも書かれています。

博多どんたくをしていたと書いてあるので、ちょうど、「生きる力をあなたへ」の博多の詩を書いた時でしょうか。

まだまだ詩人として知名度は無く、博多では地下街に段ボールを並べて作品を広げたり、デパートの玄関口でテーブル一つでサイン会をしたり、

「人間として」も、人生勉強の真っ最中だった須永博士、西岡さんと出逢い、ご自宅に泊めてもらって食事も、

そしてボロボロの靴を履いていた須永博士に、西岡さんのピカピカの靴を「これを履いていっていいぞ」と、

履いてきた靴はそのまま置いて、西岡さんの靴を履いて出ていく・・・なんてこともあったそうです。

息子さんと娘さんは当時小学生で、須永博士が家に来るのを毎回楽しみにしてくださっていたそうでした。

1981年4月は、5日間も泊めていただいていたなんて・・・

なんというありがたい日々だったのでしょうか・・・

 

須永博士の旅は、人情で助けられ、続けてこれたんですね。

人との出逢いで助けられ、人生を学び、たくさんの方々の生きる詩を書いて、今がありますね。

 

そうそう!

西岡さんとは、私も偶然?いや必然としか思えない出逢いをしていました。

2010年、今から15年前、湯布院での出逢いでした。

 

 

偶然の出逢い - 須永博士美術館スタッフブログ

昨日の記事の続きです。昨日は、ほんの短い時間だけど、とても大きな出逢いがありましたまさか、会えるとは・・・。須永博士が、今までの人生の中で生涯忘れることのない人...

goo blog

 

 

 

「北の岸部さん、南の西岡さん」とよく言っていたのですが、その、岸部さんとの再会を次に書こうと思います。

 

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須永博士の人生④【銀座三愛みゆき店での展覧会~詩集製作】

2025年02月07日 | スタッフより

今日も雪です。

昨日、東京スタッフの安藤直子から写真が届きました。

「パワーもう全部もらっちゃおっ!」

となでなでしたら

「他の人にあげるパワーがなくなっちゃうでしょ」って、

まだまだ人のために生きようとする詩人である父をみました✨

と。

安藤は、須永博士の長女で、今から13年前の2012年に急性リンパ性白血病を発症し、数か月後に造血幹細胞移植をしたけれど、2年後に再発し、その時は生存率3%と言われました。

前回と同じフル移植(化学療法、放射線療法の前処置をした上での移植)ではなく、ミニ移植というものにかけました。

須永博士は、愛する娘のために・・・たくさん詩を書いて、届け続けました。

それからミニ移植がうまく生き、つらい治療を乗り越え・・・

今、元気にしています。

再発のときは、泣いて泣いて、あきらめかけた命だけど、「もう一度だけ、がんばってみる」と、生きる決断をしてくれたからこそ、今があります。

須永博士も、たくさんの人に出逢って励ます詩を書いてきましたが、我が娘の闘病は、自分自身が張り裂けるようでした。

その時に書いた詩は、

詩集復活 に載せています。

 

これまでも、なぜだか、須永博士の頭から出ているパワーを、なでなでして・・・

 

嘘のような話ですが、何年も子供が授からずに不妊治療をしていた人が、須永博士の頭を撫でた翌年に赤ちゃんが生まれたという話を全国でたくさん目の前で見てきました。

(わたしの友達も、3人が同じ日に須永博士の頭をなでて(東京での講演会に来てくれて…3人とも不妊治療中でした。)翌年、ほぼ同じ時期に赤ちゃんが生まれました。

その子たちも、今は中学生になります。)

病気の人が、良くなり、

学校に行けなかったのが、行けるようになった、

という話も、実際にありました。

なにかで証明できるものでは無いけれど、見えないパワー、エネルギーがあるのでしょうね。

それと、自分で気づかない、もともと自分が持っている自分自身の生命力、気力、免疫力が須永博士に気づかされて、発揮できたからなのかも・・

 

今日は昨日の続きで、、

初めて大きなお店で展覧会をしたころのことから続きます。

 

【銀座での初めての展覧会】

「写真屋を母としながらも、詩人になる・絵を描いて生きていくという夢はあきらめていませんでした。

近所の喫茶店に絵を飾らせてもらったり、写真屋の中に飾ったりしていました。

そして、もうひとつの仕事、それが、カメラの修理を下請けすることでした。

店頭で預かったカメラを、銀座のカメラメーカーへ持って行きました。

その行き来する道の途中に、「銀座三愛みゆき店」がありました。

「やなせたかし展覧会」と書いてありました。

中に入ると、かわいい絵がたくさん飾ってありました。

このあとは水森亜土展覧会があると書いてありました。

「いいなぁ~。こんなところで、自分も展覧会をしたいなあ・・。」

そう思い、勇気を出して受付にいた女性に聞いてみました。

受付の女性の顔は、今でも忘れません。ドキドキしながら・・・。

「この場所は貸してもらえるのですか・・?」と聞くと、

「はい。まず作品を見せていただき、この店に合うものでしたらお貸しいたします。」

と、担当者さんの電話番号を教えてもらいました。

もう、うれしくて、嬉しくて・・・・。

まだ何も決まっていないのに嬉しくて。

そして、近所の喫茶店で2回展覧会をしたときの作品を持って担当者の前田さんに会いに行きました。

「これは面白い。やりましょう。」

これが、「小さな夢の展覧会」としての第一歩です。昭和43年 26歳の時です。

 

 

この展覧会が大成功に終わり、前田さんの紹介で全国にある三愛さんのお店を作品を持ってまわりました。

有楽町にある西銀座デパートでは、たくさん作品が売れました。

次々と展覧会が決まり、新宿、川崎、北九州、函館、札幌、神戸、金沢へ・・・

 

そして自分に自信がつき、池袋パルコ、上野ABAB(アブアブ)、など、自分から交渉に行き、開催してきました。

第3回目の銀座三愛みゆき店での展覧会では2歳と5歳くらいの女の子、それとお父さんお母さんが来て、

色紙を2枚購入してくれました。そのとき心に決めました。

「よし、この子達が大きくなるまでに、もっともっと素敵な絵や詩をかく人になるぞ!」

 

最初のころは、詩は自分の心のつぶやきを書いていましたが、展覧会を見に来ていた若い女性から

「愛」の悩み、相談を聞くことが増えてきました。

お手紙もたくさん届きました。

その時に書いた言葉や自分の想いを書き留めてきたノートがありました。

 

「詩人になりたい」という夢があったから、1冊でいい、「詩集」を作りたい。と思いました。でも、お金はない。

電話帳で、東京神田にある「協同印刷社」という印刷屋さんがあるのを見て、自分の書いたノートを持って行ってみました。

社長さんにそれを見てもらうと、「いいねぇ」と言ってもらえました。

でも、印刷代で、たしか当時15万円くらい。

そんな大きなお金を準備できないことを話しました。

すると社長さんが、

「売れたら代金を持ってきてくれたらいいよ」

と言ってくれました。

 

完成した最初の本が1冊500円。

三愛で販売したら、あっという間に売れて、すぐにお支払いに行けました。

そして、「1冊詩集を作りたい」と思って作った詩集の第2巻を作ることに。

最初の詩集からわずか4カ月後 母の誕生日に発行しました。

それからほぼ毎年のように、出逢いの中から生まれた詩をまとめた詩集を発行してきました。

詩人・絵描きとしての人生は、ここから現在までずっと続いています。

 

 

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須永博士の人生③【セツモードセミナーへ」

2025年02月06日 | スタッフより

ブログを書いている私(佐藤粧子)は1996年4月から須永博士の手伝いをするようになり、須永博士講演会、展覧会場まで車で行ける距離のところへは私が運転し、助手席に須永博士が座り、

目的地までいろいろと話しながら貴重な時間を過ごしてきました。

そんな中で、

「自分の歩みや昔書いた言葉や作品は今さら見せなくてもいい」

と、過去の詩集を読み返すこともないし、講演会で話す以外の生い立ちなど、人前で話すことはほぼない須永博士です。

だけど、私は聞いてみたい。と思い、2008年に聞いたことがあり、その返事です。

 

「ただひたすら、前へ、前へと生きてきた。

失敗も挫折も、悔しさも数えきれないほどあった。

宿に帰り、ひとり泣いた事もあった。

でも自分は、待ってくれている人がいつもいた。

だから振り返る時間なんて無かったよ。

次の旅、次の出逢いのために後ろは振り返らないで今まで生きてきた。

自分では、もう過去の作品を今、もう一度読み返そうとは思わないんだ。

でも、その時に、もがいたり試行錯誤したり自分に言い聞かせていた言葉を、

読んで力をもらえると言ってくれる人がいるのならば、どんな形にするかこれから考えてみてもいいかもね。

でも自分は常に、人に会うときは元気な自分、楽しい自分、パワーいっぱいの自分でいます。

それを一生続けます!」

 

という話を聞かせてくれました。

だから、自分自身が今より心が弱い時の言葉を見せるのに抵抗があったのでしょうね。

2008年の会話・・・それから本にまとめるまで16年も経ってしまいました。

 

昨日までは、須永博士の誕生~就職、そして人生の絶望、どん底を経験したことを書きました。

今日は、一度終わりにしようというところまでいった須永博士が、「たった一度の人生、やりたいことをやろう」

「助けてくれるのは自分自身」と気づき、22歳から通った「セツモードセミナー」でのことから書いていきます。

【セツモードセミナー 河原淳先生との出逢い】

昭和39年4月 当時港区にあった【セツ・モードセミナー】に通いはじめました。

週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り

「この道しかない。」

と心の中でつぶやきながら、真剣に学びました。

全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。

「みんなかっこいいなあ。」

スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。

良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、

生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして

若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、

もう1人イラストレーターの先生が、月に一度、教えてくれていました。

その先生が、「河原淳先生」です。ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せるための絵でした。

「雨の日、傘を差した人」というテーマです。

私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。

描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。 

「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」

と思いながらも、思い切って提出しました。

先生に提出し、休憩時間に。そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。

すると、突然、「この絵を描いた、須永君、立ってください」と言われました。

一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。おそるおそる、立つと・・・

「この絵が今日の、1番です。みんな、同じような絵を描いてもいけません。

この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。

須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」

 

「え!? 僕の絵が、1番!?」

びっくりしました。

教室のみんなもびっくりしていました。

そして、褒められたことで、とても自信がもてました。

今まで褒められたことなんて無い人生でしたから。

河原先生は、それからも応援してくださいました。

「自宅で、河原ゼミナールといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」

と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。

有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。

「みんなすごいなあ。世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」

毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。


 

当時描いていたイラストです↑

 

【夢への一歩】

「自分は詩人になる。」という夢を描き、その詩にイラストを加えたものを作品として完成させたい。

それに、写真もきっと、必要になる。心配かけ、苦労させた母の手伝いもしていきたい。

そうだ、まずは母が今、細々とやっている写真屋を、本気でやろう。

だけどやっぱり、基礎は学ばなければいけないんだ。

高校3年生のときは、ただ何となく勉強して、何となく受験して、うまくいかなかったけれど、

今度は本気で受験しよう。本気で勉強しました。

そうして、東京写真専門学校に合格しました。学費は、母が何とかしてくれました。

必死で働き、必死で払っていてくれていたのだと思います。

一年間、本気で、真剣に学びました。

昭和40年23歳の時写真専門学校に入学し1年間写真の基礎をしっかりと学び、

今まで迷惑かけっぱなしだった母に、少しでも楽をさせようと、卒業後も写真屋を手伝いました。

母と子、写真屋で食べていかなければと、真剣に考えました。

絵の学校、写真の学校の費用を出してもらったし、身体の弱い母に、少しでも役に立つ息子になりたいと思いました。

写真屋での主な仕事は、現像した写真をお客様に配達することその配達先の近所の文房具屋さんの息子さんが

喫茶店をすることになってオープンしたけれど壁には何もなくて、

「ここに絵を飾らせてもらえませんか」

とお願いして飾らせてもらいました。

それが初めての展覧会でした。

タイトルは「須永博 まんが展」

昭和41年 24歳の時です。



24歳の須永博士 近所の喫茶店での第一回まんが展

 

 

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須永博士の人生②【高校生~】

2025年02月05日 | スタッフより

昨日は

 

須永博士の人生①【誕生~中学生】 - 須永博士美術館スタッフブログ

今日は立春ですね。来週、2月11日に83歳の誕生日を迎える須永博士です。東京生まれの須永博士が50歳の時に、ここ熊本県小国町に出逢って1998年に須永博士美術館をつく...

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須永博士の誕生~中学生までを書きました。

中学生までは、目立つこともなく、成績も悪く、唯一中学校に入り入部した陸上部で走る楽しさを知った須永博士です。高校入試も、行きたい学校も無く・・・先生に薦められた高校を受験し公立高校不合格、合格した私立高校へと進学したのでした。

今日は高校での生活~を紹介します。

 

【高校入学】

昭和32年春  東京千代田区の私立錦城学園高校へ入学

 「どうせ自分はこの程度の人間だ。だからそれ以上やると疲れるし、努力してもみんな以上になれるわけが無い。

自分からがんばる 挑戦するなんてことは できない。やらない。」

ずっと、ず~っとそんな考えで生きていました。だらしない、やる気のない高校生活でした。

ただ、絵を描くことだけは相変わらず好きだったので、美術部に入部しました。

 毎日、楽しいことも無い、遅刻、欠席の繰り返しで、勉強もほとんどせずよく卒業できたと思います。

教室では休み時間、いつも絵ばかり描いていたのですが、2人の友との出逢いがありました。

 1人は、いつも成績のビリ争いをしていた日下部君。彼とは気が合い、話も合い、家が学校からの方向が同じで近かったこともあり、

よく一緒にいました。そしてもう1人の友との出逢いがその後の人生を大きく変えてくれました。

その友人は、工藤君。頭も良く優しい同級生でした。

 美術部で描いた自分の絵に興味を持ってくれ、休み時間に「何を描いているの?」と声をかけてくれて、

その絵をあげると喜んで自宅に持ち帰ったりしていました。

絵を描いて工藤くんに見てもらうことも、何となく嬉しいことでした。

 

【大学受験~高校卒業後】

「高校を卒業したら、父の写真屋を継ぎなさい。そのために写真を学べる大学に入りなさい。」

と、母に言われるがまま、写真の専門学校、そして大学を受験。

 でも、受験した3校すべて不合格。 高校3年間、ずっと成績はクラスの最下位争いをしているくらいでしたので

写真を学ぶ学校の受験に必要な理数系も全く分からず、受かるはずもありません。

 進路の決まらないまま、卒業できるかどうかも分からないような状況でしたが、卒業証書を受け取り、何とか高校卒業しました。

  卒業後は、当時父親が営んでいた写真屋の手伝いをしました。

浅草や錦糸町の写真屋から現像の依頼を受け、その写真を自転車で配達するのが自分の仕事でした。

 父は仕事は出来る人でしたが、夜はお酒を飲みに出かけ、その飲み屋さんの女性と仲良くて家に帰ってこない日もありました。

家に帰ってきた父に、母が問い詰め、父が大声で怒鳴ることが何度もあり、わたしは母を泣かす父が大嫌いでした。

大嫌いだった父ですが、感謝していることもあります。

自転車で配達をしていたのですが、父が「ひろし、車の免許を取れ」と言ってくれてお金を出してくれました。

教習所での車の運転が楽しくて、その時は「将来はタクシーの運転手になりたい」と思っていたほどでした。

運転免許を取得しましたが車は買えなかったのでオートバイを買い、配達に通いました。

 いつも配達に行く写真屋さんに

「君はよく働くね。もしよかったら、自分の弟の会社で働かないか。」

と紹介されました。それは、タイヤの販売代理店でした。車も好きだったし、母も就職を喜びました。

社会人として・・・「働いてみるか。」と、深く考えることもなく就職してみたものの、
 
人とうまく話せない。 今まで大変なことはみんな母がしてくれていた。

そんな自分が、タイヤを勧めても誰も買ってくれない。
 
会社の上司からは、毎日のようにみんなの前で


 「お前はダメだなあ。」

と言われる。
 
 でも、母は有名なタイヤメーカーへの就職を喜び、自分の苦しみ、悩みは理解してくれない。

家に帰ったってつまらない。

 新宿という町で、営業に出かける毎日。

 来る日も来る日も、うまくセールスできない。どこへ行っても断られる。

 「あ~、いやだなあ。」「辞めたいなあ・・。」

 そんな気持ちでいるから余計に売れるはずが無い。

上司に呼ばれ、みんなの前で比べられる。また落ち込む・・。

「あ~あ、もういやだなあ。」

「みんな俺のことをバカにしている。笑っている。」

「がんばったって売れやしない。」

こんなことを頭の中でぐるぐる考えていました。

働いて半年後くらいに、大学卒の優秀な人が入ってきて・・・その人から

「あなたは何にもできないんですね。」

と言われました。

それまでも、自分が勉強もできない、世の中のこともよく知らない人間だということは感じていましたが、

言葉で直接言われてとても苦しかったです。

それからも毎日のように

「お前はダメだ」「役に立たない」と言われ続けるうちに、人が信じられなくなり、

電車に乗っても身体が震えるようになってきました。
 

思い切って、母に「辞めたい」と相談してみたら・・・。

「あんな良い会社、なんで辞めたいなんていうの。」

と、やっぱりか・・・。という返事。

そんな時唯一の安らぎがありました。

いつも、会社の帰り道の銀座へ向かい夜のネオンや大きな鮮やかな看板を見て、それを絵に描いていました。
 

「きれいだなあ。」
「ずっと絵を描いていたいなあ。」

 やはり、絵を描いているときだけが自分の心が落ち着くのでした。
 家で母には悩みを打ち明けることも無く、いつも会話はほとんど無い生活でした。

 

 

【突然の父の死(須永博士20歳)】

 突然でした。

 昭和37年3月 大酒のみの父は、50歳、脳出血で亡くなりました。

 家にいると、母と口論する父が大嫌いでした。

 その日もお酒を飲んで酔っていた父は、私の態度が気に入らずもみあいになり、

 大声を張り上げた時に突然苦しみだしてその場に倒れました。

 私はその場を離れたくて外へ飛び出しました。

 救急車が来て、そのまま父は亡くなりました。

 

 泣きませんでした。

 「こんな簡単に、人は死ぬんだ。」

 それと

「もうこれで父のことを憎まなくて済む」

 

 というのがそのときの感想です。

  父の葬儀が終わり、その後すぐ、会社を辞めました。

 いやな上司もいるし、仕事もうまくいかないし、続けていても意味が無い。

 母は怒りました。

 でも、もういやでした。

 それから、家の中に閉じこもる生活が始まりました・・・・。

 

【1年半の空白】

 父もいなくなり、母と2人っきりの生活が始まりました。

 家にいれば、母が食事を部屋まで持ってきてくれる。

 仕事もする気にもなれない。

 毎日ただ生きている。食べている。寝ている。それだけ。

 「あ~あ、生きていてもつまらないなあ。」

 「誰も自分の気持ちなんて分かってくれないなあ・・。」

 

1人でいると、どんどん落ち込んでいくばかりでした。

 外に出て人に会うのが怖い。

 何をする気にもならない。

でも、部屋で本を読むことと、絵を描くことだけは辞めませんでした。

 

 部屋で1人で過ごす日々が1年半続きました。

誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。

 こんなに苦しいのに。

 こんなに涙がこぼれているのに。

もう生きている意味なんて無い。

 

毎日思いつめているうちに、

 

 「もう人生を終わりにしよう。

   誰も止めてなんてくれやしない。

  生きていてもいいことなんてひとつもない」

 

 昭和38年 11月の冷たい雨が降る、鎌倉にいました。

鎌倉はその前にも行ったことがあり、好きな場所でした。

 北鎌倉駅を降り、鎌倉の街をあてもなく歩きました。

もうこらえきれないところまで心がおいつめられていました。

自分のいくじの無さにほとほとあきれ果てていました。

なにかを思い立っても行動しないのです。いや、しないのではなくて行動する勇気を持ってないのです。

このままで生きていけば先は見えています。ただ、今までのように惰性で生きていくだけ。

自分の心などありません。喫茶店の窓ガラスに映る自分の姿は、みじめそのものでした。

踏切の前に立ち、電車の音が聞こえてきて・・

 

 「もうすぐ電車が来る。

   このまま飛び込めば、楽になれる。

  もうおしまいだ・・・。」

 

 「誰か 助けてくれ・・・」

 

 心で叫びながら、一歩、前に足を踏み出そうとしたそのときでした。

 

「このまま、この世を去っていいのか」

 

  確かに聞こえました。

  一歩前に出るはずが、一歩うしろに下がっていました。

 

  電車は通り過ぎました。

 

 ハッとしました。それからです。

 心の中から、こみ上げてくる言葉。

 心の声。

 

 「誰も助けてはくれないぞ。

  助けてくれる人がいるとすれば、

 

  自分自身  だ。

  自分がいるじゃないか!おれだ!

  

  今から、この弱い自分を、自分の力で絶対強い人間になってみせる。」

 

どこからか聞こえてきたようにも感じた心の声。

なぜだかみなぎってくる力。

 

さっきまでの弱い自分。惨めな自分。

でも今は違う。

絶対強くなってみせる!

絶対すごくなってみせる!

 

そう心が決まったのです。

 行きの電車の中では、真っ暗なトンネルの中にずっといるような、 目の前に何も見えず苦しくて苦しくて悶えていた自分 

帰り道は、トンネルを抜けた先に奇跡のような青い空と大きく広い 世界が広がっているように見えました。

今までの自分 惰性で生き、やる前にあきらめ、すぐにくじける自分 は、もう捨てよう。  

これからは、一歩一歩、「自分」という仲間と一緒に、 自分をつくっていこう。

やりたいことをやろう。好きなことをしよう。 そうだ、やっぱり自分が好きな絵を描く仕事をしよう。 

苦しいとき、本を読むと元気が出たなあ。 特に、詩を読むと、涙がこぼれてきた。

こんな言葉が書けたらいいなあ。

それまで落ち込むばかりだった自分が嘘のように、心の中は希望があふれてくるような気持ちがしていました。  

「いよいよ、自分への挑戦だ!」  「いよいよ、好きなことへの第一歩だ!」

「さあ、いよいよ自分の人生を素晴らしいものにつくっていくぞ!今までの弱い自分から、自分の手で、強い人間にしてみせる!」

と、心に誓い、新しい人生の第一歩を歩き始めようとしました。

真剣に考えました。 今までの自分には何の基礎も無い。

そうだ、それには絵を描く基礎を学ぼう!と、考えました。

基礎の無い人生は、趣味、アマチュアで終わってしまう。 

俺はプロになる! それには、ちゃんと学校へいって、基礎を学ぼう! 

そう思い、絵を学べる学校を探していると、

高校時代の友人吉田君が「セツ・モードセミナー」という学校があることを知りました。

「ここで勉強しよう。」と決めました。 「よし、学校で、絵の基礎を学ぶぞ。」胸の中は希望であふれていました。

母に、「絵の学校へ行って勉強したい。セツ・モードセミナーというところなんだ。」というと、返ってきた言葉は 

「会社もろくに勤められないお前が なんで絵で食べていける。 お母さんは許さないよ。」

 それまでの自分だったら、こう言われてすぐにあきらめていたでしょう。

でも、今までの自分とは違うんだ!

「よくも言ったな!いつも俺が、これをしたい、あれをしたいと言うと、それはだめ。やめなさい。こうしなさい。と言ってきた。

だから俺は世の中で通用しない人間になったんじゃないか。

もう二度と俺のやることに口だしをするなよ!

失敗したっていい。自分のやりたいことをやる!!!」

ここまで母にぶつかったのは、生まれて初めてのことでした。

母も驚いたと思います。でもここでも返ってきた答えは、  

「お前にできるはずが無い。」 

でした。 

 その瞬間、自分の感情が表に出たのです。母に身体でぶつかりました。

何をどういったのか覚えていないくらいです。ここまでしなければ、母に自分の気持ちを伝えられなかった。

今思えば、かわいそうなことをしました。でも、こうするしかなかった。

絵の道で生きられなかったら、もう本当に人生は終わり。と思っていたから、どうしても越えなければならないものだったのです。 

 次の日、母が家出をしました。 

「ひろしがおかしくなった。ひろしが狂った。」

母は、母の故郷、千葉にいきました。

自分がしようと、したいと思っていた家出を、先に母がしたのです。

母がそこで何を想い、何を考えていたかは今は知ることはできません。

ただ、それまで反抗することの無かった息子が突然、こんなことを言い、

こんなことを始めようとし、そして母に反抗するなんて・・・と、息が止まるほどビックリしただろうと思います。

 1週間ほど経ち、帰ってきたとき、母は何も言いませんでした。

あとから知ったことですが、母の弟が「姉ちゃん、一度ひろしにやらせてやれよ」と言ったそうです。 

それから、本当の「子離れ、親離れ」が始まりました。 

 セツ・モードセミナーに通うことを許してくれました。

費用も出してくれました。

「やるならば、趣味でやっていては本物にはなれない。基礎を習わなければ」

と決意しました。

(明日へと続きます。)

 

↑まとめた本はこちらから購入できます。

 

 

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立春寒波

2025年02月05日 | スタッフより

先週から、天気予報で「立春寒波到来」と報道されていて、毎日夕方入りに行く温泉でもご近所の方々と「来週はさらに寒そうね~」と言葉を交わしていました。

そして昨日、立春 予報通り、雪景色の朝でした。




日中は、必要なものの買い物へ、大津町、菊陽町へと車で行ってきました。

小国から、阿蘇外輪山を越えて、1時間ほどです。ここ須永博士美術館の標高は480m

阿蘇外輪山の一番高いところで900mほど、

 そして買い物に行った近辺は100mほどで、やはり標高差で別世界になります。

大津町、菊陽町でお買い物していると、小国の雪景色は想像できないです。

まったく、雪はありませんでした。

今では高くてなかなか買えないキャベツ、た〜っくさん植えられてます。





日が落ちると、急激にまた気温が下がるので、明るいうちに帰ろう!と、阿蘇市経由で帰ってきました。










昨日更新できなかった、須永博士の人生の続き、後程アップします。

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須永博士の人生①【誕生~中学生】

2025年02月03日 | 須永博士の人生

今日は立春ですね。

来週、2月11日に83歳の誕生日を迎える須永博士です。

東京生まれの須永博士が50歳の時に、ここ熊本県小国町に出逢って1998年に須永博士美術館をつくってから27年になり、多くの方が全国各地からお越しくださってきました。

全国各地の旅と展覧会、講演会をして人の前で自分の人生を語ったり、目の前の人に心打つ詩を書き続けてきた人生で、語られてきたこともありますが、あまり話すこともなかったこともあり、

昨年3月に沖縄へ講演会に行くことを機に須永博士の旅や出逢い、そして私が須永博士から聞いた事、ファックスや手紙で教えてもらってきたことをまとめた本、

「生きる力をあなたへ」というタイトルで作りました。

その中に掲載しました自叙伝を、今日から数日に分けて紹介いたします。

 

【須永博士誕生~】

昭和17年2月11日 東京下町で小さな写真屋を営む父・実(みのる)と、母・静枝の長男として生まれました。

 きょうだいは、いません。

一人息子の自分を母は大切に、大切に育てました。

それが生き甲斐でした。

父は大酒のみで、家業の写真屋が軌道に乗っていたこともあり、そのお金で外で飲み歩き、

家ではいつも酔っ払っていた記憶が多くあります。

 父と母が楽しそうにしている姿は見たことがなく

笑顔のない家の中で、母は自分に全愛情を注いで守られるように毎日を過ごしました。

今はっきり言えるのは

 「母の過保護」

でした。
いつもそばにいて、


 「これをしなさい」
 「この子と遊びなさい」
 「これはダメ」


と、ピッタリくっついていました。


 母は、帝王切開での出産で腸が癒着しよく寝込んでいた記憶があります。

 

【第二次世界大戦による疎開】

昭和20年 3歳のころ第二次世界大戦の影響で母の親戚がいる千葉県茂原市へ疎開しました。

父は東京に残り、戦地の記録を撮るカメラマンをしていました。

親戚の家は精肉店を営んでいて、肉牛を育てていました。

朝早くに叔父に牛小屋へ連れて行ってもらい仔牛に乳をあげたり

親牛に餌をあげたりするのがとても楽しかった記憶があります。

田舎での疎開生活は自然に囲まれていて川や田んぼでザリガニやドジョウを泥だらけになりながら

捕まえたりして遊んでいました。

その年の夏、日本は敗戦となり昭和21年に母と東京に戻りました。

父と母と自分の3人の生活がまた始まりました。

【小学生】

昭和23年春 小学校へ入学。

小学校では、勉強がきらいでした。根本的に「なんで勉強しなければいけないのか」が分からず、

「なぜ難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか」そう思って、まったくしませんでした。


 遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし それと、やっぱりいろいろな絵を真似して、マンガを描くのが好きでした。

身体はあまり強くなく、性格もおとなしいほうだったと思います。

ともだちは、いたけれど「なんとなく」一緒にいて「なんとなく」遊んでいた感じでした。

それなりに家に友達を連れてきたりもしましたが、母が「あの子はどこの家の子なの?」「親は何をしているの?」と聞かれるのがとてもイヤでした。

友達を連れてくると喜んだ母は、いつも必要以上にたくさんお菓子を出すので、それを目当てにうちに来ていたのではないかとも思いました。

【中学生】

昭和29年春   中学校に入学

 「また、退屈な学校生活が始まるなぁ・・・」と思っていた中学1年生の始まり。全校マラソン大会があり、思

いがけず学年2位に。

「お、やればできるじゃん。」

と自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。野球も好きだったけど、野球部が無かったので陸上部に入部しました。

長距離が好きで、800mと1500mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800mで優勝しました。

自分の活躍を母も一番喜んでいました。でも、期待が大きく膨らみすぎていました。

 3年生の時、マラソンの大会があり全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。

自分では、「マラソンは自分に合わないな。800mが走りやすい。」と思っていたので選考に落ちたことも納得していたのですが、

母は期待しすぎていたのです。

 そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けられたことは自分自身の大きな自信に繋がりました。

 中学時代の性格は小学生の頃と変わらすおとなしいまま。

ともだちも「なんとなく」。走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、

そのほかのことは本当に、「ただ、何となく・・・・。」すごしてました。

友達といるときは笑ったりそれなりに会話をしていたけれど、自分から何か行動に

移すようなことはせず目立たない、 特徴の無い子供だったと、自分では思います。

高校受験は、特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。

 「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。

1校落ち、合格したもう1校へ「まぁ、いいか。」というような気持ちで進学することにしました。


 

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節分 

2025年02月02日 | スタッフより

今年の節分は、今日2月2日

 

今朝、開館時間前に小国両神社へ行ってきました。

こちらでは、節分祭のことを 節分星祭りと言います。

新しいお札をいただき、神前でお祓いもしていただきました。

 

 

2018年(7年前)の星祭り↓

節分  星祭り - 須永博士美術館スタッフブログ

節分 星祭り - 須永博士美術館スタッフブログ

今日は節分数年前から全国的になった恵方巻き、小国町のスーパーにもたくさん並んでいました。節分といえば、私が子供のころからしていたのは、お父さんが鬼になって、豆ま...

goo blog

 

この時の記事には、「数年前から全国的になった恵方巻き」と書いてありました。そうだったんですね・・・今では、普通に全国のスーパーでは恵方巻が山積みに並んでいるイメージがありますが、関西発祥の文化が全国的に広まったのはまだそんなに長い歴史では無いんですね・・・

それに、私が子供のころは、親が鬼のお面をつけて、家の窓という窓を開けて「鬼は外 福は内」といいながら鬼に向けて豆まきをする・・・ということをする家庭も、今はあるのかな・・・?

変わってゆくもの、変わらないもの、ありますね。

 

さて・・・

明日は立春、そして2月11日には須永博士83歳の誕生日を迎えます。

そこで、須永博士の82年の人生を振り返り、

「生きる力をあなたへ」に掲載しました須永博士の生い立ちを紹介してゆこうと思います。

よかったら、お読みください。

 

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2月1日(土)

2025年02月01日 | スタッフより

2月スタートは雨の一日になりました。

雪じゃなくて、雨というのも久しぶりに思います。それと、久しぶりに氷点下にならなかった朝でした。

まだ、三寒四温というには早いけれど、少しづつこういう日が増えていくんでしょうね。

今年の2月は28日間しかないので、またきっとあっという間だったなぁと1ヶ月が経つと思うんだろうなと思いながらも、ご卒業に向けてのご依頼を今日も作っています。

とある柔道強豪高校の保護者さんからのご依頼で、柔道のイラスト入りキーホルダーを作っています。(1個792円)

このほか、これまでご依頼いただいて制作したスポーツの絵は

このようなものもあります。

写真入りでも作ります。

 

お名前入れは、片面無料です。

いろいろと、ご要望をお聞きしながらオリジナルで制作も致します。(画像入り、両面へのお名前入りは 1個990円)


贈る方の想いも載せて、心をこめて制作します!

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