「道の学問・心の学問」第七十回(令和3年9月14日)
石田梅岩に学ぶ⑪
「文字は天地開闢よりいはば、数億萬歳の後に作り初(はじめ)しものなり。これを以て天の為作(なしなす)無量の物に合(あわ)すとも、萬分の一にも不足(たらず)、此理を知るべし。」
(『都鄙問答』巻之二)
儒学者である梅岩が、神道、仏教、老荘等、当時の学問を横断して真理を説く事が出来たのは、梅岩が「文字に泥(なず)」む事無く、常に文字の奥にある「真理」を求めんとしたからである。
「理」(条理・法則)と「命」(天命・天の働き)は違うのではないかと、疑問を投げかける者に梅岩は次の様に諭す。
「君がその様に言うのは、枝葉にかかずらい文字に拘泥して、根本を見失っているからなのだ。」「天地があって物が生じ、物が生じて後に名前をつけた。名前を決めて後に文字を以て名前を記したのである。未だ名前も付けず文字など無い前から天道はあった。天道と言っても人が付けた名前である。私の言う事を、言葉に執着せず、それを離れて聞きなさい。既に聖人(孔子)は仁を根本とし、老子は大道を以て仁の本とした。道と仁と名前は二つある。文字によってどちらが本だと論議が分かれるべきであろうか。そうではない。声も無く、臭いも無くて万物の根源と成る物を暫く名付けて、乾とも天とも道とも理とも命とも性とも仁とも言う。これら全ては一つの物なのだ。」
「文字を離れて良く見なさい。理と命は二つあるようだが本当は一つである事を知らねばならない。譬えて言うならば、川と淵の様なものである。流れる所では川と言い、溜まる所では淵と言う。理は淵の様で、命は川の様なものである。動静の違いがあっても本は一つなのだ。」「文字は天地宇宙の始まりから言えば、数億万年の後に作り始めたものである。それをして天が生みなす無量の物に合わせても、万分の一にも及ばないではないか。その理(ことわり)を知らねばならない。文字に泥むのは糟粕(残りかす)を味わうのと同じである。色々理屈を作っても、文字などで全てを言い尽す事など出来ようはずがない。」
儒学では、ここに梅岩が示す様に、宇宙の真理や根源を様々な言葉で表現している。「乾」「天」「道」「理」「命」「性」等の言葉を使って、宇宙の真理の諸相を言い表している。梅岩が言うのは、それらの言葉の違いを穿鑿するのではなく、それらの言葉で言い表された物事の本源を掴むのが「真の学問」であり、その本源を自らに体現する事、自らの生き方に体現すべく努力する事、その日々の営為こそが大切だと教えているのである。
現代風に言えば、「文字に拘泥して理屈ばかり言う前に、自らの生き方を反省せよ!」との警告なのである。文字が生まれる数億年前から天地宇宙は存在し、その姿を今尚我々の前に表している。私が学んだ済々黌の黌歌の中に「天地万象皆我が師」という一節があるが、正に天地万象の中に示されている宇宙の真理こそが、小宇宙である人間にとっても最も大切な真理なのである。
梅岩より約百年後に生まれた二宮尊徳の歌「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ」に通じて行く訓えである。
石田梅岩に学ぶ⑪
「文字は天地開闢よりいはば、数億萬歳の後に作り初(はじめ)しものなり。これを以て天の為作(なしなす)無量の物に合(あわ)すとも、萬分の一にも不足(たらず)、此理を知るべし。」
(『都鄙問答』巻之二)
儒学者である梅岩が、神道、仏教、老荘等、当時の学問を横断して真理を説く事が出来たのは、梅岩が「文字に泥(なず)」む事無く、常に文字の奥にある「真理」を求めんとしたからである。
「理」(条理・法則)と「命」(天命・天の働き)は違うのではないかと、疑問を投げかける者に梅岩は次の様に諭す。
「君がその様に言うのは、枝葉にかかずらい文字に拘泥して、根本を見失っているからなのだ。」「天地があって物が生じ、物が生じて後に名前をつけた。名前を決めて後に文字を以て名前を記したのである。未だ名前も付けず文字など無い前から天道はあった。天道と言っても人が付けた名前である。私の言う事を、言葉に執着せず、それを離れて聞きなさい。既に聖人(孔子)は仁を根本とし、老子は大道を以て仁の本とした。道と仁と名前は二つある。文字によってどちらが本だと論議が分かれるべきであろうか。そうではない。声も無く、臭いも無くて万物の根源と成る物を暫く名付けて、乾とも天とも道とも理とも命とも性とも仁とも言う。これら全ては一つの物なのだ。」
「文字を離れて良く見なさい。理と命は二つあるようだが本当は一つである事を知らねばならない。譬えて言うならば、川と淵の様なものである。流れる所では川と言い、溜まる所では淵と言う。理は淵の様で、命は川の様なものである。動静の違いがあっても本は一つなのだ。」「文字は天地宇宙の始まりから言えば、数億万年の後に作り始めたものである。それをして天が生みなす無量の物に合わせても、万分の一にも及ばないではないか。その理(ことわり)を知らねばならない。文字に泥むのは糟粕(残りかす)を味わうのと同じである。色々理屈を作っても、文字などで全てを言い尽す事など出来ようはずがない。」
儒学では、ここに梅岩が示す様に、宇宙の真理や根源を様々な言葉で表現している。「乾」「天」「道」「理」「命」「性」等の言葉を使って、宇宙の真理の諸相を言い表している。梅岩が言うのは、それらの言葉の違いを穿鑿するのではなく、それらの言葉で言い表された物事の本源を掴むのが「真の学問」であり、その本源を自らに体現する事、自らの生き方に体現すべく努力する事、その日々の営為こそが大切だと教えているのである。
現代風に言えば、「文字に拘泥して理屈ばかり言う前に、自らの生き方を反省せよ!」との警告なのである。文字が生まれる数億年前から天地宇宙は存在し、その姿を今尚我々の前に表している。私が学んだ済々黌の黌歌の中に「天地万象皆我が師」という一節があるが、正に天地万象の中に示されている宇宙の真理こそが、小宇宙である人間にとっても最も大切な真理なのである。
梅岩より約百年後に生まれた二宮尊徳の歌「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ」に通じて行く訓えである。
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