「武士道の言葉」第三十一回 佐々友房 (『祖国と青年』27年2月号掲載)
二十歳で郷土を興し、三十歳で国を興し、四十歳五十歳で天下を興して、六十歳七十歳の時には世界に及ぼして行く
吾れ年二十にて能く郷を興し、三十にて能く国を興し、四十五十にて能く天下を興さんと欲す。而して六十七十年にて宇内に及ぼさん。
(吾年二十能興郷、三十能興国、四十五十欲能興天下、而六十七十年及宇内也。)(『克堂佐々先生遺稿』明治十八年・三十一歳)
筑前玄洋社の頭山満が「清廉の国士」と称え「生涯の盟友」として深く信じた人物こそ、熊本の英傑・佐々友房である(尚、初代内閣安全保障室長だった佐々淳行氏は、佐々友房の孫に当る)。
佐々は、安政元年正月に肥後藩士佐々陸助の次男として熊本坪井町に生れた。藩校時習館に学び、更には肥後勤皇党で宮部鼎蔵等と国事に奔走していた叔父佐々淳次郎の訓育を受け、尊攘の志を育んで行った。
明治七年二十一歳の時、県の役人に任命されるが、「わが国を巡る東アジア情勢が風雲急を告げている。それを、手をこまねいて傍観するわけには行かない。」と、一ヶ月で辞職した。
明治十年西南戦争が起こるや熊本隊を編成して西郷軍に加わった。
事敗れて獄中にあった際に、西南戦争で焦土と化した郷土の復興の為、青年子弟の教育を志し、赦免されて自宅蟄居時から有志に説いて学舎設置に尽力し、明治十二年十二月「同心学舎」を開講。十五年二月には「済々黌」と改称して三綱領を定めた。
更には紫溟会を結成して教育・政治・事業の三部門に着手。新聞を発刊して言論戦を戦い、二十三年には熊本国権党を組織、帝国議会開設されるや衆議院議員に当選し東京に活躍の場を移す。不平等条約改正や日清・日露戦争主戦論を展開した。欧米列強に肩を並べ得る国力の構築を志して中央政界で活躍した。
だが病に倒れ明治三十九年九月二十八日、五十三歳で生涯を終えた。郷土を興し、国を興し、天下を興して世界に日本の力を及ぼす事が終生の志であった。
佐々友房が熊本の地で直接青少年教育に携わったのは十年に過ぎないが、佐々の志は済々黌の校風として今尚、脈々として受け継がれ、戦前戦後数多の人材を輩出し続けている。
徳を磨き、身体を鍛えてこそ国家を担う人物となる事が出来る。その上で知識を磨き文明を進める人材と成れ。
倫理を正し、大義を明らかにす。廉恥を重んじ元気を振う。知識を磨き文明を進む。
(正倫理明大義 重廉恥振元気 磨知識進文明)。 (「済々黌三綱領」・明治十五年)
私自身も、済々黌高校に学び昭和四十七年に卒業した。済々黌では全ての教室に三綱領が掲げられてあり、済々黌といえば三綱領というのが同窓生の誇りとなっている。だが、佐々黌長が三綱領に籠めた深い思いを知る同窓生は多くない。
佐々黌長は次の様に述べている。
「我黌の主義は既に三綱領に明かである。しかし『磨知識進文明』は、今の世の中他校にも掲げてある。だが『正倫理明大義、重廉恥振元気』については、現在の文明開化の奔流の中で、これらを目標に掲げている学校は見たことが無い。ここに於て我黌は世の中の皆が為さない所を先にして、世の中の皆が為す所を後にしようと思う。即ち、我が徳を修め、我が気を養い、我が体を鍛え、その上で我が智を磨いて、所謂三育併進としたい。
しかし、この様な気風を養成するのは容易ならない事であるから、私自身が校舎に寄宿してその責任に当る事とした。そして、生徒をして最も忠愛に、最も剛健に、最も耐忍に、最も活発に、最も健康ならしめて、一団の気風を養成して真に日本国民としての資格を造ろうと思った。そこで毎月遠足には必ず校員諸氏と共に私が生徒を率いて阿蘇に菊池に山鹿に高瀬に跋渉して、至る所の山川地理を観或は古の忠臣英雄の跡を訪ねて弔った。」(「済々黌歴史」)
更には、済々黌武術科を拡張して「振武会」を設立して武道場を新築している。
学校教育では「知・徳・体」というが佐々は「徳・体・知」の順番での教育方針を立てたのだ。
更には「学校の門札には出来るなら『人物養成所』と掲げたい。何故なら、私の志す教育は一般の授業的学問の教育では無く、養成的の教育を言う。養成的教育とは何か。即ち人間全部を教育して一種の気風を養成するものであって、時間を限ったり人間の一部を教育するものでは無い。」と述べている。
佐々黌長の理想が今尚現実化しているとまでは断言できないが、私の在校時でも「質実剛健」「文武両道」の気風が満ちており、武道や体育が盛んだった。校風は百三十年以上経っても綱領と共に受け継がれ、倫理を正し、大義を明かにせんとの志を育んでいる。
熊本の日本会議には済々黌出身者が数多く入会し協力して下さっており、同窓会などでも私の主張に賛同してくれる人々は多い。それこそが、佐々黌長の御遺徳と言えよう。
左手で世界地図を開き、右手で世界史を繙き、世界の激動に際しての各国の興亡盛衰の軌跡に照らして、わが国の将来に思いを馳せる。
吾人左手に輿地図を披き、右手に近世史を繙き、此の寰宇大局の変遷に際し、各国の興亡盛衰の跡に慨然たらざるを得ず。(「政党論」)
佐々友房の眼は常に世界に注がれていた。佐々は西欧列強に対抗出来る日本国と成す為に生涯を捧げた。それ故、「日本の世界における立ち位置、アジアにおける立場を識る者は東洋問題を全力で研究する必要がある。」(「国民協会拡張の方針」明治二十五年)と述べて、アジア問題に取り組む人材を養成して行った。「政党論」では「自分は本より個々人の自由を重んじるが、国家が他国から完全に自由にならなければ国民各自の自由は保障されないし、国家経済が発達して富が益さない限り国民だけが豊かになる事はあり得ない。」と記している。佐々は世界地図を眺め、近代の歴史を繙きながら国家の興亡の軌跡を考え、わが国の将来について思いを巡らし、自らの使命を定めた。
佐々は済々黌草創当時の明治十四年二月、教員達と語らい、将来のわが国の国運に思いを致せば、日本とシナ、朝鮮との関係は密接となるに相違ないので、生徒の希望者を募って両国の語学を学ばさせる事を決定した。熊本鎮台のシナ語学教師の下に十数人、朝鮮開化党の呉鑑氏を招いてその下で八・九人を学ばせた。呉氏が帰国する際には七人が朝鮮に遊学した。十六年にはシナ学の一科を設け、その後シナに遊学する者が二十名に及んだと記されている。私は、数年前に東亜同文書院の校長だった根津一氏の事を調べていた折、日清戦争勃発の際、軍がシナ語通訳官を募集した所、済々黌出身者が多数応じて来たとの記述に出会った。
日清戦争直後、台湾での教育の任に当り匪族の襲撃で生命を落とした「六士先生」の一人で最年少だった平井数馬は済々黌でシナ語を学んだ秀才であった。
又、日清戦争後の三国干渉により日本は朝鮮での立場が弱まり、朝鮮国王は急速にロシアに傾いて行く。その閉塞状況突破の為に、三浦梧楼公使は朝鮮独立党と協力して、親露派の首謀・閔妃排除のクーデターを実行した。その際も安達謙三など済々黌出身者が多数参加している。
明治二十二年、佐々は国事に奔走すべく黌長を辞任して上京した。
その訣別の訓示の中で「今は、故郷に蟄居している様な時世ではない。母国を出て屍を他国に曝そうとも男子の本分を尽して国権を世界に拡張する事こそ『済々黌粋主要の気象』であり、自分が深く過去に養成の任に当り、未来にその発達を希望して止まないものである」と檄を飛ばしている。
私の頭には日本の二字だけが刻まれ、私の眼中には日本の二字だけが映し出されている。
予輩の頭脳には只だ日本の二字を彫刻するものなり。予輩の眼中には只だ日本の二字のみ映射し居れり。 (「日本主義の教育」明治十八年末頃か)
佐々は自らの教育を「国民教育の主義」と称し、次の様に述べている。
「我々の同胞は日本の人民であり、日本の国土に住んでいる訳だから、日本人としての資格を造って日本の国土を堅固にし、日本の国威を四方に輝かす事が出来た時には、私の教育の目的は達成されたと言って良い。」
「私の頭には日本の二字だけが刻まれ、私の眼中には日本の二字だけが映し出されている。それ故、徹頭徹尾この日本国の為に相応しい教育を施すのである。」
「国民教育に当っては先ず建国の大本を明らかにして国家の淵源を知らせる。」
「三種の神器を以て日本道徳の標準となし、建国の歴史を以て日本国民の感情を薫陶し、以て忠武恭順、恥を重んじて死を軽んずる精神を錬磨すべく、忍耐・強毅・進取・敢為の気風を養成せねばならない。此の精神を養った上で百科の学術技芸に渉る時は、確固たるものが身に着き活発生気に満ち溢れ国は富強文明の域に入るであろう。
若し本を棄てて末に走り、未だに気風を養成せずして、先ず学術技芸を修めようとした時は、小智曲芸の人のみが群出して、柔惰卑屈の風を増長し、将来国家の独立を維持する事さえも疑わしくなるであろう。」
佐々は別の文章で「国性」という言葉を使っている。
「国性とは国家の特性で、その国に固有な万世一系の皇統、言語、文学、風俗、習慣、美術、宗教(神儒仏)を指して称するもので、日本独立の基礎であり日本文明の原因である。この日本富強の根本なるものは与える事も奪う事も代える事も模倣する事も出来ないものである。若しこれを棄てて他者に代えるような事になれば、自国は滅亡する。それ故、日本国の国性を尊重して後に始めて国家の独立が維持されるのである。」
佐々友房は徹頭徹尾日本人であり、日本のアイデンティテイーを重視した。その事によってのみ激動の国際情勢の中で独立を全うする事が出来るとの強い危機認識を抱いていた。
それ故にこそ忍耐・強毅・進取・敢為の気風を涵養し日本を支える本物の人物の輩出を願った。
今日、超大国アメリカの衰退・反日国家中国のアジア覇権の野望と海洋進出・混迷を深める中東情勢等、世界は新たなる動乱の時代に突入せんとしている。わが国はこのまま独立と繁栄とを維持する事が出来るのか。佐々が抱いた明治初期の危機は吾々にも同様に突き付けられている。
二十歳で郷土を興し、三十歳で国を興し、四十歳五十歳で天下を興して、六十歳七十歳の時には世界に及ぼして行く
吾れ年二十にて能く郷を興し、三十にて能く国を興し、四十五十にて能く天下を興さんと欲す。而して六十七十年にて宇内に及ぼさん。
(吾年二十能興郷、三十能興国、四十五十欲能興天下、而六十七十年及宇内也。)(『克堂佐々先生遺稿』明治十八年・三十一歳)
筑前玄洋社の頭山満が「清廉の国士」と称え「生涯の盟友」として深く信じた人物こそ、熊本の英傑・佐々友房である(尚、初代内閣安全保障室長だった佐々淳行氏は、佐々友房の孫に当る)。
佐々は、安政元年正月に肥後藩士佐々陸助の次男として熊本坪井町に生れた。藩校時習館に学び、更には肥後勤皇党で宮部鼎蔵等と国事に奔走していた叔父佐々淳次郎の訓育を受け、尊攘の志を育んで行った。
明治七年二十一歳の時、県の役人に任命されるが、「わが国を巡る東アジア情勢が風雲急を告げている。それを、手をこまねいて傍観するわけには行かない。」と、一ヶ月で辞職した。
明治十年西南戦争が起こるや熊本隊を編成して西郷軍に加わった。
事敗れて獄中にあった際に、西南戦争で焦土と化した郷土の復興の為、青年子弟の教育を志し、赦免されて自宅蟄居時から有志に説いて学舎設置に尽力し、明治十二年十二月「同心学舎」を開講。十五年二月には「済々黌」と改称して三綱領を定めた。
更には紫溟会を結成して教育・政治・事業の三部門に着手。新聞を発刊して言論戦を戦い、二十三年には熊本国権党を組織、帝国議会開設されるや衆議院議員に当選し東京に活躍の場を移す。不平等条約改正や日清・日露戦争主戦論を展開した。欧米列強に肩を並べ得る国力の構築を志して中央政界で活躍した。
だが病に倒れ明治三十九年九月二十八日、五十三歳で生涯を終えた。郷土を興し、国を興し、天下を興して世界に日本の力を及ぼす事が終生の志であった。
佐々友房が熊本の地で直接青少年教育に携わったのは十年に過ぎないが、佐々の志は済々黌の校風として今尚、脈々として受け継がれ、戦前戦後数多の人材を輩出し続けている。
徳を磨き、身体を鍛えてこそ国家を担う人物となる事が出来る。その上で知識を磨き文明を進める人材と成れ。
倫理を正し、大義を明らかにす。廉恥を重んじ元気を振う。知識を磨き文明を進む。
(正倫理明大義 重廉恥振元気 磨知識進文明)。 (「済々黌三綱領」・明治十五年)
私自身も、済々黌高校に学び昭和四十七年に卒業した。済々黌では全ての教室に三綱領が掲げられてあり、済々黌といえば三綱領というのが同窓生の誇りとなっている。だが、佐々黌長が三綱領に籠めた深い思いを知る同窓生は多くない。
佐々黌長は次の様に述べている。
「我黌の主義は既に三綱領に明かである。しかし『磨知識進文明』は、今の世の中他校にも掲げてある。だが『正倫理明大義、重廉恥振元気』については、現在の文明開化の奔流の中で、これらを目標に掲げている学校は見たことが無い。ここに於て我黌は世の中の皆が為さない所を先にして、世の中の皆が為す所を後にしようと思う。即ち、我が徳を修め、我が気を養い、我が体を鍛え、その上で我が智を磨いて、所謂三育併進としたい。
しかし、この様な気風を養成するのは容易ならない事であるから、私自身が校舎に寄宿してその責任に当る事とした。そして、生徒をして最も忠愛に、最も剛健に、最も耐忍に、最も活発に、最も健康ならしめて、一団の気風を養成して真に日本国民としての資格を造ろうと思った。そこで毎月遠足には必ず校員諸氏と共に私が生徒を率いて阿蘇に菊池に山鹿に高瀬に跋渉して、至る所の山川地理を観或は古の忠臣英雄の跡を訪ねて弔った。」(「済々黌歴史」)
更には、済々黌武術科を拡張して「振武会」を設立して武道場を新築している。
学校教育では「知・徳・体」というが佐々は「徳・体・知」の順番での教育方針を立てたのだ。
更には「学校の門札には出来るなら『人物養成所』と掲げたい。何故なら、私の志す教育は一般の授業的学問の教育では無く、養成的の教育を言う。養成的教育とは何か。即ち人間全部を教育して一種の気風を養成するものであって、時間を限ったり人間の一部を教育するものでは無い。」と述べている。
佐々黌長の理想が今尚現実化しているとまでは断言できないが、私の在校時でも「質実剛健」「文武両道」の気風が満ちており、武道や体育が盛んだった。校風は百三十年以上経っても綱領と共に受け継がれ、倫理を正し、大義を明かにせんとの志を育んでいる。
熊本の日本会議には済々黌出身者が数多く入会し協力して下さっており、同窓会などでも私の主張に賛同してくれる人々は多い。それこそが、佐々黌長の御遺徳と言えよう。
左手で世界地図を開き、右手で世界史を繙き、世界の激動に際しての各国の興亡盛衰の軌跡に照らして、わが国の将来に思いを馳せる。
吾人左手に輿地図を披き、右手に近世史を繙き、此の寰宇大局の変遷に際し、各国の興亡盛衰の跡に慨然たらざるを得ず。(「政党論」)
佐々友房の眼は常に世界に注がれていた。佐々は西欧列強に対抗出来る日本国と成す為に生涯を捧げた。それ故、「日本の世界における立ち位置、アジアにおける立場を識る者は東洋問題を全力で研究する必要がある。」(「国民協会拡張の方針」明治二十五年)と述べて、アジア問題に取り組む人材を養成して行った。「政党論」では「自分は本より個々人の自由を重んじるが、国家が他国から完全に自由にならなければ国民各自の自由は保障されないし、国家経済が発達して富が益さない限り国民だけが豊かになる事はあり得ない。」と記している。佐々は世界地図を眺め、近代の歴史を繙きながら国家の興亡の軌跡を考え、わが国の将来について思いを巡らし、自らの使命を定めた。
佐々は済々黌草創当時の明治十四年二月、教員達と語らい、将来のわが国の国運に思いを致せば、日本とシナ、朝鮮との関係は密接となるに相違ないので、生徒の希望者を募って両国の語学を学ばさせる事を決定した。熊本鎮台のシナ語学教師の下に十数人、朝鮮開化党の呉鑑氏を招いてその下で八・九人を学ばせた。呉氏が帰国する際には七人が朝鮮に遊学した。十六年にはシナ学の一科を設け、その後シナに遊学する者が二十名に及んだと記されている。私は、数年前に東亜同文書院の校長だった根津一氏の事を調べていた折、日清戦争勃発の際、軍がシナ語通訳官を募集した所、済々黌出身者が多数応じて来たとの記述に出会った。
日清戦争直後、台湾での教育の任に当り匪族の襲撃で生命を落とした「六士先生」の一人で最年少だった平井数馬は済々黌でシナ語を学んだ秀才であった。
又、日清戦争後の三国干渉により日本は朝鮮での立場が弱まり、朝鮮国王は急速にロシアに傾いて行く。その閉塞状況突破の為に、三浦梧楼公使は朝鮮独立党と協力して、親露派の首謀・閔妃排除のクーデターを実行した。その際も安達謙三など済々黌出身者が多数参加している。
明治二十二年、佐々は国事に奔走すべく黌長を辞任して上京した。
その訣別の訓示の中で「今は、故郷に蟄居している様な時世ではない。母国を出て屍を他国に曝そうとも男子の本分を尽して国権を世界に拡張する事こそ『済々黌粋主要の気象』であり、自分が深く過去に養成の任に当り、未来にその発達を希望して止まないものである」と檄を飛ばしている。
私の頭には日本の二字だけが刻まれ、私の眼中には日本の二字だけが映し出されている。
予輩の頭脳には只だ日本の二字を彫刻するものなり。予輩の眼中には只だ日本の二字のみ映射し居れり。 (「日本主義の教育」明治十八年末頃か)
佐々は自らの教育を「国民教育の主義」と称し、次の様に述べている。
「我々の同胞は日本の人民であり、日本の国土に住んでいる訳だから、日本人としての資格を造って日本の国土を堅固にし、日本の国威を四方に輝かす事が出来た時には、私の教育の目的は達成されたと言って良い。」
「私の頭には日本の二字だけが刻まれ、私の眼中には日本の二字だけが映し出されている。それ故、徹頭徹尾この日本国の為に相応しい教育を施すのである。」
「国民教育に当っては先ず建国の大本を明らかにして国家の淵源を知らせる。」
「三種の神器を以て日本道徳の標準となし、建国の歴史を以て日本国民の感情を薫陶し、以て忠武恭順、恥を重んじて死を軽んずる精神を錬磨すべく、忍耐・強毅・進取・敢為の気風を養成せねばならない。此の精神を養った上で百科の学術技芸に渉る時は、確固たるものが身に着き活発生気に満ち溢れ国は富強文明の域に入るであろう。
若し本を棄てて末に走り、未だに気風を養成せずして、先ず学術技芸を修めようとした時は、小智曲芸の人のみが群出して、柔惰卑屈の風を増長し、将来国家の独立を維持する事さえも疑わしくなるであろう。」
佐々は別の文章で「国性」という言葉を使っている。
「国性とは国家の特性で、その国に固有な万世一系の皇統、言語、文学、風俗、習慣、美術、宗教(神儒仏)を指して称するもので、日本独立の基礎であり日本文明の原因である。この日本富強の根本なるものは与える事も奪う事も代える事も模倣する事も出来ないものである。若しこれを棄てて他者に代えるような事になれば、自国は滅亡する。それ故、日本国の国性を尊重して後に始めて国家の独立が維持されるのである。」
佐々友房は徹頭徹尾日本人であり、日本のアイデンティテイーを重視した。その事によってのみ激動の国際情勢の中で独立を全うする事が出来るとの強い危機認識を抱いていた。
それ故にこそ忍耐・強毅・進取・敢為の気風を涵養し日本を支える本物の人物の輩出を願った。
今日、超大国アメリカの衰退・反日国家中国のアジア覇権の野望と海洋進出・混迷を深める中東情勢等、世界は新たなる動乱の時代に突入せんとしている。わが国はこのまま独立と繁栄とを維持する事が出来るのか。佐々が抱いた明治初期の危機は吾々にも同様に突き付けられている。
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