風と僕の歩調

釣りが好きで、台所に立つ事が好きで、音楽が好きで、毎日の暮らしの中で感じたことを僕の言葉で綴ります

黒いアナゴ  その一

2010年06月13日 | 回想録
昨晩、夢には出て来ませんでした。
居酒屋で飲んでる夢でした。
まっいっか

そして、今日も釣りつづきで

「あれ」を生まれて初めて釣った時の事を、ある雑誌に投稿した文章です。
もう、15年以上昔に記述したお蔵入りの手書き文書を、ワードに残しておこうとしこしこ打ってみました。

回想録としてブログで紹介させてくださいませ。
(幼い文章ですが、お許しください)


その年も台風の当たり年だった。晩秋だというのに関東地方を掠めていった台風は、未だ強い風を残し、出発を前に気持ちを重くしていた。
妻との取り決め(?)で、「月一回」の釣行。「やめれば~」の言葉を振り切り千葉県長浦港へ友人と出掛けた時のことである。
5年前、釣りを覚えたての頃、防波堤からの投げ釣りしか知識がなくキス、メゴチ、ハゼ、カレイと季節によって五目釣りを楽しんでいた。長浦港は夜釣りではアナゴの穴場、旬は初夏だが年間を通じてよく釣れる。

妻の「やめれば~」の言葉通り、防波堤を叩きつけた波は、闇夜の空へ舞い上がり釣り場50m手前まで降りそそいでいた。何とか竿を出せる場所がないかと探し、結局長浦から市原までもどることとなった。さいわい、比較的穏やかな所が見つかった。

絶対釣れないだろう、という2人の予測に反して何投目かの竿に、ずっしりとした感触。ライトを当ててみると、まるまる太った穴子である。しかも、異常に黒い。突然変異か奇形か、不安になりつつも立て続けに4匹釣りあげた。
しかし、空が白み始め目が慣れてきてびっくり。対岸が見えたのである。竿を出した場所は、東京湾ではなく養老川の河口だった。

そして、黒い穴子の正体は・・・・
                        つづく
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広島県豊田郡安芸津町 №3

2010年01月13日 | 回想録

GENKIさんからのトラックバックより
このブログを通じて、僕の故郷の方と出会いました。

8年前、福岡まで祖母のお葬式に出た後、育った広島の地を訪ねました。
計画を立てた旅ではく、思いもよらない不思議な経過を残しておこうと記憶をたどりながら当時綴ったものです。


三日目、最終章です。


空腹感はあるが、夜まで我慢しょう。
食べ終えるともと来た防波堤伝いに歩き始めた。
すると、不思議な光景を見た。牡蠣殻を乗せたベルトコンベア―に行儀良くカモメなのかウミネコが整列し両側に留まっている。何だかベルトコンベア―と一体化している。殻に残った身をついばんでいるのだろう、さっき通った時気がつかなかったのは、やはり人が近づくとスタンディングオベーションか、ドミノ倒しなのか次々と空に舞い上がって行く。
お食事中に申し訳ないね!そういって後にした。

「どこ、行っとったん!」

いきなり声が掛かる。さっきのオバさま達だ。休憩時間なのか手を休めている。
「防波堤の先まで、行ってました…」
実は小学校の頃、この安芸津に住んでたんですよ。と言いかけてやめた。話が長くなりそうだったし、好奇の眼差しにどこまで付いていけば良いのか不安になったからだ。

「牡蠣割りの手さばき素晴らしいですね」
「そうけー!誉められたことなんかねーけんねー」
「四十年もやりゃー、上手くもなるけーのー」
そうなんだ・・
四十年もなんだ。
僕が生まれた時からずーっとなんだ。

「写真良いですか?」インスタントカメラを向けシャッターを押した。

「なんでー!もう撮ったんけー。ええ顔しよう思うとったのに…」
「そうよ!化粧しょうって思うとったのに!」

賑やかな人達だ。
孤独感を味わおうと自分の心に琥珀色のフィルターをかけていたことを恥じた。

「実は小学校までここに住んでたんですよ。」
「そうなんけー!すごいのー。どこも、変わっとらんじゃろー。今はどこに住んどるん?」

「東京です」

埼玉も東京もいっしょだろうか…。
 九州の祖母が亡くなったこと。帰りに尋ねてきたこと。暫く話をした後、3キロ入りの牡蠣を宅急便で届けてもらうことにした。クロネコの伝票の住所欄に、浦和市と書いたが何も言われなかった。素敵なオバさま達だった。
そして改めて一人旅を実感した。家族旅行の場合、何ヶ月も前から計画を立て、人工的な観光地を巡り、帰りの午後から、この旅の終わりを感じ、寂しさと疲れが同居し始める。楽しい想い出として残るのだが、テレビ番組のように、なかなか地元の人達との自然の会話は難しい。
旅とは、本来思い掛けないそんなところが良いのだろう。
 
海を後にしてM米店の前をドキドキしながら通った。初恋の子の家だからである。
今はどうしているのだろう・・いまさら、妻子あるおじさんが、夫あるおばさんを尋ねる訳にもいかない。もちろんここには住んでいないだろうし・・その辺りの良識はあるのだから…。
 
後ろ髪を引かれる思いで、米屋を通り過ぎ自分が通った幼稚園に向かった。園庭の真中にある銀杏の大木が見たかったからだ。お寺の境内にあって、確か「のの様おはようございます」が、毎朝の挨拶だった。運動会にはその周りをかけっこしたことを思い出した。

近づくにつれ、真っ青な空に色づいた黄色の葉が、民家の瓦から見え隠れしている。息を呑んだ。その大木は威風堂々とそのままでいた。なんと見事な黄葉だろう。街も路もすべて箱庭のように感じていたが、この銀杏の木だけは幼い頃の記憶より迫力があった。
幼稚園の時と同じ様に幹の周りを歩いてみる。そして瘤だらけの太い幹を触れてみた。昨日の、おじいちゃんの手の甲が重なった。
自然と目頭が熱くなって、何かが落ちてこないように空を見上げた。鮮やかな黄色に光が射し、その上に抜ける青、視界が遮られた。どうして今、自分はここにいるのだろう。そして、ここは何も変わってないのだろう。自分だけが、さ迷い、歳を重ねて、やっと戻って来られたという錯覚に、熱いものが溢れてきた。                     
                           
                             第三章 おしまい
       

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広島県豊田郡安芸津町 №2

2010年01月12日 | 回想録
GENKIさんからのトラックバックより
このブログを通じて、僕の故郷の方と出会いました。

8年前、福岡まで祖母のお葬式に出た後、育った広島の地を訪ねました。
計画を立てた旅ではく、思いもよらない不思議な経過を残しておこうと記憶をたどりながら当時綴ったものです。


昨日よりの続きです。


ホームに降り立ったのは、三人だけだった。改札を抜け駅舎を見渡す。
驚いたことに何一つ変わっていない。待合室の木の長椅子も、駅前広場からの町並みも、まるでタイムスリップしたかの様に、ぼくを迎えてくれた。

「裏行って来るけー、見とって!」

売店のおばちゃんが、一人しかいない駅員さんに声を掛けながら、好奇なまなざしでぼくを見る。人口一万にも満たないこの町では町民でないことがすぐ解るのだろう。
感動でもない、寂しさでもない、懐かしいという言葉では言い表せない不思議な感覚が沸き上がってくる。一期一会、この時を一秒でも逃すまい。
今朝、父には「ちょっと寄ってから帰るから」って別れたが、ここに泊まろう、そう決めて駅を後にした。

駅前広場を右に曲がると三津商店街だ。何だか記憶より狭い道を辿る。
ここは、覚えたばかりの自転車で転んで車に引かれそうになったところだ。
ガードをくぐり海側へ出る。ここに映画館があったのに今はない。「ガメラ対ギャオス」・「巨人の星」など、上映されると町中の小学生が集まってきたかのようにすごい熱気だった。

小学校4年生までの十年間が、歩く毎に、角を曲がる毎にフラッシュバックしてくる。国道185号線の角に町に二軒しかない喫茶店の一軒「T」。ここは碁会所になっていて父の仲間が集まっているはずだ。父が「寄って行きなさい」と言っていたが、通り過ぎる。寄れば「突然どうしたん!懐かしいのう」と歓迎されるだろう。しかし、通り過ぎた。
さっきから、気になっていたがこの町には活気がない。商店街も閉ざされたシャッターが目立つし、一軒しかないパチンコ屋も人がいない。心を被っている今の気持ちを、あえて言葉にすれば(憂い)なのかもしれない。誰にも束縛されることなく、自分だけの意思で過ごしたい、普段の生活では味わえない孤独感を体験するのもいいだろう。
素泊まり四千円の、「吉田旅館」に荷物を置き、夕方まで散策を決めた。酒屋でチーカマと、サンドイッチ、缶ビール買い、まずは海へ向かう。さっきから、いや、駅を降りた時からだろう潮の香りが心地よい。路地いっぱいにチョークで絵が書いてある私道ともつかぬ道を抜けると、牡蠣割りの作業場にぶつかった。
長屋の中でおばさん達が作業している。
この先に防波堤が見えるがどうして行けばいいのだろう。

「今、ええ男通ったけー」

後ろからどっと笑い声がする。振りかえると窓からおばさん達の顔だけが出ている。目が合うとひゃーと奇声と共に引っ込む。

「こっち見とったよー、恥ずかしいけーのー」

恥ずかしいのはこっちの方だ。恐る恐る聞いてみる。

「あっちの防波堤の方に行きたいんですが・・」
「あんたええ男じゃけーここ通ってええよ」

またどっと笑い声。この町に活気がないと思っていたが、少しだけ安心する。
「どうもありがとう」
まだ、何か言っていたが本場の広島弁は理解出来なかった。
そう言えば、二十歳の時、十年ぶりに訪れた時もそんなことがあった。黄色いカバーのランドセル背負った男の子が、
「ワシ、一回いんでから行くけーのー」
と、大声張り上げていた。
「ぼく、一度お家帰ってから遊びに行くからさー」
東京の子だとこうだろう。小学校一年生が、菅原文太ばりの迫力だったのを思い出した。もしかしなくても、ぼくもそんな子だったんだろう。小五から東京のど真ん中、文京区に転校した時は、方言とイントネーションでよく笑われたものだ。

長く延びた防波堤の先端まで行くと、待ってましたとばかり缶ビールのタブを引き抜いた。

五臓六腑に染み渡るとはこのことだろう。本当だったら、広島駅でお好み焼きといっしょだったが、波のない寝そべった瀬戸内海を眺めながらのチーカマは、格別のご馳走である。
紅葉で彩られた低い山並みと秋晴れの空、上空では鳶が輪を書き鳴いている。コントラストが美しい。なんて良い所なんだろう、ここでぼくは育ったんだと改めて思う。子供達を連れて来たかった。
お父さんは、ここで生活してたんだよ!すごいだろう、って。


                                つづく
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広島県豊田郡安芸津町

2010年01月11日 | 回想録
GENKIさんからのトラックバックより
このブログを通じて、僕の故郷の方と出会いました。

8年前、福岡まで祖母のお葬式に出た後、育った広島の地を訪ねました。
計画を立てた旅ではく、思いもよらない時間の経過を残しておこうと、記憶をたどりながら綴ったものです。
今日は、
広島の事が書いてある第三章を、これから何回かに分けてご紹介したいと思います。

8年前の文面となりますが・・・

第三章

博多駅は、三連休の初日だからか混雑していた。安芸津までの乗車券を買った後おみやげ屋を見て回った。3日間、両親と過ごすと息子になってしまう。別に忘れてたわけじゃないが、改めて自分の家族を思った。中州の屋台も、ラーメンも味わえなかったせいか、明太子、長浜ラーメン、高菜漬け、何だか食べ物ばかりだ。せめて帰ってから味わうことにしよう。
現金な者で四日前、東京を発った時の動揺はなくすでに旅慣れた人になっている。動き始めた列車の中、ふと過った。雲ひとつない真っ青な空の下で、今おじいちゃんは何をしてるのだろう。今日一日をどう過ごすのだろう。昨日、孫の突然の訪問を思い出してくれているのだろうか。生きている間にもう一度会えるのだろうか、あの太い幹の様な暖かい手にもう一度触れることができるのだろうか。脳裏に昨日の真っ赤な夕日が蘇ってくる。今、博多を離れようとしている。走り過ぎる窓辺の景色、このスピードでおじいちゃんとの距離が遠のいていく。

広島に到着したのは十二時二十分だった。とりあえず呉線の乗り継ぎを見てお好み焼きにビールだな!そんなこと考えながら、両手の荷物を引きずって在来線の時刻を見た。
十二時三四分発があるが、昼食時間がない。ホームまで降り駅員さんに聞いてみる。
「安芸津までなんですが・・」
「このあとは、[広]までですから、安芸津まで行くのは一時間後ですね」
親切に教えてくれたが、間延びしたダイヤに愕然とする。京浜東北線と全然違うぞ!頭の中でお好み焼きから瀬戸内穴子弁当へと切り替えた。弁当屋を捜すがが、ホームには無さそうである。そのうち、いやなことに気がついた。止まってる車両は四人掛けではなくロングシートだ。参ったな、こうなったら立ち食いそばだ!瀬戸内穴子弁当も消えてしまった。
数人の広島弁中学生達が、往ったり来りする自分をいぶかしげに見ている。
おそばのいい匂いに誘われて暖簾をくぐりメニューを見る。桜えび天そばだ!これにしょう。

その時、無情にも発車のベルが鳴った…。

お好み焼きから瀬戸内穴子弁当、桜えび天そば、思考の切り替えは早かったのだが、ここでも郷土の食に縁がないらしい。未練は残るが仕方がないか。
のんびりとした在来線特有の横揺れが、心を和ませてくれる。見渡すと一車両に数人しか乗ってない。それもお婆さんが多い。過疎化が進んでいるのだろうか。いっしょに乗り込んだ中学生達の屈託のない笑い声が午後の日差しに溶け一層空気を暖かくしている。

「まるで温室列車だな」

ひとり言まで出てくる。なんて長閑なんだろう。源氏物語の枕詞にそんなのあったっけ(いと長閑に想ひなされて…)そんなことを考えていると、この一瞬一瞬、時間の流れがとても大切に思えてくる。
そうだ、何でもいいから記しておこう。スーツのポケットから手帳とペンを取り出した。なんだか久しぶりに手に取った感がする。現実から離れ自分だけが時空をさまよっている様に仕事の記録が19日から途切れている。
もしかしたら、ここからの旅は、おばあちゃんからのプレゼントかもしれない。
揺れる体に合わせて「むこうなだ向洋」・「海田市」・「矢野」と駅名を記し始めた。坂駅辺りから瀬戸内海が見え隠れし始めると次のみずしり水尻では駅前で釣りをしている。何という光景だろう。釣り好きの自分は腰が浮きそうになる。
天応駅では、手が届きそうなところに島が浮かんでいる、なんて言う島なんだ!帰ってから調べてみよう。
おとぎ話しに出てきそうな風景を目に刻んでおこうと、車窓にへばり付いている自分を、向かいに座っているおばさんが微笑しく見ていた。
呉を過ぎ二つ目の広駅では、なかなか発車しない。一時三十七分発とアナウンスがあるが、ここで十五分近く待つことになる。どうなってるんだ?単線なのは気づいてはいたが、東京圏と、ここでの生活は時間の感覚が随分違うのだろう。皆に従い荷物を置いたまま外へ出て、今日二本目のタバコに火を付けた。
なぜかこの駅舎全体が檜の香りがする。今まで海側ばかり気にしていたが、見ると紅葉に彩られた山が迫っている。言葉に表せないほど、素敵な景色だ。観光地でもないそんな素朴な情景がなぜか心に迫ってくる。
広駅を発つと「仁方」・「安浦」と記憶にある駅が出てきた。線路沿いに熟した柿の実が、鮮やかに輝いている。
着いたのは二時八分だった。

十四年ぶりの安芸津である。

                                  つづく
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箱根駅伝を観て

2010年01月03日 | 回想録
箱根駅伝。
毎年、人の心を熱くします。
東洋大学の柏原竜二君、プレッシャーをはねのけて、素晴らしい走りを見せてくれました。まだ2年生、来年も楽しみですね。

僕も、20年近くも前の事ですが、一時期市民ランナーで何度か走ったことがあります。
成人病を患った父が、運動不足解消で通い始めたスポーツクラブ。
外環自動車道の開通イベントでその仲間達と走る父の姿を見て感動しました。
「お父さん、すごかったよ!感動したよ」と素直に話すと、
「そうか、じゃあお前も走れ」と一言。

見て大声出して応援するのは良いけどさ・・・。
最近走ったことないし、歩いた方が楽だし。
そう返事がくるとは予想できませんでした。

半年後、父と戸田市民マラソン10㎞コースのスタート地点に立っていました。
ピストル音の後、しばらくは並走していましたが、
「先に行くぞっ!」の掛け声とともに、父の背中が小さくなっていきました。
多少は練習して臨んではみたものの、思った以上の苦しさにもう歩こうかなとも。
その間、周りの景色も沿道の応援も目に入らず、ひたすら安易に口車に乗った自分を責めました。
ところが、折り返しを過ぎた辺りからすーっと、身体が軽くなってきたのです。これってランナーズハイっていうのでしょう。脳内でベータエンドロフィンが湧き出てくると、7㎞辺り、先に走る父の背中を見つけると一気に追い抜きました。
ゴールを駆け抜けた時、成し遂げた感動が込み上げてきました。
スポーツを観て与えてもらったものではなく、自分自身で作り上げた感激を久しぶりに味わいました。

その後、何年か、
川口市民マラソン、立川記念公園駅伝、戸田市民マラソン、甲州市勝沼ぶどう郷マラソン大会と一緒に走りました。

「完走する事で良し」と二人で言い聞かせながらも、父は勝ち負けを意識していましたが・・・

その父も、今年76?
昨日、美味しい酒を酌み交わしました

長生きしてもらいたいものです
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謎の物体UFO

2009年12月08日 | 回想録
皆さんは、UFOを見た事ありますか?

もう15年以上前、釣りを始めた頃の出来事です。

その日、日付が変わる頃自宅を出発して、外房勝浦の松部漁港にて明け方から日暮れまで、
体力の続くかぎり釣りを楽しみました。
釣果の方は忘れてしまいましたが・・・帰り道のことです。

睡魔との戦いに敗れた僕は、確か国道16号の側道に車を止めて暫く仮眠を取りました。
どのくらい寝たのでしょうか。

近づく轟音に目が覚めたのです。
「ウイーン」「ゴゴーン」とてつもなく大きな音です。
まず、自分がどこにいて、なんで寝てるのかを思い出し、徐々に覚醒した脳みそで、その轟音の主を確かめました。

UFO初めてで凄いのを見ました。
映画ではなく現実なのです。上空に光輝く円形の物体が、
手が届くほどの高さに浮かんでゆっくり近づいてきました。
ハンドルを持つ手が震えました。本当に心臓か飛び出ると思いました。こんなに脈は速く打つのだと初めて知りました。
多分、脈拍200を超えていたのかも知れません。
「なんだあれは・・・どうしょう・・・」
当時は携帯電話など持ってないし、誰かに連絡するすべもありません。
ちょうど、その時信号が赤になったのか次々と車が停車しました。
僕はおもむろにと車外へ飛び出し、止った車の助手席のドアを叩きました。
僕の驚いた形相とドアの叩く強さに、運転手の方も、もっと驚いた顔をされて
「どうしたんですか!!!!」と叫んできます。
僕も、もっと大きな声を出して
「アレを見てください!!!!!!」と叫び返し指差したのです。
すると、運転手は、
「うんうん」とうなずくだけで、
僕の顔を見て怯えるような表情で信号が変わるのと同時に発進してしまいました。
動き始めた後続の車にもその物体に指差しゼスチャーしました。
次の車も僕を避けるように走り去っていきました。

みんな逃げてるんだ!
僕も逃げよう!!!!

すぐ車に乗り込もうとしたときです。
その物体がゆっくり形状を変え始めたのです。
・・・・
ゆっくりと・・・・・
すると、

「写 る ん で す」「FUJI COLOR」と見えてきました。

なかなか理解できませんでした。
そしてしばらくして、旋回し終り横向きとなると、見慣れた「飛行船」である事に気が付いたのでした。

あのね、「飛行船」真正面から見た事ありますか?
円形のUFOに見えます。

本当に驚きました。
あの時の運転手さん驚かせてごめんなさい。

コメント (2)
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ボージョレー・ヌーボー解禁日の出来事

2009年11月20日 | 回想録
昨日は、ボージョレー・ヌーボーの解禁日。

それでは、僕のボージョレー・ヌーボーの解禁日にまつわるエピソードをお話しましょうか。

昨年の事です。

その日、定時で上がった僕は、珍しく赤ちょうちんにも寄らず真っ直ぐお家に帰りました。
家では、ちょうど夕食の支度中!
冷蔵庫を開けた僕は、ビールが切れている事に気が付きました。
お陰さまで、歩いてすぐのところに「酒のディスカウントショップ」があるので、調達に出掛けたのです。
すると、お店の前では、売り子さんが「ボージョレー・ヌーボーの解禁日」と手書きのPOPをそばに道行く人たちに声がけをされていました。
あ~今日は解禁日なのねっ・・とその時初めて気が付いたのです。
ビールも買うけどさ・・・
ボージョレーさんも呼んでます・・・

さて、どうしたことか・・・

でもね、2980円・・・
珍しく赤ちょうちんに寄らなかったのではなくて、給料日前で財布の底が見えてきたからなのでしょうよ。その事も改めて気が付きました。
一晩で空けちゃう3000円の酒は高い。
今の僕には、一晩で空けちゃう178円の「その他の雑酒」なのです。

後ろ髪を引かれる思いで通り過ぎ店の奥へ。

ところが一度浮かんだ「ワイン」の文字が頭からなかなか消え去りません。
ようしボージョレー・ヌーボーの解禁日だろうけんど、その日に別のワイン飲んだって良いわけだしね。
1000円以下のチリワインを買って帰ろうとワインコーナーへ向かいます。
ところが、そのコーナーの一角に「ボージョレー・ヌーボー1000円!」と、これも手書きのPOP見つけたのです。
なあんだ、格安もあるのね!
迷わず1本抜き取り喜び勇んでレジへと向かいました。
お家に帰ると、ナイスタイミングで夕食が待っていました。
妻に「1000円でボージョレー・ヌーボー売っててさ~買ってきちゃったよ」と
言いながら、コルク抜きを台所へ取りにいきました。

すると、妻の独り言
「今年何年だっけ」
「えーっと何年だっけ?」と僕
「何かさ2007年って書いてあるよ

昨年、ボージョレー・ヌーボーの解禁日に
一年前のボージョレー・ヌーボーを飲んだ僕なのでした。

ま~ま~美味しかったよ!!

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ライブハウス FI5VE(ファイブ) 

2009年11月18日 | 回想録
昨年、22年振りに人前でギターを演奏して歌いました。会社の帰り道にあるこのライブハウス FI5VE(ファイブ) 
実は、このお店の隣にある「おとみ」という焼き鳥屋さんの方が引力強いんだけどね。

昨年5月友達が亡くなり、重い気持ちで梅雨を迎えた頃。
このもやもやした気持ちから抜け出し、止まってしまった心を動かしたい。そんな思いに駆られこの店のマスターに相談したのがきっかけでした。
「思ってるだけじゃ駄目だよ」
「やってごらんなさいよ」と背中を押され、10ミニッツパフオーマンスというライブに参加する決心をしました。
僕の先輩、このブログでもいろいろアドバイスしてくださる「ファイブで飲もう」さんとデュオで挑戦することになりました。

若い頃の音楽活動では、年に一回、市民会館貸切りで2時間半近くのコンサートを催行したり、それなりに固定ファンもいたのですよ。
「ファイブで飲もう」さんは元々そのバンドのキーボードの方。
その時の貴重な絵見てみますか~
1983年の埼玉県蕨市民会館です。




立ち位置左です。若い・・・格好いいっす!ナルシストになってる

さあて、3週間しかありませんでした。
やっとまともに音が出始め、左指が水ぶくれで悲鳴を上げ始めた頃、当日を迎えました。
それも個人練習ばかりで、合わせたのは3回だけ。でもね昔取った杵柄なのでしょうか。
当日朝、合わせの練習では、なかなか行けるかもよっ、ってお互いに自信めいたものが芽生えてきたのです。

ところが、お店に到着したその瞬間、その出鼻はくじかれました。
自信めいた浮かれた気持ちが、萎んで行くのが分かります。帰ろうかと思いました。
どこから見ても現役ミュージシャンが店前でドン座って練習してたり、店内では、「この人たちプロ?」っていう腕前でエフェクターをいじったりしています。
正直、みんな怖そうでした。

僕たちはね、普段はネクタイ付けてる平凡なサラリーマンなのよ。
普段着でも場違いなおじさんだす。何しに来たの?っていう視線で穴が空きそうでした。
怖気ずいた二人は暗黙の了解で「とんずらしようか・・・・」と見つめ合いました。


「ちびる」という言葉は適切ではありませんが、まさにそんな心境です。
仕事で一億円のプレゼンする方がまだまし、リハでは、足が震えるし、声も全部ビブラートかかるし、練習の倍の速さで演奏するし。
歳を取って、今さらこんなな経験したくありません。

ところがです。本番を迎え、それではよろしくお願いしますと
マイクをもらった時点で、震えが止まりました。
マイクから、自分の声が通った時から、二十数年前のかすかな記憶がよみがえり、平常心で演奏することが出来たのです。
みんなの温かな拍手と、マスターの「良かったよ!」の一言で達成感がみなぎりました。
そのあとの、が美味しかった事

足かせを取り外し何かにチャレンジするところまでの重さ、それを乗り越えた時の充実感。
思えば大したことした訳じゃないんだけど、久しぶりにエネルギーの源となりました。

その後、10分×11バンド約2時間、皆さんの演奏を聴きました。
恐そうだったお兄さんも、冷たそうに見えたお姉さんも、みんな素敵な若者達。
僕達を温かく迎え入れてくださいました。
終わった後、みんなとしたたかに飲みました。
誰かの演奏でだみ声上げて合唱したのは何十年振りだっただろうか。
その後、秋にかけて、僕だけソロで3回出演させていただきました。
後から聞くとマスターは、国生さゆりさん「バレンタインキッス」の作曲者「瀬井広明」さんなのです。


北川友紀さんの素敵な歌声。菊池陽太さんのギターテクニックと優しそうな人柄に助けて頂きました。
そして、草野仁君はデビューされたとか!

その節は、ありがとう。
皆さんの活躍を陰ながら応援します
そしてまたいつか同じ空気を吸えるように、僕もギターを磨きます。

あっ「腕」か・・・・

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