風と僕の歩調

釣りが好きで、台所に立つ事が好きで、音楽が好きで、毎日の暮らしの中で感じたことを僕の言葉で綴ります

『九州へ』 第一章 3節

2011年01月06日 | 回想録

『九州へ』 第一章 3節

 YはO村さんの長男、図体はでかいがおとなしい性格でなついてくる。彼が大学で上京して来た時もよく飲みに連れていったものだ。2歳下だからもう三十八だ。まだ独身だと言う。話を聞くと自分達は、次郎丸の実家に泊まるよう用意してあるとのこと。天国社を出るとタクシーを拾った。とにかく腹が減っている。幼い頃の記憶は、次郎丸近くにお店などなかったはずだ。灯りが途切れない通りをタクシーはすぐ止まった。

ここが次郎丸?知らない土地に降り立った気分である。拡張工事の後にいろんなお店が連立している。大通りを渡りまだ灯っている一軒の暖簾をくぐった。「居酒屋りんご」東北地方に来たみたいだが、肴に眼張の煮付け、穴子の白焼、ハマチの太巻き。焼酎は何にしますか?不思議な応対に戸惑ったが、麦あり芋あり米ありとチョイス出来るとのこと。ここでも九州にいるんだ、と実感する。そして、Yの話に耳を傾けながらも長かった一日を振り返った。旅疲れた身体にアルコールがしみわたる。普段、芋焼酎など好んで飲まないが郷に入っては郷に従えだろう、芋の臭みが甘く感じた。

 店を出たのは一時過ぎだろうか、見上げると満天の星空だ。東京では見たことがない。普段の生活から離れると何でも感動してしまうのかも知れない。十分も歩けば着くと言うが、いくら歩いても記憶と重ならない。マンションまで出てきた。確か鎮守の杜みたいな神社の裏にあるはずだ。

「おいY!間違ってるんじゃないのか?」

先導のYまで、あれ、あれ?と言い始める。

「夜だから、良くわからないな・・」

  何度も同じ道を歩いてるようだ。二十分近く経っただろうか、幼稚園の角を曲がると星明かりの中、懐かしい次郎丸の家が出てきた。遊び疲れ、門限を破った子供の様にお勝手口を開ける。あっ!次郎丸の家の匂い。ここでも懐かしさがこみ上げる。女性軍を、起こさないよう布団に潜り込んだ。

目が覚めると見慣れない天井があった。Yの鼾は強烈だったが、さわやかな気分だ。T子さん、N子さん、R子さん、そして横浜のS子おばさん、お袋はすでに起きていた。
「Sちゃん、昨日遅かったんでしょう!まだ寝てていいのに」

 懐かしいから、散歩してくるよ、そう告げるとつっかけを引っ掛けて外に出た。目の前に荒れ果てた庭が広がっている。真っ青な空に、熟した柿の実だけがこの土地に生命が宿っているみたいだ。ヒヨドリが鳴いている。庭と言うより、三十年前ここは百坪近い菜園だった。ナスにキュウリ、トマト、エンドウ豆など夏の野菜が被い茂っていたのに。朝一番におじいちゃんと水撒きをした後、採れたての野菜を台所に運んだものだ。もう何年も住んでないのだろう。たまに父達が集まって伸び放題になった雑草を手入れしたと言ってたが、夏とは違う秋色の風景は、人の老い、そして時代の移り変わりを余計に感じさせた。

「変わっちゃったでしょう」

 お袋が後ろにいた。佇んでいた自分の心を見透かされたみたいだ。

「解る?これ山椒の木よ。この辺りトウモロコシあったの覚えてる?」

枯れた雑草を踏みしめて二人は歩き始めた。

「この辺り一周してみようか」

錆付いた門扉を開けて表に出た。二人で肩を並べて歩くのも何年ぶりだろう。朝の風が寒く感じて、何気なくお袋を見た。

「寒くない?」

 今年で七十歳になるお袋が小さく見える。長女のA加はもう追い越したかもしれない。外見からも中年の域に入った自分の息子を今どう思ってるんだろう。

「向こうが、室見川だっけ?博多人形の工場みたいなのあったよね」

大分県境方面だろうか山脈がそびえている。関東平野に住んでいると、近くにに山の見える風景などない。神社の境内に入った。ここは蝉時雨の中、走り回って遊んだ場所だ。早朝に、蝉の幼虫を探しては、成虫になる姿を息を殺して眺めていたんだ。

樹齢何百年の老木に、[福岡市保護指定の樹 もちの木]とあった。
 
この樹は子供の頃の自分を、覚えてくれているのだろうか。
                                   
                        
                             第一章 おしまい
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九州へ 第一章 2節

2011年01月04日 | 回想録
『九州へ』 第一章 2節

 エコノミー症候群になるかと思った。だいたい最初から最後まで乗ってたのはオレだけじゃないのか?お尻が痛いわ喫煙車両のせいか喉が痛いわ何が500系だ!やっぱり飛行機だな!。6時間近く機能してなかった全身に博多の夜の空気を吸い込んだ。改札を抜けまず父に連絡した。

「遅いじゃないか!今どこだ?」

 親爺はもう酔っていた。お通夜は終わってしまったとのこと。父の指示通り地下鉄で藤崎まで行くことにした。地下鉄の入り口はすぐ見つかった。蟻の巣如く巡りめぐる東京の地下鉄とは異なり中州川端を中心に南は福岡空港、東は貝塚、西に姪浜とYの字にのびている。鳴り響くベルにあわてて階段を駆け下りた。なんだよ両方いるよ!どっちだ!どっち! さっきの路線図の記憶をもとに、姪の浜行きに飛び乗った。

「すいません!藤崎行きますか?」

若いOL風の女性に聞いた。

「はい…行きます…」

「ありがとう・・」

別に田舎者じゃないんだよ、・・精一杯無言のゼスチャーを送った。
 車内路線図を眺めると八つ目で藤崎だ。見ると一つ一つ駅名に因んだロゴがある。中州川端だと中州の文字に川をデホォルメ、藤崎は藤の花、洒落てるな、自治体と広告代理店なかなか考えてる。しかし東京だと駅多すぎるもんな・大江戸線くらいこのアイディア使っても面白かったのに。慎太郎さん、財政赤字でもホテル税導入案がんばってほしいよ。

 官庁も担当する私は、TCVB(東京コンベンション・ビジターズビューロー)の残してきた仕事を思い出した。15分足らずで藤崎についた。どうやらバスステーションがあるらしい。降りる人が多い訳だ。もう一度父に電話した。

「今、着いた」

「そうか、天国社だ!タクシーでワンメーターだ」

天国社?いいのか葬儀屋がそんな名前付けて…。何度聞き直しても酔った親爺は、天国社と言っている。タクシーに乗ってそう告げると
「どこの天国社ですか」と、運転手までが言う。
おいおい天国社チェーンかよ。感に任せて一番近い天国!と社を付けずに答えた。大通りに面してその天国はあった。すでに十時近かった。
 
 一階は電気が消えていた。正面に階段、二階の方で誰か話す声が聞こえる。

「Sちゃん?」

気配に気づいたのだろう、四十男にSちゃんとは気恥ずかしいが、この環境では仕方がない。懐かしさがこみ上げてくる。見るとそれぞれ記憶より年を重ねた親戚一同の顔が出迎えてくれた。

「遅かったじゃないか!飛行機じゃなかったのか?」

「立派になったねー」

「おい、まずはおばあちゃんにお線香あげなさい」

父に促されその部屋に入った。
棺の中のおばあちゃんは綺麗だった。薄く紅を引いてもらい、ただ普通に眠ってるみたいだ。正面の写真に向かって手を合わせた。(生きている間にお会い出来なくてごめんなさい。自分は、今三人の子供達に囲まれてにぎやかな生活を送っています。会社の方は、今年の四月から営業課長に昇進しました。若い頃はいろいろ心配掛けましたが、なんとかがんばってます。やすらかにお眠りください。そして天国で見守っていてください。)
そっと目を開けると、おばあちゃんは確かに微笑んでいる様に見えた。
 
 控え室に入り、まず目に入ったのは沢山のビール瓶と焼酎の一升瓶が転がっていることだった。ここは九州なんだと改めて感じる。父の兄弟は6人、長男は横浜に住んでいるA男おじさん、次男父の下は四人姉妹である。長女のT子おばさんのご主人O村さん、三女R子おばさんのご主人のS井さん、そして幼い頃いっしょに遊んでくれた四女K子N子おばさん(そう呼んでいた)のご主人N淵さん、いいちこの犯人はこの五人だろう。T家はおじいちゃんを筆頭に酒豪だが、類は類なのかよくも集まったものだ。この人達の前では、自分は赤子だろう。

「S君のお父さんはね、さっきあそこで、躓いてひっくり返ったンダヨ」

 おいおいまたか?今年9月に自転車でひっくり返って硬膜下血種とかで手術したばかりなのに…。あきれて親爺を見ると、今まさに奇跡の生還を果たしたかのように、目の前でその話を始めている。反省してないのか、学習能力がなくなったのか。聞いてくれることをいいことに壊れたレコードになっている。到着が遅かったな。今更この酒豪の集まりに追いつくのは無理だ。どうやらこの御仁達はここで朝までなんだろう。一杯目のビールを飲み干すと、いとこのYに合図した。

                                つづく
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九州へ 第一章

2011年01月03日 | 回想録
唐突ですが、明日宮崎に行ってきます。
九州を尋ねるのは10年ぶりです。

留守のあいだは更新出来ないかも・・・。

そこで、祖母が亡くなり、尋ねた時の想いを書き留めた10年前の文章を掲載したいと思います。

長々とした文章ですがお付き合い下さいませ。

二章は、結局着手出来ませんでした。

で三章は昨年ご紹介させていただいたものです。


第三章

一節


二節


三節

お時間があるときにでもどうぞ。

それでは、第一章の始まりです。


     九州へ(第一章)

 その電話が鳴ったのは、まだ布団の中だった。
何時だろう?
また娘への電話だろうか、今年中学になった長女は親から言うのはなんだが、変なとこに真面目でソフトボールの朝練を休んだことがない。
同期のクラブメイトは、仮病か本当に調子悪いのか、よく連絡係りに使うのである。
「おーい、またA加じゃないのか!」
まあいいか…早起きは三文の得だ。新聞を取りに行こうと玄関へと向かった。
「お父さん!おじいちゃんからだよ」
A加がいうおじいちゃんとは、もちろん私の父である。新聞も取らずに慌てて引き返した。
「もしもし、Sか?おばあちゃんが今朝亡くなった!おまえ今日会社休めるか?」
「…」
近い将来そんな電話が来るだろう、とは予感していたが祖父の方だろうと思っていた。確か祖父は94歳、祖母は90歳位だろうか、福岡で病院とケアハウスに別れて生活していたはずだ。いずれにしても大往生だ。受話器を置くとこれからの行動を寝起きの頭の中で思い描いた。
会社はすぐには休めない。昼まで仕事をして午後から休むことにした。妻は慌ただしく旅の準備に取りかかるが、子供達の学校の仕度と重なり思うように捗らない。一度戻ろう私はそう決めて家を出た。11月20日の朝である。

 外は、澄みきった秋晴れだった。11月中旬にしては寒くもなく、なんと爽やかなことか、生前のその人の生き方は天気に表れるというが、少ない記憶の中おばあちゃんの人柄を思ってみた。長身で凛とした姿勢、そして慎ましやかな笑顔、幼い頃の記憶の中でおばあちゃんの声が鮮明に蘇ってくる。最後に会ったのはいつだっただろうか。結婚して2年目の風林会の時かな、だとするともう14年も経つ事になる。「今年こそ遊びに行きます。」毎年、年賀状にはそう書いていたんだ。埼京線の殺人的な通勤ラッシュの中で福岡までの遠さを思った。

 始業一時間前の会社は、まばらだが来ている人はいてPCの画面を覗いていた。博多までだと、今週一杯休むことになる。週末は三連休だから六日間だ。昨晩記しておいた予定表を軌道修正しながら引継ぎ書を作成した。午前中はあっという間だった。いつもこんな姿勢で仕事に取り組んでいたらもっと出世するだろうに・・。

「課長、飛行機予約したんですか?。まだなら、ネットで取りましょうか?」部下のM沢が、聞いてきた。

「いや、新幹線で行く。飛行機嫌いなんだ」

「マジですか!新幹線何時間かかると思ってるんですか?空だと一時間半ですよ!信じられない!課長新幹線だって!」

9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ、飛行機嫌いにとってはなおのこと過剰になるだろう。韓国への社員旅行だって大阪観光のグループにしたのだから・・。説得しようと駅すぱあとで調べ始めた彼に声を掛けた。

「なあ、のぞみだったら何時に、東京駅かな?」
 
 家に帰ったのは2時過ぎだった。15時58分ののぞみ21号。九時頃の到着だ。何泊するのか決めてないがスーツと礼服、下着は2枚普段着一着、大荷物が嫌いな私はこれでよしとした。浦和の駅まで、妻と三歳になる次女のCが見送ってくれた。

「パパ行ってらったい!」

そうなんだよ!だから飛行機で行かないんだ。万が一だろうが憶だろうが落ちてこの子に会えなくなったら大変なことだ。そう自分を納得させながら手を振った。

 仕事中の東京駅とは違って見えた。自分は今から新幹線に乗るんだという高揚感が確かに心を支配している。祖母のお葬式に出向くのに随分不謹慎ではあるが、出張の少ない会社に勤めているとそうそう新幹線に乗る機会もない。ホームまでのエスカレーターがもどかしいくらいだ。500系だ!世界最速の先がロケットみたいなやつ、まるで子供である。おのぼりさんになららない様にと注意しながらも先頭まで歩いてみた。

 定刻通り銀色の車体は滑り出した。窓際の座席に腰を沈める。リクライニングにすると思ったよりゆったりしている。夕暮れには、まだ時間があるが富士山まで持つだろうか。見渡すと平日からかサラリーマンが多い。雑誌を眺める人、待ちきれず缶ビールを手にする人、モバイルPCを触っている人、移動の時を思い思い過ごそうとしている。旅慣れた人ばかりに見えてくる。なんだか日頃の自分の仕事がちっぽけに思えてくる。飛行機に乗るともっとそう感じるだろうか、ここに同乗した人皆、日本を世界をまたに掛けて働いている人に見えてくる。いかん、いかん別に「何年ぶりに新幹線乗ってます」ってタスキ掛けてる訳じゃないし…。萎縮しかけた心にはっぱをかけるようにビールを注文した。

 熱海を過ぎた頃だろうか、すでに遠くの山あいは薄暗く稜線のシルエットが美しい。樹々のあいまに民家の明かりが点在し暮れ行く一日を告げようとしている。この小さな明かりの下で思い思いの生活があるのだろうな。そんなこと考えてる内2本目のビールと列車の揺れは催眠効果として充分だった。

                                   つづく



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『三菱ギャランΛ2000スーパーツーリング』の思い出

2010年10月15日 | 回想録
ある雑誌の日本の名車100選に三菱ギャランを見つけました。
何を隠そう僕が最初に乗った車
『三菱ギャランΛ2000スーパーツーリング』なのです。
もちろん中古だけど、最初はさ、ワックスして磨いてさ、いつもピカピカだったのさ。
その内、シマ馬になってたけど・・・

ベージュブラウン系に落ち着いた内装が良かったのよ。
ただ、遅かった。
信号青になった瞬間、RX-7に置いてけぼり
抜かされた車数多けれど、抜いた車は止まってるヤツだけだったかも知れません。

ある夏の日の事でした。
僕と彼女と友達と友達の彼女と・・・なんて表現するんだ?
まあWカップルで『群馬サファリパーク』へ出掛けた時の事です。

友達が、
「何かさ、熱くね~か?クーラー効いてるの?」と始まりました。
吹き出し口に手を当てると生ぬるい風。
最大にしても、生ぬるい風が強くなるだけなのです。
嫌な予感がしてガソリンスタンドに入り点検してもらうと、
「お客さん、ガス入れてもダメですね。チューブひび割れて漏れてますよ」との事。

まるで今年のように暑い夏の日でした。

窓を開けても、走ってる時は良いけど渋滞すると汗ダラダラ。
でも何とか辿り着いたのです。
さあ、入場料を払って、そのままゲートの中へ。
草食動物のエリアを通り過ぎて、目の前に見えた看板に、

「ここからは、猛獣エリアです。窓を閉めロックを確認して通過してください」

とありました。

猛獣恐るべし
冷汗、アブラ汗ではありません。
単なる汗です。
車内温度60度は越えていたでしょう。服を着たままサウナ状態です。
死ぬかと思いました。

それが原因でその彼女とは別れられなくなりました。
汗疹が出来たでしょ!責任取って!だったっけかな・・・   おしまい

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2010 夏の思い出

2010年09月02日 | 回想録


水平線に見た夏



夕立の後で




白根湿原にて




夏バテ防止



日差しを向いて


  海の家から見た夏




モーニングサラダ




はしゃいだ一日の終わりに
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草津旅行の1シーン 「ビューティーフィッシュ」

2010年08月20日 | 回想録
先月行った草津旅行の1シーンです。

皆様、オヤジの足です。
ランチを召し上がりながらいらっしゃった方々
さぞかし美味し事でしょう



草津熱帯園で初体験しました。
ドクターフィッシュってどこぞの会社の登録商標になってしまってるとか。
「ビューティーフィッシュ」と名付けられておりました。

トルコの魚の通称で、本名は「ガラ・ルファ」というコイ科の淡水魚なのだそうです。人間の肌の古い角質・老廃物をついばみ、皮膚の新陳代謝が活性化され皮膚病も治療してくれるって。

足を入れるとあっという間にお集まりです。
くすぐったいというか、弱電流が流れてるというか・・・。

でもさ、綺麗にマニキュア塗ったお姉さんの足なら飛びつくだろうけど、
オヤジの足にさ・・・。
自分が、ガラ・ルファさんだったら選びます。

お前ら腹こわすぞ~。
僕が帰った後、浮いてるんじゃないかと心配になりました
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日航ジャンボ機墜落事故から25年

2010年08月12日 | 回想録
日航ジャンボ機墜落事故から、今日で25年が経ちました。

当時の事はよく覚えてます。
関口ひろしが司会をする『クイズ100人に聞きました』の番組途中でテロップが流れました。
社会人1年目、学生気分が抜けきれない青二才の僕は、半年近くで挫折感を味わっていました。この先、社会人としてまともに人生歩んで行けるのだろうか。
不安と悲壮感が漂う日々だったのです。

そんな心境の中、この大惨事が起こりました。
テレビで報道される度に、動悸が激しくなり、
3日後、僕も「パニック症候群」になり救急車で運ばれました。

お陰さまで良いお医者さんと出会い程なく社会復帰できましたが・・・。

ご遺族の方々は、未だに25年前から時間が止まっているのかもしれません。
もう、二度と起きてはならない惨劇です。

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夏の高校野球

2010年08月07日 | 回想録
いよいよ全国夏の高校野球の開幕です。

数年前の事です。
やはり朝から暑い日でした。
新聞の高校野球地方予選の記事に母校の試合がある事に気付きました。

振り返ってみると、別に野球も有名校でなかったし卒業して何度も夏が通り過ぎていったのに初めて高校野球と結びついたのです。

ほ~今日試合があるのか・・・。
最初はそんな気持ちでした。

日曜日の朝、食事も終わりのんびりしていると、かみさんはパート、娘はプール
一人ずつお家から居なくなっていきます。

ふと、先ほどの野球を思い出しました。
もう一度新聞を引っ張り出して地方欄を覗きこみます。

隣町の市営球場で第一試合10時30分 3回戦。
確か当時の監督は、眼鏡かけてひょろっとした数学の先生、顔も浮かんできました。
いつも一回戦で敗退していたのに・・・三回戦か、2回も勝ったんだ。

行って見ようかな・・。そんな気持ちが頭をもたげてきたのです。

時計を見上げると今10時半。今始まったところです。
やっぱ遅いか・・・。
コーヒーを入れ暫くしてネットで速報をチェックすると、2回終わって2対1で勝っています。

今家を出て頑張って行くと・・・駅からタクシーで向かうとして・・。
考えながら洋服を着替え始めていました。


球場に辿り着くと、次の試合の選手と応援団、そして、父兄やボランティアの高校生達でごった返していました。
外からも、応援団の声援と吹奏楽の演奏、歓声と悲鳴が聞こえてきます。
500円で入場券を買うといざ球場の中へ。
試合は5回 3対3の同点です。
来て良かった。

陽射しを遮るものは何もなく球場を覆う熱気、そしてなぜか、夏草の香り。
芝生と土の匂いなのかもしれません。

母校側のスタンドに座ると周りを見渡します。

父兄かファンなのか、投手の一球ごとに声をかけています。
これさ、東京ドームのオレンジの集団より熱いかも。
攻撃する反対側のスタンドもバケツの水を撒き散らしてのパフォーマンス。
自分も、徐々に感情移入していつの間にか熱い声援を送っていました。

そして、この選手達も、応援している生徒も、あの校舎に通って、あの教室で勉強してるんだな・・・。そんなこと考えると、余計に親近感が芽生えてきます。

別の回路では、高校時代の友人の顔と過ごした日々が浮かび上がってきました。

そんな感情と、感傷が交錯しながら、試合は8回の裏に2点を入れられ3対5の最終回。
最後まで諦めない応援団のボルテージ、最後の打者のバットが空を切ると、それが大きな悲鳴に変わりました。

じわじわと悔しさが込み上げてきました。
周りを見ると、嗚咽が聞こえてきます。生徒も父兄も応援団も・・・。
近くのお母さんの溢れる涙を見つけたら僕も眼頭が熱くなり視界が遮られました。

甲子園に出場出来る選手だけが高校野球じゃない。
ここにも白球を追いかけた熱い3年間があることを知りました。

行きはタクシーだった道を、高校生活三年間を思い出して歩きました。
それほど遠く感じなかった道のりでした。


今年は、二回戦で敗退。タイミングが合わず行けなかったけどね。

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初夏の心象風景

2010年07月12日 | 回想録


初夏の心象風景

幼い頃、住んでたところは、目の前に広がる田園。
春は、たんぽぽ、白ツメ草、そしてレンゲ草の絨毯。
そして、田植えの時期は蛙の合唱。
背丈ほど伸びた稲の頃、真っ青な空に入道雲。
蝉しぐれの中、タモと虫カゴを持って走り回っていました。
季節と共に彩られる僕にとって原風景なのです。



5歳のとき、扁桃腺の手術で呉の病院に一週間入院することがありました。
帰ってしまう両親を窓から心細く眺めたのも夏の始まりだったのかな。
手術後、病院の廊下を走り回われるようになった頃が退院でした。
迎えに来た父がとても優しかったのです。

ところがやっちゃいました。

呉線で帰る途中、トンネル内で窓を開けて叱られました。
汽車ではトンネルの中で窓を開けるのはご法度なのです。
客車はあっという間にモクモク煙の中。
そう、僕はいたずら大好きっ子だったのです。
父が他のお客さんに、平身低頭していました。

病院の玄関ではあんなに優しかった父が、
家に帰るまで不機嫌でした。

そして、迎えてくれたのは、一面に広がる田んぼ。
一週間でぐ~んと成長した稲に驚いたのを覚えてます。
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黒いアナゴ  その二

2010年06月14日 | 回想録
つづきです。


そして、黒い穴子の正体は・・・・。



「うなぎ」


天然のうなぎ。「かば焼き」「白焼き」「うな重」、「ビール」に「冷酒」

心は、釣りから食べることへ変わっていった。氷づけにして持ち帰ったうなぎを水桶に入れる。捌き方は、穴子と一緒、目打ちをして背開きにし、中骨とわたを取る。前はよく失敗したものだったが、今は手慣れたものである。


「・・・・・」

「・・・・・」


何か動いた・・・確かに、今、水桶の中で!!!

「わっ!わっ!わっ!」息を飲んだ。驚いた。

水桶の中であれよあれよと、死んだはずのうなぎが踊り始めたのである。
仮死状態だったのだろう。すごい生命力である。今まで蚊やゴキブリはやっつけた事はあるが、命ある動物を自らの手で直接殺生した経験はない。

出刃包丁を持ったまま妻を見た。
一歩退く妻。
「わたしは、や~よ!」と顔に書いてある。
踊るうなぎとにらめっこの挙句、僕はとうとう決心した。やってやろうじゃないか!
「飼えば~」と、変なこと言う妻を無視し、僕は腕まくりをした。
うなぎをつかむ、しかし、動くは、踊るは手から滑り落ちたうなぎは、床を這いまわる。妻も子供も悲鳴を上げて逃げまわる。阿鼻叫喚、驚天動地、うなぎも僕の決心を知ってか必死である。やっとの思いで、まな板の上にのせたうなぎの目を打つ。いささか残虐な気持ちになる。背を開こうとするがとてもきれいに包丁が通らない。とうとう小一時間の戦いで2匹を捌いた。
たっぷりと身を残した骨は油で炒めて骨せんべいに、昆布で出汁を取り肝吸い、身は蒲焼きにして鰻丼にした。
「残酷だ」何だとか言っていた妻と子は、美味しい、美味しいといって平然と食べていたが、僕は食欲がなかった。あの残虐な気持ちがまだ残っていた。


そして月日が経っても、
うなぎを口にするたびに、あの日を思い出す。


おしまい


写真は、
何年か前の・・・
仲の良かった時の?今も仲好いと思っている父親なのですが・・・





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