『先生と迷い猫』を観てきた。
イッセー尾形と染谷将太の掛け合いが絶妙で面白い。
猫はちょっと変わった動物で、可愛くなるための進化を続けてきた生物だ。
それは、全てヒトに可愛いと思ってもらうため。
正確に言えば、猫はヒトに可愛いと思わせるために、ヒトに進化させられてきた生物だ。
猫とヒトの付き合いは長い。古代エジプトの壁画にもすでに猫は登場する。厚顔不遜な態度も変わらずに。
それは、まるで「あんたたちが私たちをこんな可愛い姿に勝手にしたんでしょ?面倒ぐらい見なさいよ」てなもんだ。
さて、そんな少しややこしい話はすっ飛ばして、猫は可愛い。
とにかく可愛い。
表情から仕草まで、全てが可愛い。
でも、そんな猫を嫌いだという人だって沢山いる。
それは心理的なものだったり、体質的なものだったりと色々だけれど。
校長先生は圧倒的に前者なのだが。
僕の父は校長だった。割と若くして校長になっちゃった所為で、長くその位置にいなきゃいけなくなった。
でも、作中にいるような威厳のある校長先生とは違う。
冬場は青い合羽みたいな服を着て、赤いニット帽をかぶっている。
妹は「赤鉛筆」と、僕は「使いさしのコンドーム」と形容している。
夏には白いキャップをかぶる。
何故か額のところに「ITALY」と書いてある。
センスをどこに置いてきたんだろう?
ぜんぜん威厳がない。部屋も散らかり放題。なんか汚い。
でも、作中の校長先生と同じことを言っていて驚いた。
「現場の時は楽しかった」と。
「校長には校長室という個室が与えられる。それが何故か分からんかったが、校長になってみて分かった。独りで考えなきゃならん問題がいっぱいあるんや。だから校長室が要るんや。孤独やで、校長は」
校長先生は孤独なのだ。
そして、孤独を孤独と感じないために猫を嫌う。亡き妻が好きだった猫。
あの猫を追い返してしまった。最期に妻に挨拶にきていたのかも、いや、私にも挨拶にきてくれたのかもしれないのに。
校長先生は猫を探す。街を東奔西走。
「いやいやいや!自転車じゃ無理だってセンセ、保健所までバスで五駅もあるんだよ?」
「五駅・・・か」
「いやいや!だから無理だって!何で行けると思ったの?」
川に入り人の家をのぞき込み。電柱に登り、挙げ句、警察のご厄介に。
「ふはははっ!センセ、何やってんの?そんなとこにポツンと座って」
「すまない。他に当たれる人がいなくて」
「私は、最近、よく叱られる」
それは校長先生の校長先生の部分が出てきたからだ。
天然で、おっちょこちょい。自分本位の我が侭で独善的。校長先生は生徒よりも子供だった。
猫が引っかいたところから出てきた校長先生の本当の部分。
猫には心があると感じる。
だから、人は野良でさえ猫に名を与える。
ソラ、ちひろ、ミイ。
きっとあの猫にはもっと沢山の名があったんだろう。
名は魂を与える。
20年以上生きている猫は人語を解す、とか、猫又になる、とか言うけれど、沢山の名を得て魂を吹き込まれた猫ならば、あるいはそう言うことになるかもしれない、と僕は思う。
心通う者に名は与えられ、その名は魂となる。
猫の置きみやげは、猫を介した人同士の繋がり。沢山生まれる心。
校長先生は誰よりも猫が好きだった。だから、猫を嫌っていた。忘れたいから。居なくなってしまった猫を、妻を思い出したくないから。
街は徐々に寂れていく。ゆっくりとだけれど、確実に。
教え子はもういっぱしの会社員だ。
お気に入りのパン屋もなくなった。
そして、自分も校長先生ではなくなった。
流れに棹さす。
人の時間はそうできている。まぁ、猫はもっと速いだろうが。
「センセ、それって楽しいんすか?」
「じゃぁ、君は今、君は仕事が楽しいのかね!」
「楽しいですけど」
「た、楽しいのか!そうか、楽しい・・・。だったら、良い・・・良かったじゃないか!」
結局、今を楽しく生きていればそれでいいのかもしれない。
猫みたいに。
僕らは猫ほど気ままには生きられない。だから、せめて、気持ちぐらいは。
時には猫の手も借りることもあるだろうけれど。
きっと出来るはずだ。
“愛 感 同 一”。
イッセー尾形と染谷将太の掛け合いが絶妙で面白い。
猫はちょっと変わった動物で、可愛くなるための進化を続けてきた生物だ。
それは、全てヒトに可愛いと思ってもらうため。
正確に言えば、猫はヒトに可愛いと思わせるために、ヒトに進化させられてきた生物だ。
猫とヒトの付き合いは長い。古代エジプトの壁画にもすでに猫は登場する。厚顔不遜な態度も変わらずに。
それは、まるで「あんたたちが私たちをこんな可愛い姿に勝手にしたんでしょ?面倒ぐらい見なさいよ」てなもんだ。
さて、そんな少しややこしい話はすっ飛ばして、猫は可愛い。
とにかく可愛い。
表情から仕草まで、全てが可愛い。
でも、そんな猫を嫌いだという人だって沢山いる。
それは心理的なものだったり、体質的なものだったりと色々だけれど。
校長先生は圧倒的に前者なのだが。
僕の父は校長だった。割と若くして校長になっちゃった所為で、長くその位置にいなきゃいけなくなった。
でも、作中にいるような威厳のある校長先生とは違う。
冬場は青い合羽みたいな服を着て、赤いニット帽をかぶっている。
妹は「赤鉛筆」と、僕は「使いさしのコンドーム」と形容している。
夏には白いキャップをかぶる。
何故か額のところに「ITALY」と書いてある。
センスをどこに置いてきたんだろう?
ぜんぜん威厳がない。部屋も散らかり放題。なんか汚い。
でも、作中の校長先生と同じことを言っていて驚いた。
「現場の時は楽しかった」と。
「校長には校長室という個室が与えられる。それが何故か分からんかったが、校長になってみて分かった。独りで考えなきゃならん問題がいっぱいあるんや。だから校長室が要るんや。孤独やで、校長は」
校長先生は孤独なのだ。
そして、孤独を孤独と感じないために猫を嫌う。亡き妻が好きだった猫。
あの猫を追い返してしまった。最期に妻に挨拶にきていたのかも、いや、私にも挨拶にきてくれたのかもしれないのに。
校長先生は猫を探す。街を東奔西走。
「いやいやいや!自転車じゃ無理だってセンセ、保健所までバスで五駅もあるんだよ?」
「五駅・・・か」
「いやいや!だから無理だって!何で行けると思ったの?」
川に入り人の家をのぞき込み。電柱に登り、挙げ句、警察のご厄介に。
「ふはははっ!センセ、何やってんの?そんなとこにポツンと座って」
「すまない。他に当たれる人がいなくて」
「私は、最近、よく叱られる」
それは校長先生の校長先生の部分が出てきたからだ。
天然で、おっちょこちょい。自分本位の我が侭で独善的。校長先生は生徒よりも子供だった。
猫が引っかいたところから出てきた校長先生の本当の部分。
猫には心があると感じる。
だから、人は野良でさえ猫に名を与える。
ソラ、ちひろ、ミイ。
きっとあの猫にはもっと沢山の名があったんだろう。
名は魂を与える。
20年以上生きている猫は人語を解す、とか、猫又になる、とか言うけれど、沢山の名を得て魂を吹き込まれた猫ならば、あるいはそう言うことになるかもしれない、と僕は思う。
心通う者に名は与えられ、その名は魂となる。
猫の置きみやげは、猫を介した人同士の繋がり。沢山生まれる心。
校長先生は誰よりも猫が好きだった。だから、猫を嫌っていた。忘れたいから。居なくなってしまった猫を、妻を思い出したくないから。
街は徐々に寂れていく。ゆっくりとだけれど、確実に。
教え子はもういっぱしの会社員だ。
お気に入りのパン屋もなくなった。
そして、自分も校長先生ではなくなった。
流れに棹さす。
人の時間はそうできている。まぁ、猫はもっと速いだろうが。
「センセ、それって楽しいんすか?」
「じゃぁ、君は今、君は仕事が楽しいのかね!」
「楽しいですけど」
「た、楽しいのか!そうか、楽しい・・・。だったら、良い・・・良かったじゃないか!」
結局、今を楽しく生きていればそれでいいのかもしれない。
猫みたいに。
僕らは猫ほど気ままには生きられない。だから、せめて、気持ちぐらいは。
時には猫の手も借りることもあるだろうけれど。
きっと出来るはずだ。
“愛 感 同 一”。
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