ポルトガルのえんとつブログ

画家の夫と1990年からポルトガルに住み続け、見たり聞いたり感じたことや旅などのエッセイです。

043. 異邦人の住む町

2018-11-29 | エッセイ


 同じ建物の二階の部屋がかなりの間、空き部屋になっていた。
そこに住んでいたポーリンさんが数年前に亡くなって、一人残された奥さんはフランスに住む息子に引き取られていった。
奥さんは80歳を超え、しかも足が悪くて一人で歩けないし、この建物にはエレベーターがないので、とても一人で住むのは無理だったのだろう。
部屋は売りに出されていたが、なかなか買手がつかないようだった。

 それが去年、私たちが日本から戻ってきた時、2階の物干しに洗濯物がかかっているのを見た。
2階の部屋にどうやら借家人が住み始めたようだ。
でも洗濯物の干し方がなんとなく変だ。
ポルトガル人の干し方と違う。

 まずポルトガル式の物干しの説明をすると、物干しは外壁に取り付けてある。
窓から身を乗り出すようにして洗濯物を干すのだが、慣れない内は下を見ると目が眩んだ。
台所の窓の外壁の左右に鉄の棒が取り付けてあり、その左右の棒には小さな滑車が二個ずつ付いていて、その滑車に洗濯ロープが1本ずつかけてある。
 我が家は最上階の4階にあるので、うちの物干しの下に3階から1階までの物干しが段々に並んでいる。
だから洗濯物を干す時は下を見ながら気を使う。
しっかり脱水をしてから干すようにしているから、洗濯物からしずくが落ちることは決してないが、それでも下の階の洗濯物がすっかり乾いた時に、上の階に濡れた物を干すのはちょっと気が引ける。

 


上の階の洗濯物が下の階の窓を半分ふさいでいる

 ところでポルトガル人は、たとえばシーツは一方の端を数個のクリップでロープに止めて干す。
つまりカーテンを下げるようにぶら下げるやり方だ。
シーツは長く垂れ下がり、風が吹くと下の階の窓にパタパタと当たって、結果的に窓の拭き掃除をすることになる。
下の階の住人は窓の外に他人のシーツが下がって、せっかくの眺めを塞がれてしまう。
でもぜんぜん気にしないどころか、自分も同じようにそのまた下の階までシーツを垂らして干している。
幸い我が家は最上階なので、窓が他人のシーツで塞がれることはないが、もしそうなったらかなりうっとうしいことだろう。

 私は日本式にロープにかけて二つ折りにして干している。
折り目がはっきり残ってしまうが、他人の窓の眺めを塞ぐことはないし、他所の窓の掃除をしなくてすむ。

 ところで二階に住み始めた人の洗濯物は驚いた事に、私と同じようにシーツを二つ折りにして干している。
それにシーツや他の衣類の柄もなんとなくアジア的な気がする。
ひょっとして、日本人かも?
こちらでは引越してきても、ご近所に挨拶回りの風習はないから、どんな人がいつから住み始めたかということは、あまり分らない。

 その夜、我が家のキッチンに外からいい匂いが入ってきた。
明らかにポルトガル料理とは違う、中華の八宝菜を作っているような匂いだった。
同時に大きな声で中国語の会話が聞こえてきた。
数人が集まって喋っている様子だ。
やっぱり洗濯物のあの干し方は東洋人だったのだ!

 私たちがセトゥーバルに住み始めたころは、中華レストランはトロイアビーチに一軒しかなかったと思う。
それが駅前に一軒、メルカドの近くに一軒、と次々に開店して、10軒以上に増えた。
 そしてこの数年間に異常な現象が起きている。
中国人経営の衣類や雑貨を売る店が次から次に開店しているのだ。
最初はぽつんと一軒できたが、しばらくするとあそこにもここにも…。
通りを隔ててあっちにも、こっちにも…と、今では何軒あるのかもわからないほど増え続けている。

 地方に出かけるともっと驚く。
小さな町にも2軒、3軒とできている。
ほとんどの店が入口に派手な赤い提灯を看板替りに下げているから、よく目立つ。

 


赤い提灯が中華雑貨店の目印。セトゥーバルの大通りにもまた一軒開店した。

 一番驚いたのがアライオロスに行った時のこと。
アライオロスは手作りの絨毯で有名な町である。
博物館にはこの絨毯の古くて良い物が展示されているし、ポサーダ(国営の古城ホテル)などでは由緒あるアライオロスの絨毯をよく目にする。
ポルトガルの人たちは家を建てると、ここの絨毯を敷くことに憧れを持っている様だ。
 町の女性たちがひと針ひと針刺繍したみごとな絨毯が、町の伝統的特産品となっていて、商店街には絨毯を売る専門店が軒並み肩を並べている。
ところが商店街のど真ん中、しかも絨毯専門店だった所が、いつのまにか中華の雑貨屋に変っていたので驚いてしまったのだ。

 アライオロスの絨毯にかなりよく似た絨毯が、露天市やスーパーで売っている。
よく見るとデザインも色もアライオロスのものとは少し異なるし、中国製である。
手作りだとしても人件費の格段に安い中国産だから、値段はぐんと安いのでよく売れているようだ。
そのせいでアライオロスの絨毯の売上はかなり打撃を受けているのではないだろうか。

 下の部屋の中国人は一度チラッと姿を見かけただけで、この一年間顔を合わしたことがなかった。
たぶん朝早くに出かけて、夜遅くに帰宅していたのだろうと思う。
洗濯物は入れ替わっていたので、住んでいる様子は感じられた。

 今年日本から戻ってきてから、下の部屋の洗濯ロープに一週間も2週間も洗濯物が干してないのに気が付いた。
どうも人の気配がしない。
それにベランダの植木鉢の花もすっかり枯れている。
いつのまにか引っ越したようだ。

 サッカーのワールドカップがドイツで始まると、ポルトガル中が家の窓に国旗を掲げた。
セトゥーバルでも、一戸建ての家も集合住宅にも軒並み国旗がはためいた。
ポルトガルの赤と緑の国旗に混じって緑地に黄色のブラジル国旗がかなりたくさん目に付いた。
ブラジル人が国旗の数以上にセトゥーバルに住んでいるのが、ひと目で分かる。
ブラジル人の経営するカフェが一軒、レストランが一軒、
私が知っているのはそれだけだが、もっとあるかもしれない。

 下の階の部屋には新しい入居者が住み始めたようだ。
小さい子供の声も時々聞こえる。
そして下の駐車場には「~BRASIL~」と車体の横に大きく書かれたワゴン車が毎日止まっている。
下の階の新しい住人はブラジル人の一家らしい。

 露天市に行くとペルーからのインディオが民芸品の店を開き、青い目をした美しいウクライナ人カップルが両手にいっぱいの買物をしている。
その屋台ではウクライナ人労働者たちが輪になって、ポルトガルの強いアグアデンテ(焼酎)を飲んでいる。

 セトゥーバルにはたくさんの中国人の店ができ、ブラジル人やウクライナ人も多く住み、そして少数派だが、ペルー人や日本人も住み、日本人の経営するすし屋も一軒できている。
それ以上に、旧植民地のアンゴラやモザンビクなどアフリカ人も多い。

 私たちが住み始めた16年前は、町を歩いても東洋人や黒人の姿はほとんど見かけなかった。
私たち二人はこの町では珍しい東洋人、異邦人として人々から見られていたように思う。
ところがこのところ急速にこの町も様々な人種が住み着き、異邦人の住む町になってきたようだ。
それはセトゥーバルに限らず、ポルトガル中、そしてヨーロッパ中、そして日本にも当てはまると思う。
世界中で、民俗大移動が静かに起きているような気配がする…。

MUZ 2006/07/30

 

©2006,Mutsuko Takemoto
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(この文は2006年8月号『ポルトガルのえんとつ』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルのえんとつ』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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K.057. 黒豚飼いの絵皿 prato Pintura Alentejana

2018-11-29 | 飾り棚

直径 27.8cm Redondo

 長年ポルトガルに住んでおられた知人から頂いた絵皿。
 アレンテージョ地方の黒豚飼いはそのあたりを旅している途中で偶然見かけたことはあるが、黒豚飼いの描かれた絵皿は珍しい。
 スペインとの国境の町バランコスは黒豚の産地で、黒豚飼いの姿もそのあたりで見かけた。
 毎日広い地域を移動しながら活きの良い草やどんぐりなどを食べて育つ黒豚は健康に満ちている。バランコスは黒豚のチョリソ(ソーセージ)などが有名。

 この頃はスーパーなどでも肉売場で黒豚のコーナーが常設されている。レストランでも黒豚の料理を出す店が増えている。炭火焼のステーキなど抜群に美味しい。MUZ

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