82歳からの旅

私の記録

秋の関門海峡クルーズに参加して考えた事 その1の続き

2013年10月24日 07時33分14秒 | 随筆
         10月24日 金曜日  
 
 前日は本題からそれていましたが御免なさい。

 私の家は普通木造モルタルの建物で、質素な暮らしでした。子供達にも欲しがる物はそう買って上げませんでした。然し子供の希望や能力に応じて、学業だけはさせてやりました。

 一方、私が豪邸を建て優雅な暮らしをし、子供達にも欲しい物を買い与えて上げ喜び楽しい生活をしたとする。ところが 私の亡き後残した遺産の中に、多額の負債がある事が解った時に・・・・・・。

 其の豪邸や多額の借金等の遺産を残した父や母を、子供や孫はどんなに思うでしょうか?果たして喜ぶでしょうか?。否

 今の日本の政治は景気を良くすると言って、大都市に大きな豪華な建築などをどんどん作っています。その為に地方の暮らしは、益々不便になり悪く成って行くばかりです。

 それなのに国は多額の借金をかかえ、それを子供や孫達に残しているのです。

 こんな事で日本の未来は展望出来るのでしょうか、子供や孫達に日本の未来を自慢できますか?。


 次に「秋の関門海峡クルージング」はとても良い催しでした。然しこんな良い催しを、北九州市の教育委員会にして欲しかったのです。そうして郷土の歴史や文化などについて、参加した子供達にわかりやすく解説して欲しかったのです。

 それが無理ならば社会教育課等から、専門の解説者を派遣しても出来ると思いました。又北九州市の社会教育の一環として、郷土の文化や歴史などの啓発のプログラムを作り実施して欲しいのです。そうすればそれに参加した大人も・子供も、北九州市を自慢できる事が増していくのではないでしょうか?。

 秋の海峡クルージングを民間業者にさせて、「中身の解説は北九州市から派遣させて」民官一体となって行う。 そうして郷土の歴史や文化等の啓発に、もっと力を入れて欲しいのです。
 
 それによって、自分たちの住む郷土に、良い理解が具体的に出来ると思います。又自分たちの住む、郷土を愛する心も育つのではないでしょうか?。 

            
 
 門司に住む子供達に、郷土を楽しく解かりやす知らせる事によって「自分たちの町を愛する心が育つ」のです。郷土を自慢することの出来る、子供を楽しみ乍ら育てる催しには大賛成です。

 子供の参加は増えること、間違いないと思います。このようにして育てられた子供達が、大人になって門司・北九州市は文化の薫る町へと変わっていくのです。
 
 こんな催しのある町は、大人のとっても・子供にとっても、住みたくなる町です。北九州市の市長さん、どうぞ宜しくお願いいたします。
            

秋の関門クルージングに参加して考えた事

2013年10月22日 12時47分46秒 | 随筆
        10月22日 火曜日   
 秋の関門海峡クルージングに参加して、先ず驚いた事は参加者の多かったことです。何と言っても、参加者に子供の多い事でした。
 
 この頃人の集まる処ではテレビで見ても、街角で見ても老人の多いことです。バスに乗っても、観劇に行っても同じです。

 今のこの老人の多い社会の中で、子供達が生きている事です。人間社会の構成は、老人を支えられる成人達と、子供がバランス良く組み合わさって社会が成り立つ様に少しでも近づける努力をすることです。

 元気の良い「大きな夢と希望に満ちあふれた」子供達、この子供達に「すばらしい夢や希望の持てる未来を」残してあげる事!!!!

 今の社会は老人が多くてその為に、成人や子供達に多くの借金を残す社会、これがいいはずはありません。一刻も早くこのことを、改善すべきです。これに背を向ける人は、人間の心を持ってない人間の顔をした悪魔だと言いたいのです。こんな社会の儘で、子供達に引き継ぐ事は出来ません・・・・・・・・・ 
 
 別の面では 子供が乱暴や悪戯をしていたら、社会経験の豊かなお年寄りが優しくたしなめてやる。老人が困っていたら、元気な成人が助けてあげる。その様子を子供が見て学ぶ、そんな社会が望ましいのです。教育が気づかない自然のうちに、当たり前になされていくのです。

 人間の生活の基本は家庭にあり、次に家庭を取り巻く地域社会があるのです。その周りに町や市があって・・・・・・・・・その中で生活しているのです。

 それが核家族や単身赴任等で、家庭が崩壊しているのです。そのような社会構造を、改める事も大切です。

 三世代同居の家庭では家庭の中に、世代の違いによって多くの矛盾があります。が家庭の根本は、家庭が憩いの場である事です。働いてお金を稼ぐ人、その人のおかげで一家の生活が出来るのです。働く人に感謝の気持ちを持ち、満たされない事にはお互いに理解して耐えて生きて行く事が大切です。

 多くの矛盾を孕む家庭の中で、それぞれが我慢をして耐えていく心をしっかりと育てる事が大切です。
世の中が進歩して便利になったために、今迄培ってきた大切なものを多く失ってきているのです。

 三世代同居の矛盾の中で、お互いが理解し・我慢して耐えて生きていくのです。この事に早く気づいて欲しいのです。                        
 
 世の中の変化は逆戻しは出来ない、ではそれをどうするかを見つけない処にも、今の社会の問題があるのです。
 
   ・・・・・・・・・ 未完・・・・・・           
      

痴呆の弟の分迄生きる事が、弟の介護にと?!!

2013年10月21日 20時45分31秒 | 随筆
        10月21日 月曜日   
 私の弟が痴呆になり、施設に入所して早2年も過ぎた。その間兄の私が不慣れながら、保護者になってその世話をしている。
 

 何分にも80歳を過ぎて、腰椎で十分な世話も出来ません。然し何とか頑張って、弟の世話をしています。弟をグループホームにうつして、そちらに任せていますが「衣服の補充や健康の異変など」もあります。連絡のたびに其の対応は、しないわけにはいきません。
 

 自分の事でも家では、妻の世話になっているのが現状です。そこで割り切って、「弟の分まで私が幸せに生きる。」そのように考えて生きる努力をする。その間に弟の、保護者としての勤めを何とかする。


 私はグループホームを、訪問するたびに弟に「何か欲しいものはないかね?好きな食べ物はないかね?。」
「困ったことはないかね?等々。」尋ねますが

 そのたびに、「別に無いよ。」と言いますそれが不憫でたまりません。それでどうしても「私が弟の分まで幸せにいきたいのです。」神様許してくださいね、お願い致します。
 

 弟の世話は十分には出来ませんが、「たった一回きりの人生・そして弟との出会い。」出来る限りの面倒を見て悔いのない今生を力一杯生きたいと思う。 至らぬ兄を御免なさい・痴呆でなにも解らない私の大切な弟よ     /font>
      
            

秋の関門海峡クルージングに参加して

2013年10月20日 07時07分17秒 | 日記
         10月20日 日曜日   
 今日秋の関門の海峡クルージングノツアーに参加する.妻とその友達夫婦である。目的は生活に変化と、潤いを と思っています。

 昼食はにぎりめしと思ったが、船中のバイキングにしました。

 門司の大洋へりーに乗って北九州空港~万寿・干寿(源平合戦で源 義経が軍船船を集めたと言われる?)~ 関門橋側側のみもすそ川の沖合(安徳天皇は祖母の二位尼の抱かれて入水)

 ・巌流島(宮本武蔵と佐々木小四郎の決闘した小さな島)側に小さな小川のような海峡を挟んである彦島の弟子町周辺(その昔遣唐使や遣隋使を弟子達が本州最後の地で送迎した処からその地名がついた)を巡って帰る半日の遊覧です。

 80歳前後の老人の、のどかな一日をと思って参加します。その昔であれば田んぼのあぜ道で、仕事帰りに腰を下ろし、色々と長談義をしたと思っての一日になればと思っています。

 ああ-・ああ- 年を重ねた 多くの 知恵を 何処に 直そうかなあ・・・・・・直すもののない 老いぼれのつぶやき  若い人達に伝え残す為に 一つでも良い font>

心に栄養を

2013年10月19日 20時36分18秒 | 随筆
             10月19日 土曜日   
 昭和20年頃の、第二次世界大戦後の中学生の時代は野球少年でした。世の中は殺伐としていて、小倉の繁華街には闇市がありました。そこに行けばほしいものは何でも売っていました。
 
 その当時戦争後の中学校に、夏の甲子園野球が復活しました。その頃の娯楽と言えば、野球のほかには、映画を見ること位でした。又映画を見るのは月に一回位でした。
 
 世の中全体が貧しく、田舎で中学校へも行く人はごくわずかでした。8キロばかり離れたところにある、中学校には、自宅から歩いて通っていました。自転車が買えないし、有ってもタイヤがない「タイやにするごむがなかった」そんな時代でした。
 
 中学・高校生時代の私は、50戸ばかりの集落の子供を集めて、野球のチームを作りました。小学生4年生から高校生までのチームでした。学校帰りには村の小学校のグランドで、毎日の様に遅くまで練習をしました。

 土曜日や日曜日には、近くの村のチームと試合をするのが楽しみでした。又スポーツ店が企画して、3~4カ村のチームに呼びかけて、大会をしていました。

 農繁期の忙しい時に、大会があるときは父母には野球のことは知らせずに、子供たちに集合時間に・集まる場所を申し合わせて、こっそりと出て行きました。

 今考えると選手になった子の家には、大変迷惑を掛けていました。良く何も言わずに、出してくれた事と思います。良く幼い子供を集めて遊んだ子供時代でした。

 よく遊び~良く遊んだ子供時代でした.毎日が身も心も満たされて、疲れていたと思います。心と体はさぞかし強く逞しく育った事と思います。

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