(散歩中に見かけたキジの♂:記事の内容とは関係ありません)
今日は、2020年4月19日付東京新聞朝刊の「時代を読む」欄に掲載され内山 節(たかし)氏(哲学者)のコラムを紹介します。
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「他者に思いを寄せながら」
20世紀後半に入ると、私たちの世界は自然と共生、共存することの重要性を学ぶようになった。自然を克服することによって文明が生まれたという、それまでの欧米的観念が崩れ、自然と共存してこそ、われわれの文明社会も持続するのだという共通認識を、人間たちはもちはじめたのである。
人間は自然の許容力の範囲内で生きなければいけない。この思いが新しい世界の流れをつくりだしていった。
だがその自然はときに大きな災害ももたらす。地震や豪雨といったことばかりではなく、ウイルスもまたそのひとつである。そしてそういう問題が発生すると、私たちの社会はたちまち「不都合な自然」におびえ、それと対決しようとする。
現在でも、「コロナウイルスとの戦い」が叫ばれ、この「戦争」に勝利するために、国民は一致団結しようというようなメッセージが発せられつづけている。そして各国の政治家たちは、あたかもこの「戦争」の先頭に立つ最高司令官だとでもいうように、強い指導者を演出し、どこの国でも統制された社会がつくられていく。新型コロナウイルスの気味の悪さだけではなく、このウイルスとともに展開する現在の世界のあり方も、また気味が悪い。
もちろん感染の拡大をとめる努力は必要だ。そうしなければウイルスと共存できないほどに被害が拡大してしまう。だが、それでもなお考え方としては、ウイルスもまた生き物であり、ときに有害な働きをするが、ある種のウイルスは人間の生命世界を支える役割もはたす、という視線はもっていなければならないだろう。自然の生き物であるのなら、私たちの課題はウイルスと「戦争」をすることではなく、ウイルスと共存する方法をみつけだすことのはずなのである。
そう考えてみると、感染した人を隔離するという言い方も見直してよい。そうではなく、感染した人たちが療養できる社会をつくる、ということだろう。安心して療養するためには、人にうつさない療養施設も必要だし、もちろん医療的な支援も必要だ。だがそれだけではなく、長期にわたって仕事ができなくなっても、みんなが支えてくれる労働社会や、残された家族や子どもたちを守ってくれるコミュニティーがなければ、安心して療養することもできないだろう。
自然と共存、共生する社会をつくるということのなかには、不都合な自然との共存もふくまれるのである。この不都合な自然とは、どうしたら共存できるのか。その方法をみつけだすのが人間たちの知恵である。
もちろんこの不都合な自然を野放しにしておいたのでは、この社会は共存できないほどに破壊されてしまう。だから感染拡大を防ぐ努力も必要だし、治療する方法をみつけだす努力も大事だ。だがそれだけではなく、すべての人々が他者に思いを寄せながら行動を制御し、ときに安心して療養し、そしてそれぞれの営みを支え合う。そういう社会ができていかなければ、私たちはウイルスの感染拡大を前にして、共存どころか、追い詰められるばかりである。
自然との共生が、私たちの社会のあり方を見直す言葉であるように、コロナウイルスと共存する他なくなった現実もまた、この社会のあり方を問うている。
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(※段落のブロック分けと文章の太字化は、ブログ管理人によります。また、読みやすいように、漢数字を算用数字に置き換えています。)
因みに、ルポライターの鎌田 慧(さとし)氏は、4月21日付東京新聞朝刊の「本音のコラム」欄で、「今回のパンデミックは、物質主義への逆襲だったかもしれない」と言っています。
最近目にした土師野(はしの) 幸徳氏(「日本ドットコム」編集部エディター)の文書「“コロリ ” 対策も『手洗い』『換気』が重要だった:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法」で、江戸後期から明治期にコレラが大流行したときに奨励された対策について触れられています。「幕末・明治前期の人々は風聞に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をして、感染の流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかった」と。
これだけ文明も医療も発達した現代においてでさえ、新型コロナ対策として個人ができることは、江戸時代や明治時代とさほど変わらないということですよね。なんとも皮肉な話です。これは、"自然への畏敬に基づく謙虚な人間活動"を心がけよという、自然からの警告のように思えてなりません。