『九州へ』 第一章 3節
YはO村さんの長男、図体はでかいがおとなしい性格でなついてくる。彼が大学で上京して来た時もよく飲みに連れていったものだ。2歳下だからもう三十八だ。まだ独身だと言う。話を聞くと自分達は、次郎丸の実家に泊まるよう用意してあるとのこと。天国社を出るとタクシーを拾った。とにかく腹が減っている。幼い頃の記憶は、次郎丸近くにお店などなかったはずだ。灯りが途切れない通りをタクシーはすぐ止まった。
ここが次郎丸?知らない土地に降り立った気分である。拡張工事の後にいろんなお店が連立している。大通りを渡りまだ灯っている一軒の暖簾をくぐった。「居酒屋りんご」東北地方に来たみたいだが、肴に眼張の煮付け、穴子の白焼、ハマチの太巻き。焼酎は何にしますか?不思議な応対に戸惑ったが、麦あり芋あり米ありとチョイス出来るとのこと。ここでも九州にいるんだ、と実感する。そして、Yの話に耳を傾けながらも長かった一日を振り返った。旅疲れた身体にアルコールがしみわたる。普段、芋焼酎など好んで飲まないが郷に入っては郷に従えだろう、芋の臭みが甘く感じた。
店を出たのは一時過ぎだろうか、見上げると満天の星空だ。東京では見たことがない。普段の生活から離れると何でも感動してしまうのかも知れない。十分も歩けば着くと言うが、いくら歩いても記憶と重ならない。マンションまで出てきた。確か鎮守の杜みたいな神社の裏にあるはずだ。
「おいY!間違ってるんじゃないのか?」
先導のYまで、あれ、あれ?と言い始める。
「夜だから、良くわからないな・・」
何度も同じ道を歩いてるようだ。二十分近く経っただろうか、幼稚園の角を曲がると星明かりの中、懐かしい次郎丸の家が出てきた。遊び疲れ、門限を破った子供の様にお勝手口を開ける。あっ!次郎丸の家の匂い。ここでも懐かしさがこみ上げる。女性軍を、起こさないよう布団に潜り込んだ。
目が覚めると見慣れない天井があった。Yの鼾は強烈だったが、さわやかな気分だ。T子さん、N子さん、R子さん、そして横浜のS子おばさん、お袋はすでに起きていた。
「Sちゃん、昨日遅かったんでしょう!まだ寝てていいのに」
懐かしいから、散歩してくるよ、そう告げるとつっかけを引っ掛けて外に出た。目の前に荒れ果てた庭が広がっている。真っ青な空に、熟した柿の実だけがこの土地に生命が宿っているみたいだ。ヒヨドリが鳴いている。庭と言うより、三十年前ここは百坪近い菜園だった。ナスにキュウリ、トマト、エンドウ豆など夏の野菜が被い茂っていたのに。朝一番におじいちゃんと水撒きをした後、採れたての野菜を台所に運んだものだ。もう何年も住んでないのだろう。たまに父達が集まって伸び放題になった雑草を手入れしたと言ってたが、夏とは違う秋色の風景は、人の老い、そして時代の移り変わりを余計に感じさせた。
「変わっちゃったでしょう」
お袋が後ろにいた。佇んでいた自分の心を見透かされたみたいだ。
「解る?これ山椒の木よ。この辺りトウモロコシあったの覚えてる?」
枯れた雑草を踏みしめて二人は歩き始めた。
「この辺り一周してみようか」
錆付いた門扉を開けて表に出た。二人で肩を並べて歩くのも何年ぶりだろう。朝の風が寒く感じて、何気なくお袋を見た。
「寒くない?」
今年で七十歳になるお袋が小さく見える。長女のA加はもう追い越したかもしれない。外見からも中年の域に入った自分の息子を今どう思ってるんだろう。
「向こうが、室見川だっけ?博多人形の工場みたいなのあったよね」
大分県境方面だろうか山脈がそびえている。関東平野に住んでいると、近くにに山の見える風景などない。神社の境内に入った。ここは蝉時雨の中、走り回って遊んだ場所だ。早朝に、蝉の幼虫を探しては、成虫になる姿を息を殺して眺めていたんだ。
樹齢何百年の老木に、[福岡市保護指定の樹 もちの木]とあった。
この樹は子供の頃の自分を、覚えてくれているのだろうか。
第一章 おしまい