「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

歌道なき人は、無下に賤き事なり。学ぶべし。

2020-06-02 14:29:46 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第二回

歌道なき人は、無下に賤き事なり。学ぶべし。常の出言に慎み有べし。一言にても人の胸中しらるゝ者也。    (「早雲寺殿廿一箇條」(『武士道全書』第一巻)

 「歌道」とは和歌を詠む事である。戦国武将は実に多くの和歌や漢詩を詠じている。私の手元に『武人万葉集』(東京堂出版)があるが、戦国時代の項には、様々な武将の数多くの和歌が掲載されている。その中に、寛永五年、後水尾上皇が当代の歌人の中から三十六歌仙を選定され、太田道灌、伊達政宗、細川幽斎、毛利元就、北条氏政を始め十三人の武人が選ばれた事を紹介している。又「戦国の群雄五十人一首」と題して様々な戦国武将の歌が紹介されてある。北条早雲のは次の歌である。

  梓弓おして誓ひをたがへずば祈る三島の神もうくらむ

梓弓は「おす」に掛かる枕詞、「おして」は「無理に、しいて」の意味。神に立てた誓いを無理に違える様な事がなければ、三島大社の神は必ずこの誓いを受けて下さるであろう、と早雲の敬神の誠が詠みこまれている。

 早雲は言う。「歌の道の心得の無い人というのは、はなはだ賤しい事なのだ。歌の道を学ぶべきである。」更には、「日常的に出す言葉には慎みがなければならない。ふとした時に出る一言で人の胸中は知られるものである。」と。和歌は「言の葉の誠の道」である。人の心の誠が言葉となって和歌となる。和歌の修業は言葉と心の一致を齎し、「真実の言葉」は、人々の誠心に感応して行く。早雲は、和歌の道が必須であると確信し、子孫に教戒した。

 武士道では「文武不岐」「文武両道」等というが、真の「武」の根底には「文」の素養が無ければならない。菅野覚明は『本当の武士道とは何か』(PHP新書)の中で、室鳩巣『駿台雑話』の中の「勇猛な話に涙する武将」の事を紹介している。「平家物語」の名場面に登場する華やかな武将の姿の、その奥に秘められた悲壮なる覚悟を推し量り涙する事の出来る者こそが、真の武勇の士であると言うのだ。菅野は言う。「このように相手の心情を察する能力、想像する能力、あるいは深く思いやる能力があるかないかの差が『文』があるかないかの違いでもあるのです。」と。「文」とは単なる知的教養では無く、心の磨きの事を言うのだ。

 武士の「強さ」を支えるものは、この様な繊細で相手の心を思いやる事の出来る「心の力」に他ならない。それを磨き鍛えるのが「歌道」なのである。歌道の心得のなき「無文」の将は、部下達からも見放され、領民達からも嫌悪されて、遂には領国を失うに至るのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿