葛西臨海公園の新緑(東京都江戸川区)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
困った時に出る、
「どうにかして下さい」という台詞、あるじゃないですか。
これってつい無意識に出がちな言葉だけに、
人間の度量を示す指標、というよりも決定的な「トドメ」になってしまいがちなんです。
「どうにかして下さい」には、実は3通りあるんです。
・本当に打つ手がなくて、手詰まりになってしまった場合
・打つ手はあるが、どの手が適切か自分では判断がつかない場合
・考えるのが難しいので丸投げしてしまう場合
…これだけパターンがあるので、
「どうにかして下さい」という言葉だけを聞いて、
本人の意欲そのものは計れない、
つまり全部が全部「丸投げ」とは限らないわけです。
むしろ、問題の大きさが自分で対処できる力を越えそうな場合、
それは褒められるべき行為になりますよね。
また、自分自身が「どうにかして下さい」と口にする場合も同じで、
安易に言ってしまわない限り、それは弱さでもなんでもないのだと私は思います。
自分自身の力で対処しようとしただけ、
それを丸投げとは言えないハズです。
そこにはなんら瑕疵はありません。
☆ ☆
さて。
問題は「丸投げ」の場合です。
ここからは「丸投げ」の事例に絞って考えてみたいと思います。
甘えて甘えて、
自分で考える前に「投了」してしまう人には、
あるいは自分自身が考える癖がないという思い当たりがある人は、
どうすればよいのでしょうか!?
実は。
「どうにかして下さい」と口にしている時点で、本当は見込みがあるんです。
甘えている本人が1mmでも前を向きたいからこそ、
まだ「どうにかしたい」と思えるわけです。
たとえ「甘え」でも、甘えるだけまだ救いがあるというのが正しいところなんですね。
「見ていて鬱陶しい」
「情けない」
こう思えてくるものですが、
「どうにかして下さい」すら言えなくなったら、
それはもう、本当に絶望してしまった時ではないでしょうか。
人に自分自身の全てを委ねてしまう場合、
それは必ず、なんらかの大きなトラウマを抱えているからです。
自分で選択した。
でも失敗した。
次は念入りに選んだ。
でも、努力が及ばなかった。
こんな繰り返しになれば、
自分にはもうなす術がないのだと錯覚してしまいがちです。
しかし、他人に選択や幸せの形を提示してもらっても、
それはそれで納得出来ないのが人間です。
これは服の試着と同じで、自分にフィットする価値観は、自分の心を物差しにしないとわからないからです。
よく観察してみればわかると思うんですが、
「どうにかして下さい」という相手は決まってより信頼できる人を選ぶものです。
しかし、どんなに信頼できる人、わかってくれていると思う人でも、
限界があります。
…というわけで。
自分で考えることを放棄するようになってしまった人には、
「どういう自分でありたいか」
「どんなふうになりたいか」
これを自分で考えてもらえるようにすればよいのです。
人間、ビジョンがあればこそがんばれることがあります。
ビジョンが持てるようにしてあげれば、
本人が変わってくれる場合があるのです。
そのためにも、わずかでも残っている「前を向く種」を砕いてしまわないこと、
つまり「甘ったれ」で終わらせないことです。
決めつけが不幸を導くことがあります。
「決めつけ」と書きましたが、
決めつけるのを我慢する力、
そして、わずかにでも射している希望の光を見守る力こそ、
冒頭でお話した「度量」なのです。
もちろん見守る対象が他人でも自分でも同じです。
大切なのは「可能性を信じること」なんですよね。