MARUMUSHI

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誰でも起しうる犯罪。

2010-10-25 22:55:50 | インポート
動揺見せた被告=顔こわばる裁判員-初の死刑求刑・耳かき店員殺害

いろんな意味で重い求刑だと思う。
死刑の様々な側面が垣間見える記事。

死刑は必要か?それとも不必要か?
無くなった命を、それを奪った人を殺すことで、何の解決になるのか?
応報感情で人を死刑に処すのは、本質的には殺人者の心境と同じなのでは?
けれど、残された遺族の気持ちを考えれば、その応報感情もわかる。俺は家族を殺されたことは無いから何ともいえないけれど。。。
などなど、色々考える。

「憎しみの対象として生き、自分のしたことと向き合っていくべきではないか」と林被告は述べた。
記事では、死刑になりたくない意思の表明としてこの言葉を使っているけれど、むしろ自分の犯した罪の重さを死刑求刑で思い知ったという側面が強いんじゃないだろうかと思う。
『死刑絶対肯定論』で著者の美達大和が書いている。
”死刑を科されたからこそ自らの死に目を向け、殺された被害者の立場に共感し、悪の汚辱に満ちた心を救う者がいるのです。”
つまり、命の重さを理解させるためには、それ相応の犯罪を犯した者に対して死刑の宣告をすることは必要である、ということなんだろう。林被告の言葉は、犯罪を犯した人間からこういう言葉が出てくるといった意味では、死刑の必要性を強くしたのかもしれない。

でも、やっぱり俺としては、甘っちょろい考えだとしても、死刑という刑罰を肯定する気にはなれない。
罪をその復讐で反すことが本当に良いことなんだろうか?と最後にはそこに行き着いてしまう。



それにしても、画一的でステレオタイプな検察の考えが気になる。
「誰の上にも起こり得る犯罪。社会的な常識で判断してほしい」
”誰にでも起こりうる犯罪”は”誰でも起しうる犯罪”であるということだ。誰にでも起しうる犯罪をイチイチ極刑で裁けってのか?
罪というものに常に接し扱っている集団の言葉とは思えない。いや、常に接しているからこそ何かが麻痺してしまってるのかもなぁ。
それと、”社会的な常識で判断”するなら、裁判所なんて必要なくなるのではと思う。
常識は通底観念として考えられてるけれど、十人十色だ。
そんな考え方で罪を裁こうなんて、なんだかおかしいだろうと思う。


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