日刊「NOCUSる」

たとえば5年後、あなたは何を食べている? それは、どこで誰が作る?

いつまでも(以下略)

2008-01-29 | 考える

先週号の「たまご新聞」です。
新聞記事の切り抜きが紙面の大半だけど、
すき間に書いた本文だけ転載しておきます。

 先々週、ある人に紹介されたと連絡があり、無農薬の水田稲作について教わりたいと来客がありました。Tさん、48才。オーストラリアで写真事務所を経営し、20年以上も暮らしてきて、現在いわき市の実家に一時帰国しているとのこと。
 幸いというべきか、天気予報どおり雨降りだったこともあって、ゆっくり時間がとれたのですが、それにしても気づいてみれば、7時間も話をしたり聞いたりしていました。
 なんと、Tさん。オーストリアに水田農業を伝え広めて、世界を救うのだという壮大な志を披瀝してくれました。語らいの中身については、次号以降に紹介したいと思いますが、たまたまの出会いが、水田農業の世界的な価値と、「水」を生かし守ってきた農村社会の営々たる取り組み、そして簡単には引き継げない技術の蓄積といったものを改めて見直す機会ともなりました。
 と、そんな今日この頃、転載した2つの新聞記事が目に止まりました。どちらも「朝日」の紙面からです。
 かたや、うつ病を克服したという「ひと」欄です。喜ばしい記事として読めばいいのでしょうが、線を引いた「脚本が書けなければ、私の田舎で農業をすればいい」という部分が引っかかってしまいます。
 セリフを言ったパートナーさんも、それを記事にした記者さんも、もちろん悪気はないし、それどころか敬意を表していると言うかもしれません。だとしても、あえてツッコミを入れたい。農業を軽視しすぎてるんじゃないのか、と。
 農業というのは、いつでも田舎に、まるで空気のように存在しているものなどでは決してありません。水田も農業も経験ゼロだという先のTさんが、米づくりについて説明する私の一言ひとことをメモしていた姿が浮かびます。
 もう一つの転載記事は、読者投書欄から。少しでも田んぼをやっている方は、同感と膝を打つ部分も多いのではないでしょうか。まさに農業の現実です。