ndjc2015。
これは映画タイトルじゃなくて、文化庁委託事業 若手映画作家育成プロジェクト2015のこと。
要は、次世代の映画作家たちを育てる機会を与える文化庁事業だ。
今年度は、
『罪とバス』藤井悠輔監督
『父の結婚』ふくだももこ監督
『はなくじらちち』堀江貴大監督
『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』佐藤快磨監督
の四作品が各地で上映されている。
『罪とバス』
柳のようにしなやかに生きていくことが出来ない、ドン底で、ポンコツで、暴風雨にさらされて、それでも根っこを張って倒れない、細い木。
この映画に出てくる人物は全員そんなポンコツばかりだ。
でも彼らは生きている。生きていく。カレーを食って、涙を流して。
『父の結婚』
家族とはなんだろう?
お父さんがいて、お母さんがいて、私がいて、お兄ちゃんがいる。
お母さんが死んで、お父さんがお母さんになって、幼馴染の男と結婚する。お兄ちゃんはそれみてケラケラ笑ってる。
違和感あるけど、割とアリな家族の形。
家族の核になるお父さんとお母さんは、実は一番他人同士の関係にある。だって、出会ったときは他人だったんだから。
じゃぁ、お父さんがお母さんで、幼馴染がお父さんでも、「まあいいか」ぐらいには思うかもしれない。
家族って言うのは想像以上にプラスティックなものなのかもな、と感じた。
家族としての繋がりを感じるのなら、それは家族だ。
それにしても、板尾は無言でも画面が持つなぁ。圧倒的な存在感。
ふくだももこ監督は中学生と言っても通用しそうな女性。ノリもとても可愛らしい。この四監督の中では一番伸びしろがあるな、と思った。
『はなくじらちち』
これも家族の話。
家族はプラスティック。だから容易に壊れる。
雛人形で壊れるのだ。自分のお父さんとしての立ち位置が無くなる。
そして、そんな男はくじらと闘って、結局勝ったか負けたか分からないうちに、女の思い出の場所に連れて行かれる。
男は、女のお父さんに似たバカな男の笑い話をする。
男は、捨てられない。
女のお父さんであることを捨てられないのだ。
でも、もう、お父さんじゃないのだ。娘はくじらの妻になる。お父さんは祝福するだけだ。
そして、きっとお母さんの墓の前で何も言わず佇むんだろうな。心の中で沢山のことを思い出しながら。
『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』
「ける?」と彼女は言う。ちょっと上目遣いで、半分ぐらいはお願いだ。
男は蹴って、2人で逃げる「ぅおー!」と叫びながら。
世間はやりすぎな連中が多い。苦情ならいいのにクレームになり過度の要求をし、大声で怒鳴りつけ、優越感に浸る。
そんな連中、蹴ったっていいじゃないか!
でもね、蹴られたヤツのことも見なきゃいけない。
「撮れよ!全部撮れ!」
その言葉はそのことを指している。
そして、自分の良い所だけじゃなくて、君の良い所だけじゃなくて、僕の悪い所も、君の悪い所も見なきゃいけない。
だって、僕は君が好きだから。
でも、彼女はそれが出来なかった。
彼女は彼に気付かれないようにして、何も無かったようにして、
「バイバイ」
と告げる。
それが彼女の悪い所だ。悪い所を見られたくないという悪い所。
僕は思う。
彼は彼女を追いかける。全力疾走で。ありとあらゆるところを探す。
だって、それが彼の悪い所だからだ。
きっと見つかる。
「ける?」
と彼女は言う。
彼はもう一度、本気で彼女を蹴る。
そして、彼らはもう二度と会わない。
こんな試みを国がやっているとは知らなかった。
でも10周年ということは、まだまだ浅いプロジェクトで、息を吹き込み続けていかねば絶えてしまうプロジェクトなのだろう。
「教育は、もっとも実りのない無駄な行為。でも止めるわけにはいかない。止めてしまえばその分野は伸びない」
とは、俺の親父の言葉だ。
こんな風に芸能を伸ばしていくのはとてもいい事だし、もっと裾野が広がればいいのにな、と思う。
日本の映画は、監督がキャスティングを好きに選べないそうだ。つまり、役者ありき、で映画は作られている。
「監督の仕事の80%はキャスティングだよ」と言ったのは『キングスマン』のマシュー・ヴォーン監督の言葉だ。
この裁量がないことを嘆く日本の監督は多いと思う。
今回の映画の中でその裁量権が各監督にどこまで与えられたのか分からないけれど、どの作品もその辺りは上手くいっているように感じた。
もっといい邦画を見たい。特に邦画好きの僕は。
こんな事業は可能な限りやって欲しい。
これは映画タイトルじゃなくて、文化庁委託事業 若手映画作家育成プロジェクト2015のこと。
要は、次世代の映画作家たちを育てる機会を与える文化庁事業だ。
今年度は、
『罪とバス』藤井悠輔監督
『父の結婚』ふくだももこ監督
『はなくじらちち』堀江貴大監督
『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』佐藤快磨監督
の四作品が各地で上映されている。
『罪とバス』
柳のようにしなやかに生きていくことが出来ない、ドン底で、ポンコツで、暴風雨にさらされて、それでも根っこを張って倒れない、細い木。
この映画に出てくる人物は全員そんなポンコツばかりだ。
でも彼らは生きている。生きていく。カレーを食って、涙を流して。
『父の結婚』
家族とはなんだろう?
お父さんがいて、お母さんがいて、私がいて、お兄ちゃんがいる。
お母さんが死んで、お父さんがお母さんになって、幼馴染の男と結婚する。お兄ちゃんはそれみてケラケラ笑ってる。
違和感あるけど、割とアリな家族の形。
家族の核になるお父さんとお母さんは、実は一番他人同士の関係にある。だって、出会ったときは他人だったんだから。
じゃぁ、お父さんがお母さんで、幼馴染がお父さんでも、「まあいいか」ぐらいには思うかもしれない。
家族って言うのは想像以上にプラスティックなものなのかもな、と感じた。
家族としての繋がりを感じるのなら、それは家族だ。
それにしても、板尾は無言でも画面が持つなぁ。圧倒的な存在感。
ふくだももこ監督は中学生と言っても通用しそうな女性。ノリもとても可愛らしい。この四監督の中では一番伸びしろがあるな、と思った。
『はなくじらちち』
これも家族の話。
家族はプラスティック。だから容易に壊れる。
雛人形で壊れるのだ。自分のお父さんとしての立ち位置が無くなる。
そして、そんな男はくじらと闘って、結局勝ったか負けたか分からないうちに、女の思い出の場所に連れて行かれる。
男は、女のお父さんに似たバカな男の笑い話をする。
男は、捨てられない。
女のお父さんであることを捨てられないのだ。
でも、もう、お父さんじゃないのだ。娘はくじらの妻になる。お父さんは祝福するだけだ。
そして、きっとお母さんの墓の前で何も言わず佇むんだろうな。心の中で沢山のことを思い出しながら。
『壊れ始めてる、ヘイヘイヘイ』
「ける?」と彼女は言う。ちょっと上目遣いで、半分ぐらいはお願いだ。
男は蹴って、2人で逃げる「ぅおー!」と叫びながら。
世間はやりすぎな連中が多い。苦情ならいいのにクレームになり過度の要求をし、大声で怒鳴りつけ、優越感に浸る。
そんな連中、蹴ったっていいじゃないか!
でもね、蹴られたヤツのことも見なきゃいけない。
「撮れよ!全部撮れ!」
その言葉はそのことを指している。
そして、自分の良い所だけじゃなくて、君の良い所だけじゃなくて、僕の悪い所も、君の悪い所も見なきゃいけない。
だって、僕は君が好きだから。
でも、彼女はそれが出来なかった。
彼女は彼に気付かれないようにして、何も無かったようにして、
「バイバイ」
と告げる。
それが彼女の悪い所だ。悪い所を見られたくないという悪い所。
僕は思う。
彼は彼女を追いかける。全力疾走で。ありとあらゆるところを探す。
だって、それが彼の悪い所だからだ。
きっと見つかる。
「ける?」
と彼女は言う。
彼はもう一度、本気で彼女を蹴る。
そして、彼らはもう二度と会わない。
こんな試みを国がやっているとは知らなかった。
でも10周年ということは、まだまだ浅いプロジェクトで、息を吹き込み続けていかねば絶えてしまうプロジェクトなのだろう。
「教育は、もっとも実りのない無駄な行為。でも止めるわけにはいかない。止めてしまえばその分野は伸びない」
とは、俺の親父の言葉だ。
こんな風に芸能を伸ばしていくのはとてもいい事だし、もっと裾野が広がればいいのにな、と思う。
日本の映画は、監督がキャスティングを好きに選べないそうだ。つまり、役者ありき、で映画は作られている。
「監督の仕事の80%はキャスティングだよ」と言ったのは『キングスマン』のマシュー・ヴォーン監督の言葉だ。
この裁量がないことを嘆く日本の監督は多いと思う。
今回の映画の中でその裁量権が各監督にどこまで与えられたのか分からないけれど、どの作品もその辺りは上手くいっているように感じた。
もっといい邦画を見たい。特に邦画好きの僕は。
こんな事業は可能な限りやって欲しい。