ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

主に人生の歩き方について「人生お弁当箱診断」など
以前のブログ名:和色ムーブメント

おやじの台所 森崎

2019年01月23日 | 昭和懐古


おやじの台所 森崎
釜めしの「森崎」は お初~ 老夫婦が切り盛りしているこのお店~ 昭和レトロまではいかないが、そこそこ興趣を感じる心地よいお店でした。



割りと広い店内~ 80歳を超えている老夫婦二人やと大変やろなぁ~ と思いながら見回すと、店内外、厨房内も非常に綺麗なお店です。ちょっと敬服に値します。




“ 時間かかりますよ~” と言われたのですが、別段、急ぐ用事もないので、“ 待ちますよ~ ” と返して、カウンターの目の前にあった水槽の金魚とメダカを観ながら、BGMは昭和フォークソング~ ゆっくり~ ゆっくり~ と45分の昭和懐古。




旬の「限定 牡蠣の釜めし」を頂きました。旦那さん、中々良い仕事をされてます。厨房の整理整頓といい、間違いなく職人さんです。美味しかったです~ ご馳走さまでした!




▪️ 昭和懐古 ▪️

昭和な匂いがプンプン?

いや、
昭和の粋が垣間見える
心地よい空間があった

それはモノだけやない
そこに居る人の息遣い

そして、その人達が
これまで歩んできた
時間そのものやと感じる

ずっと続いてほしい
ずっと残してほしい
そんな気持ちが ・・・

昭和をまた輝かせる

第五大成丸


人から指示されて何かを作るのがキライやった

2013年02月27日 | 昭和懐古




「 小学校の写生 」

小学校何年生くらいやったか ・・・
雨が降ると必ず、教室や廊下の窓から見える風景を写生させる先生がいたんですが、
それが嫌で嫌で仕方なかった記憶があります。雨の降る物悲しい昼下がり、学校から
見える街並みの
ほとんどが民家の屋根瓦と電信柱、そして、コウモリ傘。

昭和の屋根瓦は黒かグレー、電信柱も黒茶っぽい木製か、グレーのコンクリート製です。
傘や雨空も含め、ほとんどが黒と灰色の世界です。毎回、何がおもしろくて描かせるのかと
・・・
気が滅入った想い出しかありません。私は毎回、絵を完成させずに提出しました。

当然のことながら、
先生からは “何で最後まで描けへんのや?” とお説教を受けるわけです。
“時間が足りんかった” と私は苦し紛れに言い訳をするわけです。すると、今考えれば
当たり前ですが、“放課後居残りで完成させなさい!” です。(昔はこれが普通でした)

居残りは嫌いじゃありませんでした。
皆と同じペースで描かなくていいし、自分の世界に入れる(変な意味ではありませんが)・・・
雨が止んで傾きかけた太陽が顔を覗かせて、少し気分が晴れ笑顔になります。太陽を描き、
さて、家に帰ります。結局、作品はすべて未完成でした(先生も呆れていたはずです)。


「 中学校の図工 」

友達の横顔を写生、花瓶に活けた花を写生、机と椅子を写生 ・・・
興味が無いというか、これまた、何がオモロイねん?的な気分になってしまう授業です。
絵を描くことやモノを作ることがキライなわけやなかったし、先生もキライやなかったんですが、
ただ、どうも皆と同じお題を一人の人間から押しつけられるのが嫌やった。そんなノリだった
かもしれません。

友達の顔を観察します。
写生の為ではなく、自分と同じ気持ちで座っている人間を探すためだったかもしれません。
若干、2名が同じ表情で私を見てきます。その授業をきっかけに3人が仲良くなりました。
今思えば、これは学校生活の中で波長の合う友達を発見した貴重な経験だったと感じます。

この授業で、私は自分の左手を描きました。
完成した(たぶん上位何番かに入るレベルだった)のですが、提出はしませんでした。
良かろうが悪かろうが、他人に皆の中で何番と評価されるのが嫌だったということです。

小学校も中学校も教室の後ろに描いた絵が貼り出されたりします。この画鋲で留めて。
それも気分が覚めてしまうわけで ・・・ いや、それこそがやる気を失わせるわけで ・・・
まあ、この性格のおかげ?で、小中の図工の成績は5段階でいつも2か3でしたね。


「 高校の美術の先生 」

前にもこのブログで登場(たぶん「僕の好きな先生」)しましたが、
高校の美術の先生は大好きな先生でした。完成した作品を評価する先生が多い時代に
作業過程や本人の適性を評価してくれた希少な先生でした(数字じゃなく気持ちですが)。

この先生は私に芸術系の大学へ行くことを薦めてくれました。
興味はありましたが、“これをやりたい!” が在学中に見つからなかったので、結局それ系の
学校には進学しませんでした。しかし、この先生の存在や頂いた言葉は今でも仕事面で
プラスになっています(プライベートではあまりプラスになってませんが・・・)。


この先生、一般的に好かれるタイプではありませんでした ・・・ 私に似ていたかもしれません



■ 昭和懐古 ■


皆がほんまに
素直に作品を見れたんか

作品やなく
評価がピン止めされてた

そんな時代に
生きてたんやねえ

・・・

画鋲で留めた瞬間
作品の評価が表れた

いや、
評価した人間の
感性が表れただけやった



第五大成丸


アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】

2012年01月01日 | 昭和懐古

旅館の仕事にも 山の遊びにも 慣れてきました。多少問題があった人間関係もそれなりに順調です。イレギュラーな出来事にもそこそこ対処できています。





平日、ゴジラさんたちの 「バギー」 の面倒をみていました。“時々、エンジンを掛けて動かしておいてほしい ・・・”  という依頼に応えるべく、S嬢と共に、旅館の庭を周回するコースでエンジンを温めていました。
なかなか楽しい仕事です。

ただ、春になって雪が解けた時に、私たちが周回コースにしていた場所が、非常に大切な物の上や一歩間違えば大怪我をするような状態の上をオフロード(オンロード?)していたことがわかり、スーッと血の気が引いたことを想い出します。( なぜ、女将さんと旦那さんは怒らなかったのか ・・・ )

屋根の雪下ろしと軒先の氷柱(つらら)落としを時々行なわなければなりません。氷柱は窓を開けて棒やスコップで叩くと下へ落ちます。ただし、積雪している地面が氷柱からの水滴で硬くなっていると、落ちた氷柱が滑って一階の窓ガラスを割ってしまうことがあるので注意が必要です。それでもどちらかというと楽しい仕事でした。

一方、雪下ろしはキツイ仕事です。屋根の上に上って雪をスコップで割りながらスノーダンプで押して屋根から落としていくのですが、ハッキリ言って、若い私でもさすがに腰にきます。

“要領を覚えるとそんなにつらくないよ” と旦那さんは簡単に言いますが、どうも要領がつかめません!週末にやって来たゴジラさんたちに  “要領を教えてほしい” と応援を要請したところ、メンバーが協力してほとんどやってくれました。( これはラッキーでした! )

旅館から少し参道を下りたところの商店に買い物に出掛けることがありました。バギーで行くか旅館のスノーモービルで行くかなのですが、たまたまバギーを借りて出ようとすると、ゲレンデから電話が入り、うちの旅館に宿泊している若い女性のお客さんが足を挫いたとのこと ・・・ 

その日、旦那さんが不在のため、私がスノーモービルでゲレンデまで迎えに行くことに ・・・ イレギュラーな仕事でしたが、無事に旅館まで連れて帰ってこれてホッとしたことを想い出します。( その時の女性に感謝されたことも鮮明に ・・・ 少し年上で綺麗な方でした! )

こんなこともありました ・・・ 「出歯亀事件!」仕事が終わり、女将さん(若女将)とアルバイトS嬢たちがお風呂に入っていると誰かがノゾいていたらしい ・・・ “誰だぁ!” と大きな声で怒鳴りつけた女将さんは素っ裸のまま、その犯人を追いかけたらしいです。

女将さんは綺麗なだけでは勤まりません。やはり、旅館の女将ともなれば、これくらいの強さが必要ですよね。( S嬢からの報告と談話より )女将さん(若女将)の強さというか ・・・ 宿命というか ・・・ の話をもう一つ。

子供(中学生と小学生の息子)さんが二人いて共にスキー(回転?)の選手でした。年明けに大会がありましたが、女将さんは忙しくて応援には行けませんでした。“がんばりなさいよ!” と声を掛けて送り出した下の子(小学生)が試合中に大怪我(骨折)をしてしまい、米子の病院に搬送され入院することになりました。

普通なら、すぐに病院に駆けつける事態だと思いますが、女将さんは動きません。今日も明日も明後日も旅館は予約で満杯です。“落ち着いたら行くから” と皆の前で気丈に振舞っていた姿と一人になった時にうつむいて淋しそうな顔をしていた女将さんを私は忘れることができません。(本当に強い女性で尊敬できる方です!)

とうとう冬休みが終わりました。
米子など麓から来ていた高校生のアルバイト諸君は下山しました。そろそろ大学生も下山の用意をし始めます。

地元のアルバイトさんには、週末の忙しい時に日帰りでいいから手伝ってくれるように話をしていましたが、皆で過ごせる時間が残り少なくなってきたことは事実です。みんなの表情を見る限り、名残惜しそうで淋しげな顔に見えたのは私だけではなかったはずです。そろそろ私もいつまで残るのかハッキリしなければなりません(つづく)。

■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


uni のHB

2009年11月06日 | 昭和懐古
「uni のHB」
 
日本の伝統色えび茶色と高級感をイメージしたワインレッドを掛け合わせた軸色に、金字で6面に硬度表示され、金色のリングがついている高級感のあるデザイン。
なめらかな書き味で、芯が折れにくい


港と花火の想い出。

2009年08月11日 | 昭和懐古




「開港50周年の特定重要港湾」

私はこの港で育った。
今年、開港50周年らしい。( ということは、同い年! ・・・ ?)

親父の仕事の関係で北九州の港町で生まれた私。すぐ、港神戸に引っ越した。
そして、この港町にやって来たのは4歳の頃だったろうか。まるで、小屋(劇場)を
求めて全国を旅する、ドサ回りの旅芸人一座のような生活がそこにはあった。

現場(仕事)が終われば当たり前のように、次の現場(生活は飯場)へ ・・・
というスタンスだったが、のちの高度経済成長時代に近づいていた為か、幾分
解消されていった。そして、わが家は仕事と生活の基盤をこの港町に置いた。

もちろん、大きな港(港湾)だから漁船やフェリーなどの旅客船も行き来している。
しかし、中心は何といっても貨物船である。岸壁に横付けされた大きな貨物船で
荷役が行われている姿が、この港の港らしさだ。その荷役のニオイ(荷と重機の
におい)がこの港のニオイであり、私の好きな “港の匂い” である。

船が接岸する岸壁や一文字などの防波堤の基礎(海中)工事の多くに親父は
深く関わっている。というより、50年以上もこの港の港湾工事に関わってきた。
だから、私はこの港を単なる港として捉えられない部分がある。港のあちこちに
親父が職人として、また、プロとして仕事をした形跡があり、只々敬服である。

今更だが、誰にでもできるものではない仕事をしてきた親父を誇らしく思う。
と同時に、私自身の仕事への向き合い方には自問自答の日々が続いている。





「みなと祭 海上花火大会」

今年も 「海上花火大会」 が催されたようだ(7/25)。
この花火大会、私が子供の頃には無かった。少なくとも、私がこの港町を離れて
(約30年前)以降からの行事である。今では市の大きなイベントとなっている。

たぶん初期の頃、この花火大会にも親父は関わっている。
海上の台船(コンテナなどの荷物や大きな重機が積めるデッキが平たい船)の
上で打上(仕掛け)花火をセットして空に向かって打ち上げる。台船の所有会社
の仕事をしていたので、台船の曳航や花火のセッティングも手伝ったはずである。

ここ数年は行けてないが、山や川とはまた違った港湾ならではの雰囲気があり、
湾内に大きな花火が上がると、海からの柔風に乗って花火の音と火薬のニオイ
が漂ってくる。すると子供の頃、フェリー乗場から海に向かって打ち込んでいた
ロケット花火の音とニオイを想い出す。妙に “懐かしい匂い” である ・・・ 。


来年は、LIVE を見に帰ろう!!



■ 昭和懐古 ■

悪友とふたり
夜のフェリー乗場

岸壁横のタラップに
ロケット花火をセットする

マッチで火をつけ着火
導火線に赤紫の火がつく

白い煙を少し放ちながら
シュルシュルと音が鳴る

まるで、トルネードか
ジャイロボールのよう

渦を巻きながら勢いよく
海面を数㍍這って進む

海中に沈む前、
青白い光を微かに残した

次のロケットに火を ・・・


第五大成丸


初マイケル・ジャクソンはプロジェクターから流れるスリラーやった。

2009年06月29日 | 昭和懐古




「The King of Pop」

6月25日(日本時間26日)
自宅で倒れ、搬送先のカリフォルニア大学ロサンゼルス(UCLA)医療センターに
呼吸停止の状態で運ばれ、その後、死亡が確認されたようです。まだ、死因は
明確ではないようですが、いずれにせよ、50歳という若さでこの世を去ったのは
事実のようです。

 本名 : マイケル・ジョーゼフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson)
 出生 : 1958年8月29日
 出生・出身地 : インディアナ州ゲイリー


「音楽ビデオ上映」

昔から
マイケル・ジャクソンのファンでもありませんし、別段、好きな曲があったわけでも
ないのですが、しいて言えば、同年代だということと仕事場での想い出があります。
以前にも紹介しましたが、私が飲食業に足を踏み入れた最初の店舗は、2階に
パーティースペースがあったのですが、その当時(1982年頃)、たぶん珍しかった
と思うのですが、天井にプロジェクターを据え付け、壁面に造り付けてある家具扉
の中にスクリーンが収納されていて、営業が始まるとスクリーンが現れ上映される
のです。

ほとんどが
ハワイの波(サーフィン)やF1をはじめとするカーレース、アメリカメジャースポーツ
のMLB(野球)・NFL(アメフト)・NBA(バスケット)・NHL(アイスホッケー)などの
イメージビデオだったのですが、中にはサーフィンの映像で、ザ・ビーチ・ボーイズ
の曲が流れたり、RBやロックなど全米でヒットしている曲の音楽ビデオも流されて
いたと記憶しています。


「群を抜くヒット!『スリラー』」

その中でも
当時、発売と同時に話題となって、そのビデオを観るためにお客様が店に予約を
されたのが、「スリラー(THRLLER)」 だったのです。私は1階の厨房でしたので、
ほとんど見ていませんが、うちの嫁さん(当時、ホールスタッフ)は、“毎日、毎日、
観てたから、スリラーは飽きたわ ・・・” と言っておりました。今なら当たり前の
音楽とダンス、そしてストーリーのある映像の詰合せは、やはり、当時は画期的で
エポック・メーキングだったのではないでしょうか ・・・ 。


「幸せだったのか ・・・」

ある意味、
時代を動かした偉大なアーティストだったマイケル・ジャクソンですが、晩年は
様々な奇行を繰り返し、裁判にまで発展する問題も抱えました。波瀾万丈の人生
と言えばそれまでですが、本当に幸せだったのでしょうか ・・・ 人から支持され、
ファンが増えることは嬉しかったでしょうが、その何倍、何十倍、何百倍もの
プレッシャーやストレス、孤独を感じていたことは容易に想像ができます。


「同世代だから ・・・」

当時、
厨房に居た私が、こうしたモノの見方をできていれば、もう少しマイケル・ジャクソン
を好きになれていたのかもしれません ・・・ と思うのは、やはり、同世代が抱えて
いる哀愁なのかもしれませんね ・・・ 。 ( ご冥福をお祈りいたします )





THRILLER / Michael Jackson



■ 昭和懐古 ■

フィンガー5 のあとで
ジャクソン5 を知った

アメリカ人にマネされるほど
人気があるんやと本気で思った

“逆” やと気づいた時
気まずさはぜんぜん無かった

なんせ、ジャクソン5は
海の向こうの人たちやから ・・・


第五大成丸


母校と過去の間違い

2008年09月29日 | 昭和懐古


先週末、
30年ぶりに母校(高校)の門をくぐりました。





卒業してから
母校の前を通ることは頻繁にあったのですが、何も用事がないのに
勝手に入るわけにはいきません。そして、仕事で大阪へ ・・・
気づけば30年もの歳月が経過していたということです。

今回、
資格取得に際し、最終学歴の卒業証明(卒業証書があれば良い)が必要だと
いうことで、大阪の大学を受験し、浪人も経験して神戸の予備校にも通い、
何を間違えたか、大阪のビジネスの専門学校にも通い ・・・ あちこちに在籍した
痕跡はあるものの、結果的に最終卒業は地元の高校だったのです ・・・ という
ことで、実家へ連絡しておふくろに “高校の卒業証書ある?” と聞いたのですが、
“ほかした(捨てた)んちゃうか、いつまでも置いててもなあ ・・・ ”
まあ、うちのおふくろらしい返しでした!

ということで、
卒業証明書を発行してもらうために母校の事務室詣でとなりました。もちろん、
証明書は郵送でも対応してもらえるのですが、私の場合、少し事情が複雑で ・・・

高校の頃と
今の生年月日が違っているのです。( この話、役所の方は読まない方が ・・・ )
要は、地元に籍があった時代(正確には26歳まで)の住民票に表記されていた
生年月日(4月生まれ)と戸籍上の生年月日(11月生まれ)が違っていたのです。
そのため、これまで数々の支障がありました。

大学受験の時、
初めて戸籍謄本を取り寄せて自分の本当?の生年月日を知ったのです。
それまで、幼稚園→小学校→中学校→高校 と、何の疑いもなく4月生まれで
通してましたし、学校でもその扱いでした。もちろん、全て住民票がベースです。

ただ大学受験は、
違和感を覚えながらも戸籍上の名前と生年月日で受験した記憶があります。
そして22歳の時、「一級小型船舶操縦士」 を取得したのですが、この時も戸籍が
必要となり、戸籍上の生年月日で受験しました。しかし、まだこの頃の私は、その
生年月日に抵抗があり、同じ時期に取得した 「潜水士」 の資格では4月生まれと
申告して受験しました。( まあ、これもあとで仕事上、ややこしい問題に ・・・ )

究極は
クルマの免許です。今は知りませんが、昔は住民票で受験できましたので、
私は4月生まれ(苗字も同様)で、高校3年生の夏休み前に 「普通自動車免許」
を取得したのです。それから8年ほど過ぎたある日、クルマの助手席に置いて
いたバッグが盗まれ、財布と一緒に入っていた免許証も跡形はなく ・・・

盗難届を
出して再発行の申請をしました。ここで最大のピンチに出くわしたわけです。
戸籍謄本を添えて再申請しなければならなかったのです。私は何のためらい
もなく、警察(忘れもしません、大阪○○池)に行ったのですが、その書類を
見て担当者が私に放った言葉は、“君、本当に免許とったの?” でした。私は
その意味がわからず、“はあ、どういうことですか?” と返しました。

戸籍上の
名前と生年月日をいくら探しても該当する取得者が出てこないと言うのです。
当たり前です。私は住民票で取得した原付免許からの継続申請で取得した
のですから ・・・ 。私は事情をさかのぼって丁寧に説明をして、住民票の名前と
生年月日で検索してもらいました。当然、それはありました。しかし、担当の方
にはその経緯が理解できないようで、なかなか話が進みません。よく考えれば
わかることなのですが、戸籍上の生年月日で再発行すれば、普通免許を17歳
で取得したことになります。かといって、前の生年月日で再発行するわけにも
いかなかったのです。

話が
“もう一度、免許を取り直したら” というニュアンスの流れになっていきましたので、
私はキレそうになりながらも粘り強く話をしました。最終的には、戸籍上の字体と
生年月日で新たに免許証を作り直すこと(取得日をその日)で収まりましたが、
何となく私としては悔しい気持ちが残ったのは事実です。確かに、両親が気づいて
チェックし訂正できていれば良かったのかもしれませんが、今の時代なら未だしも
役所に何かを言うということがそんに簡単な時代でもなかったような気がします。

さて、
高校の卒業記録ですが、やはり4月○○日生まれになっていました。苗字2文字の
うちの1文字も、当たり前ですが、住民票と同じ普通に読める字体で卒業記録として
残っていました。しかし、戸籍の状態に修正して証明書をあげてもらわないと役所で
また最初から説明しなければなりません。母校(事務室)を訪れて、直接お願いする
ことにしたのはこういった事情があったからなのです。

事務室の方々は、
私の話(事情)を最初から最後までちゃんと聞いてくださり、あとで戸籍謄本を
事務室に郵送する約束をした上で、名前と生年月日を修正した証明書を出して
いただきました。それこそ、事務的な対応が増えている世の中で、事務室の方が
内容をよく鑑み、“事務的でない本来の対応” をしておられる姿には、自分のこと
ではありますが、“良い対応だった” と妙に感動を覚えてしまいました。

今は
全てが戸籍上のものに変更されていますが、何故、こういうことになったかは
わかりませんが、未だに両親は私の誕生日が4月(住民票が正しい)だと言って
おります。まあ、生まれて50年近く経過していますし、今更、戸籍が間違っている
と言うのも面倒ですので、具体的な行動を起こすことは考えておりませんが、
どこかの時点で、どこかの役所が、間違えた(あるいは確認ミスがあった)ことは
事実だと思います。毎回 “スミマセン” という言葉を使って、私サイドばかりが
事情説明して修正(訂正)してもらわなければならない現実には少々ウンザリです。

皆さんは、
こんな事情や経験はありませんよね ・・・





これは
野球部とサッカー部のグランドです。1年生の時は野球部で甲子園を目指して
ました。見事に挫折して退部したあと、友達に誘われて弱小サッカー部(今は
サッカー部の方が有名です)へ ・・・ 私はこのグランドで両方とも経験しました。
下までは降りませんでしたが、当時と変わらない景色です。夏の暑さの中で
汗を流していたあの頃がが蘇ります。


■ 昭和懐古 ■

強いものが正しい
という風潮は今の時代を映す

正しいものを正しい
と思えたあの時代が懐かしい

今、どちらが正しいのか ・・・

“お前はどちらで生きたいのか”
という問い掛けに立ち止まったままだ

第五大成丸


夏が終わりに近づくと ・・・

2008年08月27日 | 昭和懐古


  夏が終わりに近づくと ・・・




  夏が終わりに近づくと
  いつも夜更けに物悲しさを覚える

  夏が終わりに近づくと
  明日への庶幾に満ちた感情より
  昨日までの苦杯の情感が甦る

  夏が終わりに近づくと
  新進気鋭な人との出逢いより
  会者定離は世の常を思い知る

  夏が終わりに近づくと ・・・ 。



■ 昭和懐古 ■

“案分” が
  あった昭和という時代
“加勢” が
  できた昭和という時代
柔らかな人の心
  緩やかな時の流れ
そのアナログな潮流こそ
  心を癒していたかもしれない
我々の昭和という砌

第五大成丸


遠い昔の夏休み。

2008年07月21日 | 昭和懐古


世間では、もう 「夏休み」 のようですね ・・・ 。





遠い昔の夏休みを想い出してみると ・・・


 夏の昼下がり

 いつもの通学路を自転車で走った
 いつもの街とは違う色に視えた
 いつもの街とは違うニオイを感じた
 いつもと違う不思議な感覚に覆われ苛まれ
 アンニュイな空気さえ感じたことを想い出す

 いつもの道々を何度も通ってみた
 いつもの家々の一軒一軒を観て回った
 いつものバス停で時刻表を片目で眺めて
 いつもの工場の看板にある絵柄を凝視すると
 サイケデリックな気分になったことを想い出す

 素直な目で物事を見ることを忘れ
 素直な心で疑問に思うことすら忘れ
 今、昭和に陶酔し懐古しているように
 他人からは思われるだろうか ・・・
 まあ、それも良しとしよう


■ 昭和懐古 ■

 私の中では、遠い、遠い昔に
 既に完成されているものだから ・・・ 。

第五大成丸


甲子園をめざして

2008年07月15日 | 昭和懐古


夏本番!
あの 暑~い~ 暑~い~ 「夏の甲子園」  出場をめざして
只今、高校球児 たちは各地区予選を闘っている真っ最中!でしょうね。





今年の 「全国高校野球選手権大会」 は、90回目の記念大会です。今回は、
出場校数の多い都道府県(北海道・東京、新たに千葉・埼玉・神奈川・愛知・
大阪・兵庫)を分割して、計55代表で真紅の優勝旗を争うようです。激戦区
だった私の出身地でもある兵庫県と現在の地元大阪府も分割されるため、
少し甲子園への確率が高くなったのでしょうか ・・・ 。

実は大昔、私も甲子園を目指していた高校球児の一人でした。
( 結局、1年生の途中でケツを割って私は退部しましたが ・・・ )


中3の夏、最後の大会(たぶん、2回戦敗退だった)も終わり、野球部引退。
“高校で野球続けるんやったら、○○高校か、○○高校がいいみたいやで。

どうしても 「甲子園」 に行きたかったら、やっぱ、○○高校やけど・・・ ”
“お前、どこ(の高校に)行くん?” “お前こそ ・・・?” といった会話を後輩の
練習を見ながらグランドの片隅で同級生と話していたことを想い出します。

その中学校の一つ上の先輩数人は、高校で硬式野球部に入部していました。
しかし、その1年の夏を折り返した時点で野球を続けていたのは、小学校も
私と同じだった二人の先輩だけでした。一人は某有名私学(大学付属高校)の
野球部、もう一人は公立の普通校だったのですが、共に時々、中学校に顔を
出して高校での生活や野球部の練習(厳しさやしんどさ)を話してくれました。

私の中では、この二つの高校のうちどちらに進学しようと考えていました。
「甲子園」 を目指すのであれば、間違いなく私学の方です。しかし、私が選択
したのは ・・・ 公立でした。理由は簡単です。私学は男子校で、公立が男女共学
です。迷わず “男女共学” をチョイスです。甲子園は目指しますが、確率で物事
を選択するようなヤツは嫌いです! ・・・ が、昔からの信念 ??? そうではなく、
ただ最初から校内交際率 “0” の確率の男子校にはどうしても進学したいとは
思いませんでした。( 自分勝手理論炸裂!です )

実は、(もっともらしい)本当の理由は、
“優遇・待遇制度(今で云う 「特待生制度」)有り” といった類の餌を吊り下げて、
セレクションを行ない、有望な生徒(選手)は根こそぎ獲っておこうとするような
学校には行きたくなかった。少し語弊があるかもしれませんが、自校を強くする
という目的より、他校が強くなるのを防ぐためのセレクション?とも取れるような
私学の感覚に私はアレルギーを感じていました。元々、レギュラー候補生は
ピックアップ済みで、授業料や寮費免除の事前提案は当たり前だったと思います。
逆に、獲得したあと、伸び悩む選手への優遇・待遇を減らしたり、自主退部の場合
は退学まで迫るケースさえもあったと聞きました。
( もう30年も前のことなので 「時効」 ということで少し裏側を告白しました )
要は、使える者だけ残し使えない者は ・・・ まるで、今のビジネスの世界です。

一方、私が入学した公立高校の野球部は、“の~んびり” と思いきや、思った
以上に真剣に甲子園を目指していました。これも “時効告白” ですが ・・・
入学試験を受け、合格発表が2日後くらいに迫ったある日、先輩から連絡が
ありました。“合格してるから、明日から練習に来いや!” と ・・・ 。 どうやら、
春の大会が近いので、早めに動かしていたようです。( 公立でこれはええのん? )
「おな中の野球部」 で一緒に受験していた “ピッチャーのS本” も合格していた
ので、次の日から練習に一緒に参加しました。

合格発表の日、ボードに貼り出された合格番号を見て歓声を上げている他の
受験生を遠目で追いながら、私たち野球部受験生(約15名)は、既にグランド
で汗を流していました。4月、正式に高校生、そして野球部員となった途端、春の
四国遠征が待ってました。四国4県を練習試合での行脚です。ほぼ、まだ中学生
の私たちにはハードなスケジュールでした。入学式の日も試合に同行するため、
途中退席して部室に向かいました。1年生歓迎のオリエンテーションや臨海学校、
キャンプなどの学校行事には軒並み不参加あるいは途中離脱が当たり前でした。
( 甲子園を目指すがあまり ・・・ 今なら、それなりに問題になるかも!? )

朝一、グランド整備(1年生)とトレーニング。昼休みもグランド整備(1年生)。
授業終了後、夜9時まで過酷な練習の毎日。日曜日はほぼ毎週、練習試合。
ダブルヘッダーは当たり前で、トリプルヘッダーの日もあった ・・・ 。基本的に
野球部の休暇(休日)はありませんでした。元旦のみグランドや体育館での
練習は行なわず、監督(OBで元プロ野球選手)の家へ挨拶 ・・・ ある意味、
練習より質(たち)が悪い。たぶん、当時、全国で10本の指に入るほど練習を
していた学校だったと思います。とにかく今の時代からすれば異常でした。

私たちが入部した年の3年生は4名(うちレギュラー3名)でした。2年生主体の
チーム編成ですが、“優勝候補を脅かし、ひょっとすれば ・・・” という論評付きの
高い評価の学校でした。しかし、その夏の大会は3回戦?敗退でした。3年生が
引退し、夏が終わりました。( 私は何とか耐えて厳しい夏を超えました ・・・ )
新チームになりました。前年の6人のレギュラーを中心にそのまま成長すれば、
一層、甲子園出場を期待されるチームとなるはずです。

レベルは確実に上がっていました。ただ、2年生は相対的に個々の個性や
主張が強すぎて、まとまりがありませんでした。3年生の前キャプテンは人望
もあり、ちゃんとチームをまとめていましたが、新チームではそこらがうまく
いきませんでした。監督の目の届かないところでの練習に差が出ていました。
監督が見ていなければサボろうとする先輩もちらほら ・・・ 。1年生はそれに
合わせて動くしかできません。これでは今までやってきたことが無駄に ・・・

“楽” という観念が登場します。確かに苦しいので少しは ・・・ とも思います。
しかし、甲子園を目指しているチームの姿ではない、という思いも ・・・ 。
あれこれ考えるうちに、見られている時だけ頑張って、見られていなければ
サボる ・・・ 何か冷めてしまいました。品行方正、真面目に正論を唱えて是非を
問う気はありません。ましてや、私は1年生の中で一番いい加減なヤツでしたから。
ただ、誤魔化したり、嘘をつくために、わざわざこの学校に入ったわけではあり
ません。このままでは野球そのものが嫌いになる気がして ・・・ 退部しました。

( 今思えば、他人依存、他人批判でしかなかったかもしれませんが ・・・ )
半年余りの高校野球生活は、刺激的で、想い出と共にたくさんの教訓を私に
与えてくれました。野球の厳しさや苦しさの中から感じる、“本当の楽しさ” は
その場で体感しなければ、決して得られない貴重なものです。そしてそれは、
青春時代にしか味わえないものでもあることも付け加えておきたいと思います。

ちなみに、私が野球を続けていれば、3年生の夏は59回大会でした。
そして、その夏の59回大会を見事制して優勝した学校は ・・・・・
( まあ、人生そんなもんで、不安やけど先がわからないからおもしろい! )




             ↑ 地元の友人からこんな写真が ↑

先週末(土曜日)、母校の試合(3回戦)があったのですが、あの人気お笑い
芸人の出身校にサヨナラ負けしてしまったようです。1回戦をコールド勝ちして
2回戦では延長を制し、今年はそこそこ期待していたのですが ・・・

選手の皆さん、監督・コーチ、父兄ならびにOB関係者の方々、
大変、お疲れさまでした!残念でしたが、また、新チームを応援してやりましょう!


■ 昭和懐古 ■

世の中、
何年か経ってわかることもある
いや、
何年か経ってわかることのほうが多い
あの時にこうしておけば ・・・
は、もちろんタブー
後悔しない人生のために
を真剣に!

第五大成丸


蒸し暑い夏の日の汗

2008年06月20日 | 昭和懐古


雨が降りはじめた。
クルマを止めてムーンルーフを開けると ・・・





曇天から落ちはじめた雨粒が
やけに瀟洒で、泥中之蓮の域に感じる

じっと見ていると、無性に昭和のあの頃、
いや、あの蒸し熱い夏の日の一齣を想い出す

練習用の白いユニフォームが泥に塗れ
額に光る玉のような汗が首筋を零れ落ちる

皆、アンダーシャツの袖でその汗を拭う
限界を超え、閉目塞聴の世界へ誘われる

先輩の大きな声がグランドに響いた瞬間
時間差こそあるものの、現実の世界へ舞い戻る

汗でずっしりと重い帽子を被り直して
ガクガクと震える膝を残したまま前へ走り出す


■ 昭和懐古 ■

憧れの球場でプレーすることを目指したあの頃
憧れの舞台に立つことを誰も疑いはしなかった

第五大成丸


鈍色の空、錆色の道。

2008年06月10日 | 昭和懐古


子どもの頃 梅雨の夕刻が嫌いだった
鈍色に覆われた低い曇り空は物悲しい
家路にできる水溜りの縁に残る錆色の
轍が物悲しさをいっそう誘う そしてその
記憶は徐々に撥ねていく ・・・





小学校入学の頃、雨が降ると通学路のあちこちに水たまりができた。
学校まで歩いて40分。半ズボンに黒い長靴を履き黄色い傘をさして歩く。
晴れた日でも途中でイヤになるほどの道のり。雨の日なら尚更である。
私はなぜか、朝の雨が嫌いだ。家を出る時、不安が襲い心が悲しくなる。
いつも早く家に帰りたいと思っていたような ・・・

朝から雨が降っている日の帰り道は嫌いじゃない。
ただ突然、空が暗くなって降り出した生温い雨の帰り道は嫌いだ。
通学路には工場のトラックやダンプが砂や金属片を落としている。
梅雨どきに雨が降ると、その泥水と金属の錆臭があたりを覆う。
少年期の忘れられない臭いなのかも ・・・


■ 昭和懐古 ■

鈍色(nibi-iro)の空、
錆色(sabi-iro)の道。

第五大成丸


 
 


唯一の習い事

2008年06月06日 | 昭和懐古


6月6日、今日は 「楽器の日」 「邦楽の日」 「おけいこの日」 です。
昔から踊りや邦楽などの芸事は、6歳の6月6日から始めると上達する
と言われていたようです。





芸事ではないのですが、
私も6歳(幼稚園年長)のちょうどこの時期から算盤(そろばん)を習い始めたことを
思い出しました。最初は習うというよりゲームでもやる感覚でいた記憶が ・・・

親父の仕事に使う船舶の修理やドックをお願いしていた造船所の大将の娘さんが
家まで来て教えてくれていたのです。家といっても何度か紹介しましたが、工事の
飯場、トタンで囲われたバラックです。しかも、わが家は1階の8畳和室と2畳ほどの
布団部屋しかありませんでしたので、その2階の若い衆が寝泊まりをしている15畳
ほどの雑魚寝部屋(畳と裸電球)を仮の算盤教室として使っていました。

当初、同い年と一つ年上の近所の友達を中心に幼稚園児と小学校1年生併せて
10人ほどが習いに来ていました。初日には、これから何が始まるのか、という
期待と不安の中、緊張の面持ちで正座していたみんなの姿が今も鮮明に蘇ります。
ただ、意外と先生(大将の娘さん)は厳しく、いくら昔といえど6~7歳の子ども
にとって1時間以上も正座をしてジッとしていることは苦痛でした。初日で1人やめ、
2回目でまた1人やめ ・・・ 1ヶ月後には半数になっていました。

元々、一般の算盤教室のように検定試験を受ける(級・段の取得)ための教室では
なく、週に1回程度、先生の都合が良ければ開催するというものでした。その為、
毎回毎回、前回教えてもらったことをすっかり忘れてしまい、同じ間違いを起こすわ、
スピードは上がらないわ、で、よく先生を怒らせたものです。

この算盤教室に限らずですが、
昔の先生は教え子を怒ることはあっても、褒めることはあまりなかったように思い
ます。もちろん、出来が悪かったのでしょうが、私はほとんど褒められた記憶が
ありません。そのせいでしょうか、私は未だに自分の部下や子どもを褒めることが
苦手です。( 怒ること、貶すことは得意ですが ・・・ )
まあ、今の時代、褒めて伸びる子もいるとは思いますが、付け上がるヤツがいる
ことも事実ですよね(笑)。

それから約3年経った頃、
私は3級の練習に入っていたのですが、何と、先生が花嫁修業に入るということで、
教室が終わることになりました。“できれば3級を受けてほしい” と先生がお袋に
話していたようで、先生が子どもの頃に習っていた小学校の近くの珠算教室(先生)
を紹介してくれました。ちょうど、わが家も別の場所に家を建てて引っ越すことは
決まってましたので、どうせ飯場での教室は辞めなければなりませんでしたので、
その教室に通うことにしました。

私が通っていた小学校は、当時、日本で2番目に大きいマンモス校でした。
私たちの学年は9クラス、1つ下が10クラス、その下が12クラス ・・・ 約3,000人?
今の少子化がウソのような時代です。そんなマンモス校の近所、しかも、習い事は
「習字」 と 「そろばん」 が2大勢力を成していた時代。その珠算教室も2フロアで
曜日と時間で学年とクラス(級・段)を分けてシフトが組まれていました。1フロアで
50人ほどが机の上の算盤に向かいます。教室内は異様なほど緊張感があります。

遊びとは言いませんが、ゆっくりまったりソロバンをしていた私にとっては、
それこそ、カルチャーショックでした。私自身、転校したことはなかったのですが、
転校生の気持ちがわかったような ・・・ 先生は優しい方でしたが、場の雰囲気に
アレルギーを感じてしまったのです。その日でやめようと思い、家に帰ってそのことを
お袋に話しました。何も言いませんでした。ただ、次の日、先生(大将の娘さん)から
電話があり、“3級取るまで頑張って行って!” と言われました。相当悩みましたが、
そこまでは頑張る約束を ・・・

4年生になってすぐに3級の試験を受けました。意外とあっさり 「合格」 しました。
何と、先生(大将の娘さん)が “おめでとう!よう頑張ったね” と初めて私を褒めて
くれました。一応、合格したのでソロバンはいつでもやめれます。“やめます!”
と珠算教室の先生に告げました。すると先生が、“君ならいける!初段まで頑張って
みれば ・・・” と私に囁いてきました。私はまた大人の囁きに悩みます。

“5年生になったら少年野球が始まるので4年生のあいだは来ます(やります)。”
と先生の囁きにも配慮した妥協点で話をしました。結局、2級の検定を受ける前に、
少年野球に入ってしまい、中途半端なやめ方をしてしまいました。今思えば、
あの時すぐにやめておいても何の問題なかったのに ・・・ 。

私の唯一の習い事であった 「そろばん」 は、私の人格形成にも影響を与えました。

昔、悪いことをして親や近所のおっちゃんに怒られることは当たり前でした。それが
小学校に上がる前に、「一生懸命やっているのに他人に本気で怒られた ・・・」
これはある意味ショックでした。ただ、曲りなりにそれを何とかクリアしたことで、
どこか自分の自信となって備わっています。そして、その時の苦しさや悔しさの裏
にあった、他人なのに “こいつを良くしたい” と本気で思ってくれる人の存在や
有難さをほとんどの人は大人になって初めて気づくものです。言うまでもなく、
そんな時、感謝(あの時はありがとう!)と後悔(あの時、ありがとう!と言えば
よかった)が押し寄せます。私はこの気持ちを忘れず他人と向き合いたい ・・・


■ 昭和懐古 ■

あんな大人になりたい!
あんな大人でありたい!

第五大成丸


夢など無かった?

2008年06月04日 | 昭和懐古




周りの友達が 「プロ野球選手」 になりたいとか 「新幹線の運転手」 になりたい
といった “夢” を口にしていた頃、私はなぜか人生に冷めていた記憶がある。

もし、先生に聞かれたら ・・・ どう答えようかと少し悩むことはあっても、
真剣に “自分は将来○○になりたい!” という視点で考えたことはなかった。

“夢” が無かったというより、“夢” を語ることにまず煩わしさを感じてしまい、
“先のことなど誰にもわかるものか ・・・ ” という屈折した自分なりの論理を繰り
広げ周りの友達を冷やかに視ていた気がする。

大人に近づくと、冷静というより常に冷めたものの見方で青年期を過ごしていた
かもしれない。ただ、好奇心と感受性は人一倍強かったことは事実。そして反面、
人一倍飽き性であったこともこれまた事実である。

周りに真面目なヤツが増えれば、自身は限りなく不真面目なヤツを目指して動く。
逆に、不真面目やヤツが増えれば、真面目にやるべきと他人にも平然と訴える。

やはり、天の邪鬼だったのだろう。
ただ、天の邪鬼という言葉だけでは済まされないこともある。たとえば、進路 ・・・

ある日突然、同級生たちが将来を考えて志望校を真剣に決めている姿があった。
私は、“どこの学校行っても同じやろ” と悪態を吐いて、自身の進路さえ真剣に
考えるのをやめてしまったことがあった。

昨日まで右を向いて遊んでいたヤツらが、今日から左とばかりに襟を正す。
それこそ、まるで昨日までの自身の生き方を否定するように変貌していく姿が
どうしても納得できなかった。

大人になって、人の世ではそうしたことは日常茶飯事なのだと解ってからは
そう気にならなくなった。たしか、最近もあったような ・・・

自分にはできない技である。
不器用な生き方しかできない人間だということをこの歳になって初めて気づいた。
ただ、人に影響されて方向転換するような人生だけは送りたくない。

「夢」 というものは、“目指したり” “持ったり” “掴んだり” するものではなく、
“ただ、見るだけのもの” で済ませてやるべきだと私は考えている。

なぜなら、世間で “夢はきっと叶う!” と叫んでいるヤツらの “夢” のほとんどは
“現実” である。本当に叶ったかどうかを世間の中で確認するために叫んでいる
に過ぎない。同じ暗示が必要ならそれを信仰すべきだろう。

私は今、若かりし頃の卑屈な考えを発している訳ではない。冷静に、あくまでも
客観的に若い頃に考えていたことを再分析している。そして、その考えが今も
継続して使えると判断した。その上で、この生き方で良いという結論にも至った。


■ 昭和懐古 ■

“良い人生だった”
と思える人生に向かって!

第五大成丸


 
 


人生を悟った瞬間

2008年06月03日 | 昭和懐古



                                  
 遠い昔
   遊ぶ場所には困らなかった
   危ない遊び場でよければ山ほどあった             

 子供心に
   “ もっと楽な遊びないの?ほんま疲れるわ ・・・ ”
   という思いはあった

 ただ
   
それしかなかった
   “それしかない” という環境の中で “遊び” を工夫した
   無論、注意書きや説明書はない

 あったのは
   二つの “ そうぞうりょく (想像力)(創造力) ” と
   二つの “ たいりょく (体力)(耐力) ” だった

 少なくとも
   空調で管理された部屋や親のお金は必要なかった

 人 生
   「楽しい≠楽」 と悟った瞬間だったかもしれない

 だからこそ
   “遊び心” のある大人になりたいと思ったあの頃 ・・・