『天空の蜂』を観て来た。
映像化不可能。
この謳い文句を予告編に使う映画はあまたある。
その言葉の裏に2種類の意味があると最近気付いた。
一つ目は映像化技術が過去の映像技術では撮れなかった作品。
『るろうに剣心』シリーズはその代表だと思う。原作は過去何度か実写化の話が持ち上がったが、その度映像技術の問題で立消えになったらしい。
2010年を超えて、映像、特にCG分野は目覚しい発展を遂げた。昨今、マンガやアメコミの実写映画化が多いのはこの影響が大きい。
そして映像化不可能のもう一つの意味は、タブーに触れる内容を扱う作品だということ。
『沈まぬ太陽』は何度も映画化の話が持ち上がり、その度に何かに押しつぶされていた。
そして、この『天空の蜂』も一度ぐらいは実写化の話はあったんじゃないかと思う。
では、なぜ映画化できたのか?
世論が変わったのだ。 事情が変わった、という奴だ。
『沈まぬ太陽』の“不可能”は明らかに日本航空の労働組合が絡むタブーに抵触していたからだ。そしてJALが自壊したことでそのタブーは衆目を集めることとなった。
そして今作は、さらに一目瞭然だ。
日本の原発政策だ。
「原発は絶対安全。
安全だから問題は起こらない。
問題は起こらないから対策は立てない。」
戦後日本の原発政策の根底にはこの考えがある。
そして、2011年3月11日。
この日を境に、その考えは根底から覆ることになった。
人を助けるために技術者は物を創る。
だけど、時に技術は技術者の想像を超えた怪物となっていることがある。
ビッグBを造った男も、原発を造った男も、自分の造った物がどれだけの者を苦しめ、傷つけていたか、気付かなかった。
そして、それに気付いたとき、自分以外の周りも怪物の存在に気付いていないことを知る。
いや、知っていながら見ないようにしている世論に気付く。
そのとき道が二つ提示される。
膨大な絶望か僅かな可能性か。
「この国を守る価値があるのか?」
この国は、そのシステム全てが、国を守るために存在する。
この国は、そのシステム全てが、人を守るために存在するとは限らない。
それでも、そんな国でも、守るべきものがある。守りたい人がいる。
だから、僅かな可能性にかける。0ではない可能性に。
この作品が舞台になっているのは1995年の日本。
僕は思う。
天空の蜂が本当に現れていれば、と。
原発の安全神話がもっと早い段階で崩壊していれば、地震が起こっても、津波に襲われても3.11のようなことにはならない対策を立てられたかもしれない。
高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事故も東海村JCOの臨界事故も、防げたかもしれない。
いや、過去を翻った可能性は止めよう。それらは膨大な絶望とよく似たものだ。
未来への可能性は、
コ・コ・ニ・ア・ル。