今日の研究会は、最近うちのステーションでお看取りをした患者さんの事例の検討会でした。
担当看護師は、5月から常勤で頑張っているRさんです。
施設の看護師だった彼女が、訪問看護師となって最初の2か月は、怖くて不安でどうしたらよいかわからなくて・・・と、毎日おろおろするばかり。
見ている私たちも「これはもしかしたら続かないかも・・」と思っていましたが、その後一転度胸が据わってからというもの、まっすぐにひたむきに、訪問看護のお仕事に向き合えるようになりました。
その彼女が、一人で在宅でのターミナルケアを受け持つのは、はじめてに近いかもしれません。
独居でのお看取り。
担当した当初は、まだまだお元気に庭の手入れなどもされ、たくさんのお話しをして下さった患者さん。
けれど、病魔は急激に進み、あっというまに旅立って行ってしまいました。
その間、主担当としてよく気を配り頑張ったRさんの、初めての緩和ケアでの事例発表です。
かなり緊張していましたが、最後までしっかりと発言もして、自分の意見も言っていましたので、私としてはそれが何よりうれしかったです。
今回のテーマは「告知」。
いつもは、事例から「苦しみ」「支え」「どういう私たちであれば支えを強めることが出来るのか」と言う事を、グループ分けして抽出し、ディスカッションするのですが、今日は趣向を変え、めぐみスタッフAさんと担当だった非常勤医師M先生の司会進行により、違う切り口で進行されました。
ずっと同じパターンで研究会が行われてきたのですが、今日はなれない中でも一生懸命みんなで考えようと二人は汗だくで司会をしてくれました。
今回キーパーソンであった娘さんの強い意向で、病名告知も予後告知もせずに、最後まで自宅で過ごされたIさん。
独居ではありましたが、訪問看護とヘルパーと往診医がローテーションし、最後の一週間は娘さんもお嫁さんも交代で泊まり込んでのお見送りができました。
しかし、何も告知しないことで、当のIさんとの会話はいつも「俺はいったい何の病気なのかなぁ?もしかしたら、まだ発見されていないような未知の病気なのかも知れないなあ。」
「でも、たぶんそんなに持たないと思うんだよ。誕生日まで生きられるかなぁ?」
そんな会話が多くありました。
訪問看護師も、担当医も、何も告知しないことに疑問がありました。
けれど、ご家族は「お母さんの時もそうだった。きっとあと少ししか生きられないと知ったら、生きることをあきらめてしまうと思います。もうあと少ししかないのに、今さらあえてそんなことを言う必要はないと思うのです。絶対に告知はしないでください。」と断言されたのです。
その時、私から言えたのは「ご家族の強い希望であれば致し方ないと思いますが、やはりウソを重ねていくのは医療者としては出来ません。もし、ご本人から『自分はもうすぐ逝くと思う。』とか『俺の病気は癌だと思っている。』と言われたら、それを否定はしません。」というものでした。
ご家族は、「それでいいです。それで自分なりにわかったとしたら、それはそれで了解します。」言う事でした。
結果、ご本人は死を受け入れながらも、何も知らされないまま、静かに眠る時間が増えていき、最後はご家族に囲まれて穏やかに旅立っていくことが出来ました。
もちろん、ご家族もそうすることが出来て、とても満足されていましたし、とっても感謝してくださいましたが、それでも私たちの心のどこかで、「未告知」という事実が引っかかっていたのです。
最近では、ほとんどの病院で最初の段階で病名告知は行われます。
アメリカでは、告知しないと罰せられるのだそうですが、日本でも治療方針を決めるのは、患者さんの選択となってきましたから、まず告知されることがほとんどです。
今回のようなケースは、気が付いたらもう手が付けられないくらい進んでいて、余命もわずかしかないという場合でしたので、病院での告知のタイミングがずれた形なのだと思います。
ちなみに、告知をしたことで「鬱」や「自殺企図」などの精神症状を発症する確率は、告知しなかった場合と比べても、ほとんど変わりないというデーターがあります。
また、自分は告知してほしいが、家族にはしたくないという、一見矛盾した回答がかなり多い事もわかりました。
ただ今回の勉強会でわかったことは、「告知」が良い・悪いという視点ではなく、やはり患者さんの苦しみを理解し、支えを強めることが、結果として良い援助が出来たと言う事になると言う事です。
参加者の中で訪問入浴のスタッフが言っていた言葉が印象的でした。
「私たちは、普段辛い病気と向き合っている患者さんに、いかに良い気持ちでお風呂に入って頂けるかを考えて援助しています。告知されていても、されていなくてもそれは変わりませんし、あえて私たちがそれに触れる必要もありません。たぶん、逆にそういう話は避けて、気持ちの良いお風呂で楽しんでいただくだけです。」と。
たしかに、このひと時を切り取れば、それは「きれいになりたい」「気持ちよくすごしたい。」という支えを強める最高の援助となります。
ご本人の希望を支えるために、何が必要か。そこが問題なのです。
でも、やはり病名や予後の告知は、患者さんには知る権利があります。
そして、これからどうしたいか、どこで過ごしたいか、何を残したいか・・
それらを考え、選択するのは、ご本人なのです。
まあ、ケースバイケースと言えばそれまでなのでしょうが、今日は違った角度から「告知」を考えさせられたいい勉強会となりました。
担当看護師は、5月から常勤で頑張っているRさんです。
施設の看護師だった彼女が、訪問看護師となって最初の2か月は、怖くて不安でどうしたらよいかわからなくて・・・と、毎日おろおろするばかり。
見ている私たちも「これはもしかしたら続かないかも・・」と思っていましたが、その後一転度胸が据わってからというもの、まっすぐにひたむきに、訪問看護のお仕事に向き合えるようになりました。
その彼女が、一人で在宅でのターミナルケアを受け持つのは、はじめてに近いかもしれません。
独居でのお看取り。
担当した当初は、まだまだお元気に庭の手入れなどもされ、たくさんのお話しをして下さった患者さん。
けれど、病魔は急激に進み、あっというまに旅立って行ってしまいました。
その間、主担当としてよく気を配り頑張ったRさんの、初めての緩和ケアでの事例発表です。
かなり緊張していましたが、最後までしっかりと発言もして、自分の意見も言っていましたので、私としてはそれが何よりうれしかったです。
今回のテーマは「告知」。
いつもは、事例から「苦しみ」「支え」「どういう私たちであれば支えを強めることが出来るのか」と言う事を、グループ分けして抽出し、ディスカッションするのですが、今日は趣向を変え、めぐみスタッフAさんと担当だった非常勤医師M先生の司会進行により、違う切り口で進行されました。
ずっと同じパターンで研究会が行われてきたのですが、今日はなれない中でも一生懸命みんなで考えようと二人は汗だくで司会をしてくれました。
今回キーパーソンであった娘さんの強い意向で、病名告知も予後告知もせずに、最後まで自宅で過ごされたIさん。
独居ではありましたが、訪問看護とヘルパーと往診医がローテーションし、最後の一週間は娘さんもお嫁さんも交代で泊まり込んでのお見送りができました。
しかし、何も告知しないことで、当のIさんとの会話はいつも「俺はいったい何の病気なのかなぁ?もしかしたら、まだ発見されていないような未知の病気なのかも知れないなあ。」
「でも、たぶんそんなに持たないと思うんだよ。誕生日まで生きられるかなぁ?」
そんな会話が多くありました。
訪問看護師も、担当医も、何も告知しないことに疑問がありました。
けれど、ご家族は「お母さんの時もそうだった。きっとあと少ししか生きられないと知ったら、生きることをあきらめてしまうと思います。もうあと少ししかないのに、今さらあえてそんなことを言う必要はないと思うのです。絶対に告知はしないでください。」と断言されたのです。
その時、私から言えたのは「ご家族の強い希望であれば致し方ないと思いますが、やはりウソを重ねていくのは医療者としては出来ません。もし、ご本人から『自分はもうすぐ逝くと思う。』とか『俺の病気は癌だと思っている。』と言われたら、それを否定はしません。」というものでした。
ご家族は、「それでいいです。それで自分なりにわかったとしたら、それはそれで了解します。」言う事でした。
結果、ご本人は死を受け入れながらも、何も知らされないまま、静かに眠る時間が増えていき、最後はご家族に囲まれて穏やかに旅立っていくことが出来ました。
もちろん、ご家族もそうすることが出来て、とても満足されていましたし、とっても感謝してくださいましたが、それでも私たちの心のどこかで、「未告知」という事実が引っかかっていたのです。
最近では、ほとんどの病院で最初の段階で病名告知は行われます。
アメリカでは、告知しないと罰せられるのだそうですが、日本でも治療方針を決めるのは、患者さんの選択となってきましたから、まず告知されることがほとんどです。
今回のようなケースは、気が付いたらもう手が付けられないくらい進んでいて、余命もわずかしかないという場合でしたので、病院での告知のタイミングがずれた形なのだと思います。
ちなみに、告知をしたことで「鬱」や「自殺企図」などの精神症状を発症する確率は、告知しなかった場合と比べても、ほとんど変わりないというデーターがあります。
また、自分は告知してほしいが、家族にはしたくないという、一見矛盾した回答がかなり多い事もわかりました。
ただ今回の勉強会でわかったことは、「告知」が良い・悪いという視点ではなく、やはり患者さんの苦しみを理解し、支えを強めることが、結果として良い援助が出来たと言う事になると言う事です。
参加者の中で訪問入浴のスタッフが言っていた言葉が印象的でした。
「私たちは、普段辛い病気と向き合っている患者さんに、いかに良い気持ちでお風呂に入って頂けるかを考えて援助しています。告知されていても、されていなくてもそれは変わりませんし、あえて私たちがそれに触れる必要もありません。たぶん、逆にそういう話は避けて、気持ちの良いお風呂で楽しんでいただくだけです。」と。
たしかに、このひと時を切り取れば、それは「きれいになりたい」「気持ちよくすごしたい。」という支えを強める最高の援助となります。
ご本人の希望を支えるために、何が必要か。そこが問題なのです。
でも、やはり病名や予後の告知は、患者さんには知る権利があります。
そして、これからどうしたいか、どこで過ごしたいか、何を残したいか・・
それらを考え、選択するのは、ご本人なのです。
まあ、ケースバイケースと言えばそれまでなのでしょうが、今日は違った角度から「告知」を考えさせられたいい勉強会となりました。
病名告知は、私には正しい答えはわかりません。あなた方医療関係者の意見を読む限り、告知したくてウズウズしておられるのですよね。
ただし、そのあとの心のケア、本人まわりの家族の心のケアを100%十分にできる自身がありますか?
わたしはきっぱり言えます。誰であろうと100%ケアができる人なんていない。
だから、たち入って告知すべきだと疑問に思う権利なんてない。
その方がどういう最後を望むか、最後ををどうしたいのか、その方は選ぶ権利があると言う事です。
自分の時間の期限を、みんなが知っているのに、自分だけ知らないことの不条理は、これまでの緩和ケアの中で、最大の問題となってきました。
あなたに何があったのかはわかりませんが、あなたが、自分の最後を知りたくないのなら、それはあなたの意思です。
そのように、周囲に意思表明をすればよいと思います。
知っていれば、やっておきたい事、伝えておきたい事、かたずけたい事がたくさんある方もいます。
死の受容は、周りが100%ケアするものではありません。
死の受容は、その方にしかできないのです。
そこが論点でもあり、長年研究されてきたものでもあります。
ただ、少なくとも私たち緩和ケアに携わるののは、そこを逃げては通りません。
避けて、知らないふりをするのは一番簡単ですが、それでは何も解決できませんし、人としての自律を妨げることになるからです。
客観的な事実を押し曲げるかどうかは、その方、ご家庭次第ではありますが、十分話し合う事が必要だと断言します。
そしてそれは、私たちの義務であると言う事です。
患者本人に事前調査をすればよいのではないでしょうか?そこを怠っておきながら、告知すべきだあーだこーだは、あなた方医療関係者の怠惰です。
死の受容は100%周りがケアすることではない?そこ、逃げてるじゃん。100%ケアを求める人がさらに告知を求めたらどうする? 「医療関係者はケアは満足にできませんが告知はいつだって楽しみなのでしますよ」と答えますか。告知するだけして、100%ケアしてほしいなんて知らなかったから、と言って放置されるのか。
ああこわい。
他人事だから簡単に言えるわな。
残念ながら、悪意を前提で話をする事はしたくありません。
人の死に関わる中で、医療者が告知を楽しみにしていると思われること自体、まともな意見交換は難しいですね。
あなたにとって、よほど不愉快な告知を受けた経験でもあるのでしょうか・・。
だとしたら、とても残念なことですが、私からはもうお話しすることはありません。
悲しくだろうが、心配してだろうが、楽しみで告知だろうが、告知という事実にかわりはない。
あなたは告知後のケアができない人。
だから、えらそうに告知について議論するな。