こぶた部屋の住人

訪問看護師で、妻で、母で、嫁です。
在宅緩和ケアのお話や、日々のあれこれを書き留めます。
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「惚れなおしちゃうよ・・」

2009-03-31 22:17:06 | 訪問看護、緩和ケア
先週は、もう一つの悲しいお別れがありました。

「帰るのならば今しかない。」医師からはそう言われました。
「このままでは、後悔する。あんなに帰りたがっている家に連れて帰ろう。」
夫はそう思いました。
二人の息子も、同じ思いでした。
そうして、彼女は家に帰ってきたのです。
家に帰ることが決まってからというもの、ほとんど反応のなかった意識は、少しずつ回復したそうです。
そして、帰る頃には目を開け、うなずいたり、首を振って意思表示をしたりするようになったのです。
しかし、それと引き換えのように、彼女の肺はリンパ液があふれ、痰が増えていきました。そして、退院した夜から吸引しても、吸引しても取りきれない痰で呼吸が難しくなってきたのです。
そんな苦しみの中でも、彼女は穏やかな表情をしていました。
家に帰ってきたのが、本当にうれしかったのでしょう。
夫婦二人で、子供を育てた家です。
夫は帰ってからずっと、CDをかけていました。
彼女の大好きな「コブクロ」のCDです。
そのCDをかけたとき、彼女は夫に向けてにっこり笑ったそうです。

翌日には、あふれる痰が詰まって、呼吸ができなくなってきました。
私は、彼女の呼吸を助けるために、胸を押し続けました。
医師も来て、酸素も入りましたが、私が手を離すと呼吸ができなくなります。
何度も吸引しながら、「お願い。取れて。呼吸を楽にして!せっかく帰ってきたんだから。もう少し!もう少しこの家族に時間をあげて!!」心の中で叫んでも、どんなに頑張っても、吸引チューブの届くずっと先に気管を埋める痰があるのです。
何もできないの?これ以上何もしてあげられないの?
悔しくて、悲しくて、ベットの上で胸を押しながら涙がぼたぼたと落ちました。
ごめんね。ごめんね。私には取れない。
(在宅でできることは限られているし、それが在宅緩和ケアなのだと、わかりすぎるほどわかっているのに。)

でも、不思議なことに、彼女はあまりつらい顔をしませでした。それどころか、「コブクロ」のCDが終わると、夫のほうに急に顔を向けたのです。
「ごめん。かけるよ。」CDをまたスタートしたとき、彼女はふっと笑いました。
夫は「今、笑いました!」「笑いましたね!」私も見ました。
夫は言いました。
「実は、今日どうしてもやらなければならない仕事があります。妻と二人で始めた仕事です。彼女のために受けた仕事なのに・・/こんな状況で行くことなんて・・・でも、今から断ることはできないんです。」
仕事は2時間ほどで終わるといいます。
先生と私は、その2時間、妻の命を繋ぐ約束をしました。
とりあえず、呼吸の補助の仕方を夫に教え、一度ステーションに戻り、スタッフに伝えました。
二人の看護師とヘルパーが向かいました。
1時間半ほどで会議を抜けて、先生も戻ると約束してくれました。
そして、その後の連絡で、夫は息子たちと看護師たちに妻を委ねて家を離れ、妻との約束の仕事を2時間かけて終わらせ、家に戻ることができたそうです。
その頃には、薬の作用もあり、弱いながらも自分で呼吸をすることができるようになっていましたので、ご家族に任せてみんな家を後にしました。

彼女が、家族に見守られて息を引き取ったのは翌日の夕方のことでした。
その時、夫も二人の息子も、キスをしてお別れをしたそうです。
ヘルパー責任者が、泣きはらした顔で戻ってきてそう告げました。
それから、先生も来てお別れの言葉を伝えたり、髪を洗ったり、身体をきれいにする間、二人の息子はぴったりと母に寄り添い、声をかけながら手伝ってくれました。
そして、妻が夫に頼んで買ってきてもらった、旅立ちのために用意された、青いやさしいワンピースを着せました。
ベリーショート髪がとても似合っていました。
彼女の化粧道具で、元気なころの二人で寄り添う写真を見ながら、お化粧をしました。口紅の色は、息子さんが選びました。
お姉さんは、自分のファンデーションを少しつけました。

本当にきれいな妻でした。やさしいお顔のお母さんでした。
夫がぽつりと言いました。
「こんなにきれだったんだね。惚れなおしちゃうよ。」と・・・



それぞれの旅立ち。

2009-03-30 00:00:23 | 訪問看護、緩和ケア
在宅緩和ケア。
「その人の思いに沿う事」「支えを知ること。」
「わかってくれると、思える存在であること。」
そして「最後の願いを、かなえること・・・」
でも、それはそんなに簡単なことではありません。
どんなに頑張っても、私たちはその人の本心はわからないし、何が本当に良かったのかもわからない。
自分の世界観や思い込みで、とんだ思い違いをしているんじゃないかとか、時々ふと怖くなったりもします。

先日、ひとりの孤高の老人が旅立ちました。
ずっとひとりで生きてきました。
どんなに痛くても、苦しくても、家にいることを選び、たった一人で死んでいきました。
確かに、最低限ヘルパーさんは入っていたし、ぎりぎり1週間前に訪問看護師、在宅往診医も入ることを納得してくれました。
でも、その時はもう、何も喉を通らず、自分で身動きすることもできない状態でした。身体中にできた褥創は膿を流し、痰もからんでいましたから、かなりつらかったと思います。
その間の長い夜を、暖房すらない、暗い部屋でたった一人、彼は何を思って過ごしたのでしょうか?
水が飲みたくても、どこか痛くても、誰もいない暗闇で、薄れゆく意識の中、彼は何を見たのでしょうか?
それでも決して病院に行くとは言わなかった。
誰かいてほしいとは、言わなかった。
すべてに首を振り続けて、ようやく私たちだけを受け入れてくれたんです。
ある朝、ヘルパーから「下顎呼吸が始まりましたが、まだ意識はあります」
と。
先生がそのすぐあと行った時も、まだわずかに意識はあったようです。
そして、その1時間後、私が伺いました。
玄関を開け、「おはようございます」そう言いながら部屋に入ると、静まり返った部屋は、鼓動とともに時間までも止めているようでした。
私は、空気でそれを感じましたし、その胸は2度と呼吸をすることはありませんでした。
「Aさん・・・」
「これでよかったんですか?たった一人で、これがあなたの望む最後だったんですか?」
私は彼のことは、全然知りません。誰も寄せつけなかったとしか・・
涙が出ました。
怖かったのかもしれません。
確かに、彼の希望だったこと。
けれど、本当にこれでよかったのか?と。私の価値観とは、あまりにもかけ離れた最後にうろたえていました。
あちこちに連絡をして、人が来るまでの間ひとりでひげをそり、そのやせ細った足を洗い・・・。
何度聞いても、これでよかったのだとも、本当は違ったのだとも、答えは返ってきませんでした。
何が一番望みかなんて、本当は誰にもわからない。
そんな思いが、今までの看とりまでも本当に良かったのだろうかと考えてさせていました。
しばらくして、ずっとかかわっていたケアマネさんも来て、ヘルパーさんも3人来て、先生もクリニックのナースも来て、みんなでお別れをしました。
ヘルパーさんたちも、涙ぐんでいましたし、みんなで声をかけてきれいにして、家を後にしました。
その日の夕方には、もうご遺体もどこかに運ばれたようです。
私は、どんな最後を送るのでしょうか?
そして、みなさんは・・・・・

菜の花畑

2009-03-29 12:32:33 | 草、花、収穫
週半ばから、いろんな事があって、結構ばてばてになっていました。
書きたいことはいっぱいあるのに、夕飯のかたずけが終わると、強烈な睡魔に勝てず、パソコンの前で眠りこけてしまい、全然更新できませんでした。
昨日は、たっぷり眠ったので、娘とリフレッシュに買い物に行きました。
午前中に横浜南部市場でお買いものandお食事、そのあとコストコ並木店へ。
その帰り、追分市民の森に寄ってきました。
近いのに、いつも橋の上を通り過ぎるだけだったのですが、やっと行くことができました。
農作業がゆったり進む、農道の間をぷらぷらと歩いていていきます。ナズナやスミレが咲いています。その先にやがて、小さな菜の花畑が現れます。

ゆるやかな丘の木々はまだ茶色が目立ちますが、穏やかな陽ざしと淡い色どりは、確かに山里の春を告げていました。向こうに見えるピンク色の木は、桃でしょうか?緋桜でしょうか?
調べてみると、横浜には横浜緋桜という種類があるそうですが、この木がそうなのかどうかはわかりません。
花霞・・・
やがて、その先に一面の菜の花畑が広がります。
小さな小川の流れのそばには、しゃがの花も咲いていました。
散策の人たちは、それぞれに写真を撮ったり眺めたりしていました。
遠くに見える青い橋が、いつも通っている中原海道の橋です。
これからの季節、レンゲやマリーゴールド、真夏はひまわり秋にはコスモスと、楽しませてくれるそうです。
悲しみや、切なさや、腹立たしさや、そんな思いにちょっと元気を無くしていた心が、とても穏やかになりました。
成長した娘の後ろ姿を追いながら、ちょっと幸せな時間を過ごせました。
お近くで、まだ行かれていない方、ほっと一息つけますよ。


今日は気分が最高です!!

2009-03-24 23:17:50 | 日々のあれこれ
やりましたね!!
WBC2連覇!
今日は一日中、みんなそわそわで仕事してたんじゃあないでしょうか??
心臓の悪い人は、結構発作起こしたんじゃないでしょうか?
私は、途中経過を見るだけで、胃が痛くなりました。
どこの家に訪問行っても、テレビでWBC釘ずけだったようです。
だから、スタッフも訪問から帰ってもみんな、経過を知ってるんです。
「○○さんもずっと見てましたから、知ってます!」って。
私は、ちょうど午後から、めぐみ在宅クリニックのデスケースカンファレンスでした。
2時に終わったと同時に、小澤先生もワンセグ携帯持って、クリニックの外で一生懸命経過を見てました。先生は「あー!!アイコンが多くて点数が見えないー!」と叫んでいました。
あわてて自転車こいで、ステーションに帰ると、訪問終わったスタッフと事務がテレビの前で騒いでました。
(まあ、3年に一度の国を挙げての試合なので、ちっと記録の手を休めてみんなで見ました。)
9回で、ダルビッシュが打たれた時には悶絶しましたが、延長でイチローが打った時には皆心臓を抑えて歓声を上げました。
いやー。よかったよかった。
こういう時は、素直にみんなで喜びましょうよ。
いやなこともたくさんあるけど、この勝利は国民に元気を与えてくれますよね!
それにしても、イチローかっこいいです。
かっこよすぎです!!千両役者と言われる所以は、このタイミングでこの仕事ができるからですよね~
とにかく元気をもらいましたので、また明日から頑張らねばなりません!
みなさんも、それぞれ持ち場に戻って、よいお仕事をいたしましょう!

地域連携

2009-03-23 00:11:13 | 訪問看護、緩和ケア
私の訪問看護ステーションのある区内には、大きな病院はありません。
でも、車で30分以内に、大学病院や公立病院など大きな総合病院が結構あります。ですから、大きな病院からの訪問看護の御依頼もかなりあります。
並行して、病診連携を行いつつ、各病院の地域連携の専門セクションが動いて、いろんな情報提供や、在宅療養に向けての準備、家族指導などをしてから、退院調整をして帰ってきます。必要があれば、私が入院先へも行きます。
最近は、ほとんどの病院で、ちゃんと地域連携セクションが機能していて、退院時の問題点もはっきりしていて、病状説明もちゃんとしてくれます。
特に、ターミナル期の方は、今後、化学療法など積極的にするのか、それとも自然に任せるのか、看とりに関して、最終的に病院にもどるのか、在宅にするのか。なども話しておいてくれます。
もちろん、すぐに決められることではないので、迷ったまま帰る方もいますが、基本はいくつかの選択肢をちゃんと提示しておいてくれます。

だから、帰る時点ですでに在宅での往診医が決まって帰る方も多く、そういう方は帰宅後も、あまり動揺することなく、ご家族の時間を大切に持つことが出来ています。

でも、なかにはいつまでたっても地域連携がちゃんと機能しない病院があるんです。
この連携の悪さは定評があって、ケアプラザのケアマネさんなんかも、いつも怒っています。
私も、何度も不快な思いをして、二度とここの依頼は受けるのやめようと思ったか知れません。
幸い、隣の自治体の病院なので、あまり依頼は多くなかったのですが、このところ急に増えてきて、その都度腹が立っています。
なにしろ、家族への病状説明や今後の経過、予後、治療方針もなんかいま一つはっきりせず、帰宅後の療養の選択肢も、まったく提示していないので、家族も本人も「何かあったら病院」としか聞いていないんですよ。

癌性疼痛のレスキューもチャンと説明しないので、この前は初回訪問で、「痛いときは何かお薬もらってきましたか?」と聞いたら「これですか?」と言ってアンペック10mgの座薬を出してきました。
「これは、どんな時にどのくらいの間隔をあけて入れればいいんですか?」とご家族。「これは、麻薬と聞いていますか?」「えっ!そうなんですか?何にも聞いていませんけど。」
物には順序があると思うのですが・・・まずはこれ、次はこれ、どんな時に、どれをどの位、間隔はどの位って。どれが鎮痛補助剤でどれが麻薬で、どれが鎮静剤なのかとか。
もちろん、今後の方向も、「また、元気なったら化学療法しましょうね。」と繰り返し、隔週通院させて毎回採血して「やっぱり、無理ですね。また今度来て」ってどんどん衰弱しているのに、ほとんど食べられないのに。
家族が、この状態で通院させるのがどんだけ大変かわかっているんでしょうか?
(この時のご家族は最後はカンカンに怒って、在宅での看とりに踏み切り、看とりまでされましたが・・。)
疼痛コントロールも、レスキューをちゃんと出さないから、痛くても次の受診まで我慢。入院しなくちゃコントロールできないの?
今までも、そんなことばっかりでした。
ひどかったのは、ターミナルの方の退院に、ケアマネ依頼されて病院に行ったら、医師に「ケアマネは頼むけど、訪問看護はうちの看護師が行くから」って、じゃあなんで訪問看護ステーションがケアマネやるの?
で、「うちの訪問看護は、病院のだから、週1回定期的に行くだけだから、時間外にはいけないよ。なんかあったら病院に来て」
ハ~。びっくりしました。ここまで在宅知らない病院があったのかと。
結局、この方は2日ほどしか家にいられず、病院の訪問看護師が来る前に病院に戻っていきました。

ここ数年やっと、地域連携室ができたと喜んでいても、内容はあんまり変わらず、
これからどこへ行くんでしょうね。
患者さんが一番かわいそうです。
とりあえず、初回訪問から少しずつ、在宅でも穏やかに過ごせること、自分で選択できるのだということを、お話しています。

もっと、在宅緩和ケアも含めて、地域連携が充実していくといいのにね。



春分の日

2009-03-21 00:07:12 | 草、花、収穫
今日は春分の日です。
お休みなので、午前中に1件の訪問だけして、母のお墓参りに行ってきました。
母はお天気女でしたので、今日はぽかぽかの晴れです。
お花を買って、庭の花もちょっと足しました。
今、庭に咲く花は、ミツマタ、キンセンカ、沈丁花、エリカ、貝母ユリ、ラベンダー・・・もう少しすると、スノードロップが咲くのに。
ツルムラサキや、ニラ花もほんの少し咲き始めました。
きっとこれからたくさんの花が庭を賑わせてくれると思います。

お墓は、暖かな日差しの中、お花を手にした人たちで、お彼岸のにぎわいを見せていました。そして、懐かしいようなお線香の匂いに包まれて・・・
家族で手を合わせると、なんか気持ちが落ち着きます。

そうそう、昨日娘が「お母さんきて!!変な虫がいる!」って呼ぶので、見に行ったらこんな虫がいました。
調べてみたら、「アカエグリバ」っていう名前らしいです。
触っても逃げないし、なんかかわいらしい虫でしょう?
こんなにおっとりしてたら、天敵にすぐやられちゃうんじゃあないでしょうか?
でも、、枯れ葉にそっくりに擬態しているから、大丈夫なのかなぁ・・・
それにしても、もう少しわかりにくい所にいればいいのに。
娘も写メしてました。
これから春本番ですね。今年は、花粉もすごくて一時はどうなるかと思いましたが、耳鼻科のキムシノ先生から出してもらったお薬が効いて、今のところ快適です。
3連休とはいえ、緊急当番なので、あんまり開放的な気分じゃあないけれど、もうすぐ冬が終わると思うと、やっぱりうれしくて、庭でスコップ持ちたくなります。
何か、いいことがありますように!!

在宅緩和ケア研究会 その1

2009-03-18 23:33:15 | めぐみ在宅緩和ケア関連
毎月第3火曜日の夜に、連携先のめぐみ在宅クリニックで地域緩和ケア研究会をやっています。
なんだかんだで、もう23回もやっていて、ほとんど出席しているので、なんとなく会話記録の分析も注意散漫になってきていて、そろそろ形を変えてはいかがなもんだろうか、と思ったりもするこのごろだったけど・・・
やっぱり、まだまだわかっていないんだなーと、再び反省しました。
会話記録から、どこでどのような反復をして、相手に自分を理解者だと思ってもらうか…そして、そこから、その人の支えを理解し、マイナスをプラスにできるか・・・って、ハ~。難しいですわ。

それでも、今回自分の思い込みで会話を進めてしまった先生の反省から、「自分の世界観で思い込み、一方的に会話を進めることは、絶対にしてはいけない」ということ。
自分が理解者ではないと思うばかりか、ひいては、自律を失わせることになる。

ここで、あの補佐人を思い出してしまいました。
自分の価値観、自分の正義、自分の知識の中から導き出した、理想のプラン。
それこそが、自分の世界観で思い込んだ、彼のための最高のプラン。
だから、彼女は失望し、今までの生活を否定されたことで自律を失った。

たとえ認知でも、身体が動かなくても、自分で選択できる、自分の理解者だと思える人に、委ねられる。それが自律なわけですから、理解者でない人に、まったく違う世界観で老後の生活を仕切られてしまっては、気力を失って不穏になって当たりまえなんですよね。
これから、陪審員制度も始まりますよね。
そう考えると、人の人生を左右することを、いくら証拠があるからって個人的な判断で審判を下すのは、めちゃめちゃ怖いことですねー。

最近、独居で最後まで自宅で、と言う方も結構増えているんです。
Aさんは、絶対入院も、医療処置も拒否の人です。
つい、この前まではヘルパーもベットも看護師も医師も拒否していて、ケアマネさんは頭を抱えていたようです。
暖房器具の一切ない家。衣類や寝具も端がほつれるくらいのもの、掃除もしないし、自宅での入浴もしない。
そして、持病がどんどんと悪化して、とうとう寝たきりとなったのですが、入院させても、採血さえもさせない。
何としても家に帰る、と。
そして、願いはかない、彼は自宅で一人、闘病しています。
さすがに、本人も最低限のサービスは了解してくれました。
だって、自分がつらいから。
そして、一緒に入った先生は言いました。
「○○さん。今のご病状から考えると、ごく近い将来、お迎えが来ると思います。」
本人は小さな声でやっと答えました。「覚悟は出来ています」と。
「○○さんは、これから、どうされたいですか?病院や施設ですか?」答えない。
「この、ご自宅で最後まで過ごされたいのですか?」 「はい」

全身に大きな褥創が5か所ありました。拘縮で体は自力では動かせません。
たんも絡み、呼吸も苦しいはずです。自力で水も飲めません。
朝、昼、夕のヘルパーと、訪問看護師、時々Dr、時々遠方から訪ねてくれる甥子さん、それ以外は、その状態で一人です。
処置を終えて、「帰るけど、大丈夫ですか?」と聞くと、わずかに頷きます。
後ろ髪を引かれる思いで、毎日私たちはその家を後にしています。
でも、それは彼が選んだこと。彼の選んだ人生の終焉。
どんなに、悲惨な状況に見えても、何度確認しても、彼がそうしたいことなんです。
この人に、後見人がついて、これは不衛生であり、人として許されざる生活であると判断したら、どうなるんでしょうか??
結果的にそのほうがいいんでしょうか??

わかりませんね。なんか、いくらかんがえても、私の常識が正しいかどうかなんて。

とりとめないことを、書きました。
なんか、このところ難題続きでいささか疲れてしまいました。
もうすぐ3連休。なのに私は緊急当番・・
何事もなく過ごせますように。

成年後見人(補佐人)について、再び考える。

2009-03-15 00:19:36 | 訪問看護、緩和ケア
この前補佐人について、いろいろ書き連ねてみたものの、あれからも腑に落ちない思いはずっと持ち続けています。
あの患者さん、一時はとっても良くなっていて、担当の看護師も「今の状態なら、ヘルパーさんでも不安なく入浴介助できるかも知れません。」と言っていました。
でも、内服の管理や排便コントロール、病状管理を考えると、最低でも60分は必要と考えていました。
ある日、突然私を訪ねて、例の補佐人が現れました。
なるほど、どこから湧いてくるのかわからない自信に充ち溢れ、持論を展開されましたよ。
彼は、「自分は介護保険の調査もやっているし、ケアマネも持っている。それに認定審査会の委員もやっているのでよーくわかる。Tさん(患者さん)の介護度は絶対に3から2に下がること間違いない!」
と言い、「そういうわけだから、サービスはどうしても削る必要があるので、なんとか訪問看護を週1回にしてほしい。」と切り出しました。
審査会の委員と調査員をやっているからよくわかると、再三言うので、ついに「私も委員やっていますが、絶対下がるとは言えないんじゃあないですか?認知もあるし、病状も不安定で、なによりずっと困難事例で行政が一番よくわかっているでしょう?」と言いました。なんかあんまり役職を並べるので、それが自信のもとなら、ちょっと違うような気がしたので・・・
私「それに、もし2になったら、区変かけましょうよ。」
補佐人「いや、それはできないでしょう。」
何で??担当者全員で意見をまとめて区変かければいいじゃないですか。
私「それに、Tさんの希望で、Tさんが生活をするのに必要な生活費や医療費が、多少自費分としてでたとしても、それは必要経費でしょう?。それで、貯蓄が将来的に無くなった時、保護の対象となってもそれは正当な理由ですよね?」
補佐人「や、まあそうですが、いずれTさんには、特養に入ってもらうので、まあお金もある程度残しておかないと…」
私「とにかく、今は状態が落ち着いているので、入浴もヘルパーさんにお願いしても大丈夫なようなので、週1回60分でもいいと思いますよ。
ただ、この方はとても病状の不安定な方で、良いと思うといきなり寝たきりになるということを繰り返していますので、あまり良いところだけしか知らないで、そこだけ見てプランを立てると、あとが大変になりますよ。」
私「それから、看護師の話ですと、このところとても元気がないそうですよ。お金のことをとても気にしていると・・。それから、お風呂に入る時もここ1ヶ月『怒られるから入る。』と言うそうです。
誰に怒られるのか聞いても、はっきりしないらしいのですが、表情も暗いし、急激な環境の変化が問題なんじゃないですか?」
補佐人「まあ、そういう報告は私も聞いていまして、少し責任は感じていますが」
そんなやり取りを、けっこうしたあと、彼はTさんの所に向かったようです。

その後、私は主治医に事の経緯を報告し、さらにその1時間後くらいでしたか、なんと補佐人が訪問すると、Tさんが床に転がり動けなくなっていたそうです。
補佐人から救急車を呼ぶという電話が主治医に入り、まったをかけて主治医が飛んでいくと、以前にもあった腰痛が再発して動けなかったということがわかりました。這いずって、ベットまで移動して、また寝たきり状態に逆戻りしたわけです。
ほーらごらん。こういうことの繰り返しを、私たちが支えてきたんですよ!!
とはいえ、今回はなんとか室内移動はできるようになりました。
でも、補佐人の提案で購入された高級座椅子には、Tさんは座りません。
なぜか、いくら進めてもその隣に座るそうです。それに、汚いからと言って、補佐人命令で入れ替えた畳の代金がどこから出たかが、Tさんの心配の種だとか・・・
彼は、Tさんは鬱であるとか、息子さんの障害のアプローチが間違った病名にもとずいて行われているとか言っていましたが、それは、医師が診断することで、私たちが断定できることではないですよね。

なんか、せっかく老後を安して委ねられる制度が出来てよかったと思っていたのに、こんな風に自分の思い込みだけで突っ走って、老後の生活をしきられてしまうは、凄く怖いと感じてしまいました。
不潔だ不衛生だっていったて、そこにその環境で何十年も過ごしてきたんだし、新しい座椅子より、使い古した座布団が好きだっていいじゃない。使わない座椅子をを買うのなら、必要なサービスにお金使ったほうがいいんじゃないかと思うのは、へんですか??

そうしたら、きのうTさん訪問中にケアマネがきて、「このまえ管理者さんと話して、週1回60分でいいということでお話がつたんですがそれでいいですか?」
って・・・。
あの時点では、なにもなくって、ADLも良いことが前提でのお話だったはずですが・・・??
なんかもう、相手が正しくて、私がずれてるのかな??よくわかりません。
やれやれって感じです。訪問看護って、介護保険のお邪魔者なんですか・・・

なんだかとりとめなくなってしまいましたが、がっかりなお話でした。


怒濤の3月。

2009-03-14 00:08:58 | 訪問看護、緩和ケア
年末年始と、かなりハードなスケジュールで過ごしましたが、1月の初めにはすっかり静かな日々となっていました。
亡くなられた患者さんや、入院入所された患者さんも多く、スタッフの勤務表も、珍しくぽつぽつと空欄が目立っていました。
今のうちに、いつもできない書類の整理や居宅の整理なんかもできて、褥創用のパットのストックも結構作れたりしました。
あんまり落ち着いていて、新患さんも少ないし、どうしたんだろう・・?と不思議になるくらいでした。
めぐみ在宅の小澤先生に聞いても、「うちも、年末年始に逝かれた方が多くて、今はすごく静かです。でも、大嶽さん、これは嵐の前の静けさせすよ。すぐにまた大変になりますよ」と言っていました。
地域の病院の連携室も「うちも、今はウソみたいにみんなおちついているのー」とのことでした。
だいたい、訪問看護って波があって、本当に潮が満ちるように新しい患者さんが押し寄せ、怒濤の波にもまれていたかと思うと、一斉に潮が引くように亡くなっていってしまうんです。
うちは、11月と1月にスタッフが2人増えたので、「新患さん今ならいつでもうけいれOK」とか言って余裕をかましていました。
・・・が、2月の後半から新患依頼が増え始め、3月に入ってからは毎日2件3件の相談が入るようになりました。
「わー!!なんなんだ!」という感じで、訪問や会議から帰ると、机の上に相談用紙が何枚も置いてあるんです・・・

そして3月なかば。つかれてます・・・
夜は眠気に勝てないので、ブログの更新もできずバタンキューでした。
3月の新患さんは、今わかってるだけでも13人です。
だんだん、わけがわからなくなってきて、いったい誰を担当にしたのか、どんな患者さんだったのかも、しばらく考えないと出てこなかったりします。
そろそろ、みんなの勤務表の空白がなくなってきました。
これからの患者さんの振り分けに頭を抱えています。
4月になれば、勤務日数を増やしてくれるナースと、産休明けのナースが帰ってきますので、少しは大丈夫かな・・・

しかし、新患さんの80%がターミナルの方っていうのは、時代の変化を感じてしまいます。

だって、10年前は寝たきり老人や、リハビリ目的などの、長く穏やかに経過する人のほうが、はるかに多かった気がします。
ターミナルの方は、全体の2割くらいじゃあなかったでしょうか・・

あまりの出入りの激しさ、速さに追い付けません。
そのうえ、今は区内の作業所の健康相談めぐりもあり、さらに事業所説明会やら、地域連携会議やら、認定審査会やらステーション連絡会やら、行政との会議なんかで、ステーションにいられる時間が少なすぎますー!!

うちもスタッフの人数が増えて来ると同時に、利用者数も増えています。
チーム分けにするとか、リーダーを決めるとか、なんか考えないと、把握する患者が多すぎて、緊急当番が悲鳴を上げています。

なんか、もっと効率的に分担する方法はないものでしょうか??

アー・・ダメです。睡魔が・・・
もっと書きたいことあるのにな・・・

さよなら。ごんちゃんのお父さん

2009-03-08 00:51:41 | 訪問看護、緩和ケア
ごんちゃんは、シーズー犬です.
3年以上前になりますが、私がまだスタッフだったころに、ごんちゃんのお父さんに、訪問するようになりました。
ごんちゃんのお父さんは、慢性の肺の病気で、常時酸素を吸っていなければならない状態でしたが、まだまだお元気で、いつも呼吸リハをかねて、お散歩に行きました。
お父さんと私が、お散歩の準備を始めると、ごんちゃんは、きまって「連れてってー!!」とばかりに吠えまくり、ズボンにかみついたりするので大変でした。最初は、リハビリなんだし、犬まで連れていくわけにいかないと、置いていきましたが、そのうち、お父さんは散歩を面倒がってあまり行きたがらなくなりました。
お父さんは、ごんちゃんを溺愛してましたから、ごんちゃんを置いていくことがつらかったのかもしれません。
「じゃあ、ごんちゃんも一緒だったらお散歩行きますか?」「うん」
ということで、その日から、ごんちゃんも連れてのお散歩になりました。
酸素ボンべをしょって、パルスオキシメータで酸素飽和度をはかりながら、ゆっくり歩いたり、深呼吸をしたり、ストレッチをしたり・・
ごんちゃんは、ずっと私とお父さんの歩幅に合わせて、ちょこちょことついてきました。「ごんちゃんは、かしこいなー
関西弁で頭をなでます。
最初は、私には体を触らせなかったごんちゃんも、そのうち私に駆け寄って、うにうにさせてくれるようになりました。
散歩から帰ると、お父さんは、あまり見えない眼で、コーヒーを入れてくれるようになりました。
「一緒に、コーヒー飲んでや。」こういう場面で、仕事ですからとお断りするのは、逆に問題なので、病気の事や、薬のことなど交えて随分といろんなお話をしました。
お母さんも、お父さんの若いころの話をたくさんしてくれましたが、なにより関西弁での口喧嘩が、夫婦漫才みたいで楽しかった・・・・
やがて、ごんちゃんのお父さんの呼吸機能は少しずつ悪くなっていきました。
それでも、晴れた日は、コースを変えて歩きました。暑い日も、寒い日も・・
2年過ぎるころには、酸素の量も増えてきました。
短い坂も上がれなくなり、平地を歩きましたが、やはり思わしくないので、検査入院。退院してからも、少しずつ苦しさが増えていきました。
具合が悪い日は、お父さんと、お母さんとごんちゃんと、薬の整理をしたり、病気のことを話したりしながら過ごしました。ごんちゃんは、そんな時も、私たちの間を行ったり来たりしていました。
「ごんちゃんは、かしこいなー」それがお父さんの口癖でした。
あるひ、訪問に行くと、ぜーぜーと荒い息をして熱も高く、苦しそうにしていました。
酸素飽和度もあがりませんし、肺の音はバリバリと嫌な音がしていました。
このときは、短い入院で帰ってこれました。
こんなことを何回か繰り返すようになり、ある日は、「胸が痛いんだよ」と言いました。「しんどい」と。
左の肺の音がしません。また救急車です。
やはり、気胸でした。この病気のかたは、続発性の気胸を起こしやすいのです。
それでも、また退院して、お正月を家族と過ごすことができました。
そして、1月の終わり・・
また、訪問すると苦しそうな息をしています。
この時は、すでに酸素飽和度も50%まで下がっていたため、再び救急車を呼びました。お父さんは、苦しい息の中で、私の手をぎゅっと握って、泣いていました。
怖かったのでしょうね。「お父さん。治療して、また帰ってこようね。待ってるからね。」お父さんはウンウンと頷いていました。
それが、ごんちゃんのお父さんとの最後になってしまいました。

私は、もうずいぶんとたくさんの患者さんをお見送りしてきました。
お看とりをした方も、病院で亡くなった方も含めると、もう何百人にもなるかもしれません。そしてそれは、いつの時も辛く悲しいことです。
でも、いくつかの季節を経て、ずっとかかわってきた方は、やっぱりかなりこたえます。本当に、心に穴があいてしまいます。

金曜日に、お花を持ってお線香をあげさせてもらいに伺いました。
いつものように、ピンポンを押すと、ごんちゃんが走って出迎えてくれました。
「みてよ。お父さん、こんなんなってしもた。」「あんたには、いろいろ世話になったなあ。」
お母さんはさみしそうにそう言って、「ほんでも、もうぼろぼろやったからなあ。しょうがないわ。最後まで、いろいろやってもろうたし、めぐまれてたんとちゃうかな。」そういって、コーヒーをいれてくれました。
「お父さんがいないのに、ひとりで飲むのはつらいね」
ごんちゃんとも、お別れです。
お父さんがいなければ、もうこのお宅にも訪れることはないのですから。
思いっきり、スリスリして「元気でね。お母さんをよろしく」
それが、お別れでした。

そうして、これからもたくさんの方をお見送りするんですよね・・
それが、私たち訪問看護師のお仕事なのですから。

そうそう、新患さんの家に行く道すがら、彼岸桜が満開でした。
大和と瀬谷を隔てる川べりに、一足早く春を告げていましたっけ。



「おくりびと」やっと見ました。

2009-03-01 23:13:20 | 読書、漫画、TVなど
なかなか見れずにいた、「おくりびと」やっとみました。
3日前から、ネットでチケットとっておいて、一人で映画館へ。
よかったです。すごく良かった。
「死」の表現が、とても自然で、淡々と描かれていました。
もっくんの美しい所作もさることながら、山崎努の存在感も際立っていましたね。
人それぞれの最後が、私の知っているそれぞれの最後と重なり、涙が止まりませんでした。
「死は、これで終わりなんじゃなくて、これから始まるのだ」と、焼き場の係りが呟きます。「ありがとう。いってらっしゃい。また、逢おう」と言葉をかけて、点火します。

納棺も、火葬場でかまが閉じる瞬間も、家族にとっては一番つらい瞬間です。
わたしの母が逝った時も、その時の悲しさはとても耐えがたいものでした。
「永遠のさよなら」母の手、母の肌の色、母の小さくなったからだ、母のもう二度と笑わない顔、白髪交じりの髪も、足も、すべて、すべてなくなってしまう時。
そう感じたのです。

でも、時間がたって、今は逆に母を感じることがあります。
時折訪れるフラッシュバックのような悲しみは、少しずつ遠のき、それとともに、自分の年齢が母に近ずいていく事に気がつきます。
いつか、また会えるのでしょうか。
きっと、会えるのだと思います。

私たちも、「死後の処置」とか「エンゼルケア」とかいわれるケアを行っています。
「おくりびと」をみて、もう一度振り返ってみようと思います。
私たちは、自分のかかわった患者さんのケアをするので、多少なりともその方を知っています。長いかかわりがあればご家族も含めて、その最後をどのように過ごされたかを知っています。
私たちなりに、心をこめてお別れの身支度をさせていただいていますが・・
肌を見せすぎているのではないか、無駄な動きがあるのではないか・・・
そんなことも考えたりしました。
最期の時が、残された家族にとって、美しいものにならなければいけません。
その方の、新たな旅立ちのために。

映画の中で、遺体を扱う仕事が不浄のもののように蔑まれ、忌み嫌われるなかで、モックンが、「死」と「おくるひと」の本当の意味を知って行く過程がとてもよかったです。
実は、だいぶ前に原作を読んでしまっていて、何も知らなければもっと感動していたんだろうなーと思い、つくずく後悔しました。
だって、次の展開がわかってしまうんですよー。

で、思ったことは、最初から映画として作られるものは、原作を読まないほうが良い!!とうこと。
映画目的に書いてあるので、本自体もあまり深く書き込まれていないし、映像を通して受け取るもののほうが大きいです。

逆に、原作がすごくいいものは、へたに映画化されたりドラマ化されると、ガッカリしたりイメージぶち壊しで、ミスキャストだー!!話が全然軽い!!と、暴れたくなることがままあります。
たとえば、「チームバチスタの栄光」や「ジェネラルルージュの凱旋」なんかは、
まったく違う話になってるでしょう??
田口先生は、あんなちびの泣き虫若造でも、美人の女医さんでもなく、もっと静な、渋めでそれでいて暖かな独身のオジサンだし、白鳥調査官は、ちびデブでゴキブリがイメージの、へんてこりんで頭の切れるギトギトおじさんなんだぞー!
だから、血まみれ将軍は、やっぱ中堅どころの渋くて、とてつもなくクールでシャープで腕のいい外科医じゃなくちゃいやです。
俳優さん事態はみんな好きだけど、小説のイメージをあまり捻じ曲げないでほしいと思うのは、わたしだけでしょうか???