「物心がつく」 とは
一般的に幾つの頃なのか?
「物心がついた」 とは
何を持って “付いた” とするのか?
小難しい話をするつもりはない。
ただ、妙に気になって ・・・
視覚で残っている写真的な記憶から本能的に
何かしら記憶しようとする幼年期の微妙な時期が
それだと仮定すれば、私の物心が付いたのは
昭和30年代終盤となるのかもしれない。
今想えば、全体的にセピアな時代。
それこそ、幼年期の写真は完全にモノクロの世界。
しかし、一つ、そしてまた一つと記憶を辿れば、
そこには総天然色の明るい世界もしっかりと蘇る。
画像だけではなく、動画としても過去のシーンが蘇る。
この記憶の鮮明さは何なのか ・・・ 。
『 昭和懐古 』
自分で思うに、
いかにも昔を懐かしむ回顧主義的な発想かもしれない。
センチメンタルな響きにこそばゆい気持ちにもなる。
いや、他人にそう思われるのが面映いのかもしれない。
しかし、次々と記憶のページが捲れて先へ先へと
進みたくなっているのもまた事実である。
物心ついた頃、
ある港町の飯場で両親と幼い私は寝起きをしていた。
親父の仕事の関係で辿り着いた町、そして東屋。
時代背景以上に、悪辣で厳しい環境だった。
すぐ隣に、某特殊製綱所の大きな工場があり、
今では有り得ない(問題ですよ!)24時間フル稼動。
毎夜、鉄を焼き切る匂いがし、耳を劈くほどカーン~ゴーン~
という轟音が響き、境界線の壁際高くに取り付けられた
大きなライトからはオレンジ色の閃光が夜明けまで放たれ
眠りの邪魔をする。
飯場の塒は、今で云えばプレハブの仮設といった代物。
木造の箱にトタンを貼り巡らせて窓を数ヶ所開けただけの
設えで、1階8畳一間と2畳ほどの布団部屋のスペースが
我が家のすべてだった。(天井高は180cmほどしかなかった)
2階には工事関係の若い働き手が入れ代り立ち代り
5~8人ほどで雑魚寝をしていた。方言なのか、業界用語なのか、
うちの親父は若者(若い衆)を “わかいし” と呼んでいた。
風が吹けば、ガラス窓が揺れてガタ~ガタ~と見事な音を立てる。
雨が降れば、バリ~バリ~とトタンを打つ音が家の中を駈け回る。
隣接する工場との間に、幅2m程の悪臭を放つドブ(溝)があり、
夏にはボウフラがわき蚊が大量に発生する。今の時代では
想像しえない生活環境がそこにはあった。今、振り返れば、
その記憶がまるで発展途上国のドキュメンタリー映画だった
ような錯覚さえ覚える。
親父は朝早く起きて仕事(現場)に出掛ける。
お袋はその親父と若い衆の朝飯と弁当を作る為、
それ以上に早起きをして別棟の炊事場へ向かっていた。
たぶん、冬場は夜明け前の寒い寒い時間に ・・・。
(多い時には30人分の飯炊き ・・・ 頭が下がる!)
夜明けと共に、工場の音が数時間消える。というか、
夜勤と日勤との交代の数時間、工場音が少し下がり、
朝の生活音のボリュームがそれを上回って音を消して
いたのだろう。親父が仕事に出掛け、お袋が炊事場の
片付けをしている時間帯、家(部屋)には私が一人で
寝ていた。一番熟睡していた時間帯だったかもしれない。
幼心に一つの記憶が残っている。
工場とは反対側に大きな道路(産業道路)があった。
その道路の向こうに並行して汽車(貨物)が走っていた。
その汽車の警笛が毎朝9時半頃にポーッポーッと鳴り、
その音で私は目覚めることが多かった(らしい)。
私は起きると必ずお袋を探す。お袋が居ないとわかると、
直ぐに家を飛び出て泣きながら炊事場へ向かう。
お袋を見つけると安心感が溢れ余計に泣きじゃくる。
何日も何日も同じ状況が続き、私は不安で寝つきが
悪くなったようだ。そこでお袋の秘策だったかどうか定か
でないが、毎朝、枕元に 「板チョコ」 が置かれるようになった。
起きて直ぐそれが目に飛び込むと、お袋を必死で探すことは
なくなった。板チョコを手に持って嬉しそうに炊事場へ向かう。
お袋が “一人で起きたんか、えらい(賢い)なあ” と声を掛け
てくる。“うん!” と少し得意気な顔をしていたかもしれない。
「嬉しい」 「悲しい」 「楽しい」 「淋しい」 「怖い」 などの
感情が自意識で実感できるようになる頃、その感情を何かと
結びつけて記憶に残そうとする本能が人にはあるような気がする。
もちろん、物の場合もあるし、言葉や匂いの場合もある。
大人になれば、多少理性が働き、素直な記憶ではなくなる。
ピュアな想い出は子供の頃の特権かもしれない。
私の場合、「嬉しい」 という記憶の表紙には、今でも、
この板チョコの包み紙が描かれている。たぶん一生、
私の記憶から消されることはないし、「嬉しい」 の表紙で
あり続けるような気がする。
そして、この記憶が 『 昭和懐古 』 の出発点となって
昭和を回顧していることは否定できない。