第9回(令和5年7月11日)
「その数頃(すうけい)の源なきの塘水(とうすい)とならんよりは、数尺の源あるの井水(せいすい)の生意窮まらざるものとならんには若かず。」 (『伝習録』上巻69)
「水源が無く、いつも淀んでいる広大なため池になるよりも、例え狭くてもいつも水が渾渾と湧き立っているような、生命感溢れる井戸水の様な心境でありたいものだ。」
王陽明のこの言葉は、池のほとりに立ち、その傍らに井戸があった為に、それらに譬えて学問・人生の在り方について教示したものである。広大な溜池は多くの水を湛てはいるが、濁っている。それは、周りから様々な水や泥が流れ込む事で、その容量を増やしているにすぎない。一方、水源を有する井戸は小さくとも日々新しい水が湧き出てその純度を維持しているのだ、だから、人々の飲用にも役立っている。
「溜池」の様に雑多な知識を溜め込んで「知識人」ぶっている人間では無く、自分の心の底からの信念が日々現れ出ている様な人間こそが本物である。借り物の知識で飾っていても役には立たないし、人々にも響かない。
「生意窮まらざる」学問の姿を王陽明は求めた。滾々と湧き立つ泉の様な無限の新生である。『大学』の有名な言葉で、会津藩の藩校「日新館」の名前の由来となった「まことに日に新たに、日々新たにして、又日に新たなり」との言葉があるが、日々新生し、伸びて行く姿の中に本物は生れる。『荘子』に「五十九の非」という言葉がある。衛国の賢人・蘧伯玉(きょはくぎょく)は、常に自己反省による精神の脱皮を繰り返し、六十歳にして五十九年の過ちを悟ったとの言葉である。自分の過ちを見出しうる人間ほど偉い者は居ない。ともすれば、五十歳も過ぎれば人間は独善に凝り固まってしまうからである。蘧伯玉は終生、自己生長を止めなかった人物である。
私達が日々行っている「学問=人生修行」はどうであろうか。自分は日々湧き立つ泉の様な新鮮さで物事に向き合っているか、自らに問いかけていきたい。
【著書紹介】
電子書籍『限られた人生を「生き切る」哲学 王陽明から三島由紀夫まで、知行合一を実践した15人の先哲に学ぶ』(Amazonにて発売中)
「その数頃(すうけい)の源なきの塘水(とうすい)とならんよりは、数尺の源あるの井水(せいすい)の生意窮まらざるものとならんには若かず。」 (『伝習録』上巻69)
「水源が無く、いつも淀んでいる広大なため池になるよりも、例え狭くてもいつも水が渾渾と湧き立っているような、生命感溢れる井戸水の様な心境でありたいものだ。」
王陽明のこの言葉は、池のほとりに立ち、その傍らに井戸があった為に、それらに譬えて学問・人生の在り方について教示したものである。広大な溜池は多くの水を湛てはいるが、濁っている。それは、周りから様々な水や泥が流れ込む事で、その容量を増やしているにすぎない。一方、水源を有する井戸は小さくとも日々新しい水が湧き出てその純度を維持しているのだ、だから、人々の飲用にも役立っている。
「溜池」の様に雑多な知識を溜め込んで「知識人」ぶっている人間では無く、自分の心の底からの信念が日々現れ出ている様な人間こそが本物である。借り物の知識で飾っていても役には立たないし、人々にも響かない。
「生意窮まらざる」学問の姿を王陽明は求めた。滾々と湧き立つ泉の様な無限の新生である。『大学』の有名な言葉で、会津藩の藩校「日新館」の名前の由来となった「まことに日に新たに、日々新たにして、又日に新たなり」との言葉があるが、日々新生し、伸びて行く姿の中に本物は生れる。『荘子』に「五十九の非」という言葉がある。衛国の賢人・蘧伯玉(きょはくぎょく)は、常に自己反省による精神の脱皮を繰り返し、六十歳にして五十九年の過ちを悟ったとの言葉である。自分の過ちを見出しうる人間ほど偉い者は居ない。ともすれば、五十歳も過ぎれば人間は独善に凝り固まってしまうからである。蘧伯玉は終生、自己生長を止めなかった人物である。
私達が日々行っている「学問=人生修行」はどうであろうか。自分は日々湧き立つ泉の様な新鮮さで物事に向き合っているか、自らに問いかけていきたい。
【著書紹介】
電子書籍『限られた人生を「生き切る」哲学 王陽明から三島由紀夫まで、知行合一を実践した15人の先哲に学ぶ』(Amazonにて発売中)
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