(↑ 記事内容とは関係ありません)
遂に、昨日、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づいて緊急事態宣言が発令されました。
これについて、今日2020年4月8日付東京新聞朝刊3面に、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授 山田健太氏のコラム「強い『副作用』認識したい」が掲載されました。私が漠然と考えていたことをうまく代弁してくれているので、紹介します:https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202004/CK2020040802000147.html
ここにも貼りつけます:
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新型インフルエンザ等対策特別措置法(コロナ特措法)に基づく緊急事態宣言が発動された。
いまはだれもが感染の終息を願い、日常の犠牲をやむを得ないと感じている。しかし規制の対象となる、外出は移動の自由、イベントは集会の自由、学校は学問の自由、図書館・博物館は表現の自由など、どれも私たち自身を成長させ、社会を豊かにするための基盤だったものばかりである。
今回の宣言は、東日本大震災の東京電力福島第一原発事故の時に発令された、原子力災害対策特別措置法に基づく緊急事態宣言に次ぐものだ。同宣言はいまでも継続中で、警戒区域指定と相まって、立ち入り規制が実行されている。福島の特定地区では今でも、道を歩いているだけで警察から声掛けされ、身分証の提示を求められる。
一方で違うこともある。原子力特措法では条件がそろうと自動的に宣言が発動されるのに対しコロナ特措法は、目の前の感染爆発・医療崩壊を抑えるためとする専門家の意見、さらに世論の大方の賛成の声をバックにした「政治判断」だ。社会全体が、権限集中と私権制限による「国難」突破を望んだ構図である。
すでに東京は、学校が休みになり、イベントがなくなり、物流が部分的に途絶え、閑散とした風景が街中に広がっている。それが「法に基づいた要請・指示」によって、さらに強まることになる。感染症法など他の法律との組み合わせで、実質的な禁止措置が取られる催事や商売も少なくなかろう。
しかも法規定が抽象的で曖昧なため、政府や自治体の判断の幅が広く、恣意(しい)的な法運用が可能だ。こうした「曖昧で強力な権限」を有する宣言は劇薬だからこそ、使う側は決定の理由と経緯を包み隠さず記録し説明し、透明性と公正な手続きを担保する義務がある。国は、憲法上の権利や自由を「一時的に預かった」だけであることを自覚することが条件だ。
同時に、解除後の「規制慣れ」も豊かな社会の維持にとって大きな障害だ。少しくらい個人の自由がなくても、社会の平穏や安全が保たれるならいいではないか、という気持ちの一般化である。それは、平時における自由の制限を受け入れやすい素地をつくることになる。
この曖昧さは、報道機関にも深い影を落としている。NHKは番組の差し替えを指示されるという解釈の余地が残ったままだからだ。放送機材や人員の政府への提供も、要請されれば断る選択肢はなかろう。そうした運用は「できない・しない」ことを、きちんと明らかにすることが必要だ。不透明なままでは、報道全体に大きな影響を与えかねない。
私たち自身、戦後七十五年にわたって大切に守ってきた、憲法上の自由や権利をいったん手放すことになる。しかしこれは、極めて例外的で危険をはらむ措置であって、「副作用」が強いことを認識しておきたい。しばらくしてから、こんなはずではなかったと言っても、後戻りはできないことがたくさんある。
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(※文中の太字化はブログ管理人によります。)
同朝刊の別記事によると、国民の8割がこの宣言を受け入れているという世論調査結果もあるほど、国民はこれを待っていたり受け入れたりしている由…。まさに、山田氏が言うところの「『曖昧で強力な権限』を有する宣言」=「劇薬」を国民が望み、「社会全体が、権限集中と私権制限による『国難』突破を望んだ構図」と言っている状態です。私は、コロナよりこの国民の状態と、山田氏が言うところのこの措置の「副作用」の方がよほど怖いと思います。
国民が受け入れている理由を、同朝刊の「こちら特報部」欄で、駒沢大学教授の山崎 望氏がこう分析しています。「本当は休みたいのに、感染の恐怖を抱えながら、朝の満員電車で通勤している人たちがいる。宣言で自らを縛ってほしいと願うのは、一見おかしいように思えるが、不安から逃れたいあまり、状況を変えてくれる絶対的な力を求めている。」 また、京都大学准教授の藤原辰史氏は、「危機による思考放棄と同時に、強いリーダーシップを求める意識が働いたのではないか」と読み解いています。さらに、東海大学教授の永山茂樹氏は、「今回の宣言の上には憲法があり、国会は人権を保障する憲法に照らして監視できるが、それでも独断的な政権の下では危うい。まして憲法に緊急事態条項が盛り込まれたら、憲法の重しはなくなり、時の内閣に全権が委ねられる。非常時の今こそ混乱の中で人権が不当に侵されることがないか、主権者も政権を監視していく必要がある」と警戒しています。
新型コロナに対して、「戦う」とか「打ち負かす」とかいう言葉をよく聞きますが、がん・インフル各種・ノロウィルス・結核などの他の病原体と同様に、完全に打ち負かすことはなかなかできない、共存していくしかないと私は考えます。長い目で見て共存方法を考えていかなければいけないと思うのに、長期的な展望が今の為政者たちの政策には見えにくい…。
一律布マスク2枚配布とか、一律何万円給付/何百万円補償とかと、国民の立場に立っているとは到底思えないような場当たり的な補償しかせず…わかりにくいカタカナ語をやたらに連発して国民を惑わせ…コロナを格好の敵と見立てて国民の目を専ら向けさせ、コロナと「戦う」「打ち負かす」と威勢のよい言葉で国民を鼓舞する一方、「瀬戸際」「重大な局面」「ギリギリの局面」だのと声高に叫んで国民の恐怖と不安を煽った挙句、長期的に家にこもることのデメリットを説かずして、国会を経ずに閣議決定したコロナ特措法に基づく緊急事態宣言を出す……
こんな乱暴な対策やそれしかできない/しない政権を、私は素直には受け入れがたいです。もちろん、今までどおり、感染しない&感染させないために「3つの密」を避けながら、近場で動いて免疫力を維持していくつもりですが…。
さらに、AB(ドイツ語読みしてね)さんは、今回の宣言でも防止が不充分な場合は、さらなる法整備を視野に入れていると表明しましたよね。まさに、権力への権限集中と国民の私権制限が強化される状態…コロナがABさんに追い風を送っている形…私はこの方がよほどコロナより怖いです。
さらにさらに、国民の間に「こういう事態だから、さらなる法整備もしかたない」「政権の暴走にも、今はひとまず目をつぶってやろう」という空気が漂い始めたことは、もっともっと怖いです。国民までもがABさんに追い風を送り始めているのです。
このままいくと、政権が目論む、"権力者に有利な憲法改正"(緊急事態条項も盛り込まれます)実現の日も遠くないかもしれないと、背筋が凍るようです。
話が飛びますが、家にこもり、社会活動をしていないと、視野が狭くなり、気づけなくなることが沢山ありますよね。最近の私の一例を挙げますと…
一昨日、羽村のチューリップ畑(トップ画像 ↑)を訪れましたが、横田基地のすぐそばなので、畑で撮影している1時間半の間ずっと、米軍の訓練機が上空を低空旋回していました。また、帰途の車中では、爆音とともに低空飛行するオスプレイも見ました。戦後75年も経つのに、いまだに国土の上空をアメリカに支配されている日本…この事実を再認識したのです。さらには、横田にいるのは米軍だと認識している人がほとんどだと思いますし、実質は米軍ですが、あれは国連軍なのだという事実も、改めて思い起こしました。
たとえ短い時間だったにせよ、羽村で過ごしていなかったら、私はこの事実を肌で感じることなく、改めて思い至ることもできなかったかもしれません。家にこもるということは、こういう社会的気づきや思考が奪われやすい、ということでもあると思うのです。
さらに、長期間家にこもり、国民同士のつながりが分断される状態は、さまざまな社会的連帯も阻まれるということで、権力者にとっては好都合です。SNSを活用すればよいとか為政者は言っていますが…。また、人間は人間関係の中で自己を客観視し、社会活動の中で自己を成長させていく生き物なので、その場を長期的に奪われることは、思考回路が歪むことにつながると思います。
目先の恐怖と不安回避にとらわれる余り、大事なことを見逃さないようにしたいものです。
ものすごーく冗長になり、申し訳ありません&最後までお読みくださり、誠に誠にありがとうございました
因みに、こんな愉快な画像があるのをご存知ですか?
ライター&イラストレーターの北村ヂン氏作
威圧的に声高に「外出自粛してください。国民の命と健康を守るためです」と言われても、「は~い、わかりました~」と素直には言えない天邪鬼&そのうち、こういう少数派は非国民扱いされ始めるのかも?のtakuetsu@管理人でした(^^;