先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十六回(『祖国と青年』23年6月号掲載)
新渡戸稲造―「内なる光」に生きた国際人1
『武士道』―西欧に負けぬ日本人の高き精神性の世界への発信
※画像は、北海道大学構内の新渡戸稲造像の横で撮ったもの
軍人として武士道を体現し、明治天皇に殉死した乃木大将と、『武士道』を著して世界に日本を紹介し、昭和天皇の平和への大御心を体して奔走し中途で斃れた新渡戸稲造とは、魂に於て相共鳴する所があった。乃木は新渡戸より十三歳年上だが、二人が将来の日本を担う青少年の教育の責任者の立場に立ったのはほぼ同時期である。乃木は明治四十年に学習院長に任命され大正元年に殉死するまで務めた。新渡戸は明治三十九年に第一高等学校校長を拝命し大正二年まで務めている。
ある日、乃木院長は第一高等学校の視察に訪れた。それが聞き、慌てて掃除、整頓を始めようとする職員に対し新渡戸校長は次の様に語った。
●いやこのままがいいだろう。将軍はありのままを見たいので、飾り付けを見たいのではない。
校風の違う学習院と一高だったが、乃木は新渡戸の中に教育者としての深い信念を感じ取った。
爾来乃木と新渡戸との親交が続いた。新渡戸家を訪れた乃木に新渡戸は揮毫をお願いした。乃木は暫く瞑目した後に次の和歌を認めた。
「かたらじとおもふこころもさやかなる月にはえこそかくさざりけれ」。
日露戦争の戦死者(その中には二人の子息も含まれる)を背負って生きていた乃木の沈痛なる思いがこの歌には込められていた。乃木大将が明治天皇に殉死した後、新渡戸は「(乃木は)一人でその責任を感じ、最も純粋なる精神に殉じたのである」と述べている。
新渡戸稲造の青少年期
新渡戸稲造は文久二年(一八六二年)盛岡市旧南部藩士新渡戸十次郎・せきの三男として誕生した。
慶応三年七歳で父十次郎が逝去、明治四年十歳の時、叔父太田時敏の養子となり兄と二人で上京した。十二歳で東京外国語学校に入学し英語を学んだ。
明治九年、明治天皇は東北を巡幸され、新渡戸家は行在所の栄に浴した。明治天皇は、稲造の祖父と父とが手がけた十和田・三本木原の開拓を賞賛され、「子孫も先祖の志を継いで農業に励む様に」と仰られたという。この事は東京在住の稲造にも伝えられ、新渡戸少年の使命感を喚起した。
翌年、稲造は札幌農学校に第二期生として入学した。札幌農学校時代に一期生の熱心な勧誘により基督教に入信し、聖書を学ぶ様になる。又、西洋についての様々な文献を繙く。
十三年、九年ぶりに実家への帰省を果す稲造に、神は非情とも言うべき運命を齎した。稲造が実家に到着する三日前に母は帰らぬ人となっていたのである。稲造は驚きの余り「卒倒した」と記している。
十六年、二十二歳で上京、東京帝国大学入学、その面接の際稲造は、農政学と英文学を学びたいと述べた後、有名な「太平洋の架け橋になりたい。」「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたい」とその志を語った。
十七年、二十三歳で私費留学生として渡米、ジョンズ・ホプキンス大学に入学し経済学・史学等を三年間修めた。
二十年、札幌農学校助教に任じられドイツに留学。翌年、信仰で結ばれていたメアリー・エルキントンと結婚。当時としては画期的な国際結婚だった。その後帰国。翌年、長男トーマス(遠益)が誕生したが早世した。稲造は、母と子という最も身近な肉親をこの様に悲劇的な形で失っている。この事は稲造の人格に宗教的な深み与え、人々に対する人一倍の同情心を齎したのである。
稲造は、武士の子として生まれ、五歳で袴着の祝(袴を着て、裃をつけ、碁盤の上に乗せて短い刀を差す儀式)を行うなど、武士としての気概と素養とを培われて育った。東京で英語を学んでいた頃、稲造少年は近くの神社で水ごりをして兄の病気の平癒を祈っていた。それを見た神主がこの子は宗教的な素質が深いと目にかける様になり、ある時稲造に「自分の心の鏡を澄まし、自分の内面からの光に照らしてさえ行えば、他人がなんと言おうと構わないのです。」と教え、この言葉は稲造の生涯の信條となって行く。新渡戸は『幼き日の思い出』の中で職業観を述べている。
●人は内観的であるか、外観的であるかによって職業が定まるものだ。内観的な人間は、内的な衝動に駆り立てられて、一生の仕事を内なる声の命令と勧めで選ぶ。外観的気質の人々は、時代思潮、言論界、社会の要求、友人の願望、あるいは敵への遺恨などのような外的影響で動かされる。
渡米した新渡戸は、米国の荘厳なる教会には馴染めず、祈祷(行)中心で儀式も無く主宰教職もいないフレンド派(クエーカー)に入信する。その教えは「神は万人の心にある。各人は内に神の内なる光を持っていて、静黙と誠実な確信を通してそれに接する事が出来る。」というものだった。
新渡戸と陽明学
明治初期の基督教指導者になった日本人はその殆んどが武士の出であり、四書五経の素養を身に付け、陽明学にも造詣が深かった。彼らは、「神」と「天」、「良知」と「良心」とを同義的に解釈して基督教を受用した。
鈴木範久は『新渡戸稲造論集』解説の中で「新渡戸の文章を読んでいて、しきりと出会う言葉に『天』『天道』『天帝』『天命』『天職』『天意』『天性』など、一連の『天』を冠した言葉がある。『天』を相手にせよと言った西郷隆盛も、『天』が平等に人を造ったと述べた福沢諭吉も、ともに新渡戸の尊敬する人物だった。陽明学的な『天』と『良知』の思想は、キリスト教のクェーカー信徒であった新渡戸にとり、その『カミ』と『内なる光』とも通じる親近性のある思想であった。」と記している。
実際、新渡戸の文章には王陽明の事が頻繁に引用されているし、新渡戸は「理論」より「実践」を重んじる知行合一の人物であった。
●かくして知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一を繰り返して倦むところをしらなかったのである。(略)それは最も高潔なる武士中、この哲人の教訓によって強き影響を受けた者が少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著述の中に『新約聖書』との類似点の多いことを容易に見いだすであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし」という言は、王陽明のほとんどいずれのページにも見いだされうる思想である。(略)神道の単純なる教義に表現せられたるごとき日本人の心性は、陽明の教えを受けいれるに特に適していたと思われる。(『武士道』第2章「武士道の淵源」)
●王陽明は毎朝自分の弟子を皆集めて端座して暫く黙って、それから大きな声で詩を吟じて、そうして今日の言葉でいえば課業に就いたと申します。(「教育家の教育」)
●僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何者かが胸中に存在している。(「自由の真髄」)
●昔陽明学者の歌に「皆人の詣る社に神はなしこゝろの中に神ぞまします」と教えたるその神に最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賎の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは僕の固く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。(「自由の真髄」)
世界的名著『武士道』
一八八七年、欧州留学中にベルギーのド・ラブレー教授の許で過していた際、新渡戸は教授から「学校における宗教教育」についての質問を受ける。
●「ありません」と私が答えや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。(『武士道』第一版序)
又、米国人の妻を持つ新渡戸にとっては、妻が抱く日本での考え方や習慣についての質問に答える義務も負っていた。
かくて、米国での病気療養中の一八九九年(明治三十二年)に英語で著され翌年出版されたのが『武士道』である。原題は『BUSHⅠDO, THE SOUL OF JAPAN』。
この世界的な名著は欧米人に対して書かれた書物であり、日本語に翻訳されたものを読むのは日本人にとっては極めて難解である。それは、吾々には新渡戸程の欧米文化に対する教養が欠落しているからである。新渡戸はこの中で日本の風習や道徳観の説明にギリシャ・ローマの古典や各民族の歴史・文学上の名作をおびただしく引用して、双方の共通した点を指摘している。それは欧米人にとって「日本人は奇妙」との考えを改めさせて、「自分たちの祖先にも似たような事がある」と思わしめる為に書かれている。
当時日本は日清戦争に勝利し、更には日露戦争に勝利を収めた為に世界中から注目され、英語に続き、マラーティ語・ドイツ語・ボヘミヤ語・ポーランド語・ノルウェー語・フランス語・中国語・ハンガリア語・ロシア語と翻訳されて行った。
『武士道』は十七章から構成されている。
①道徳体系としての武士道②武士道の淵源③義④勇・敢為堅忍の精神⑤仁・惻隠の心⑥礼⑦誠⑧名誉⑨忠義⑩武士の教育および訓練⑪克己⑫自殺および復仇の制度⑬刀・武士の魂⑭婦人の教育および地位⑮武士道の感化⑯武士道はなお生くるか⑰武士道の将来、
である。
●【冒頭の文章】武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会的状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
●【最後の文章】武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。
新渡戸は、社会制度としての封建制が無くなり、武士階級が消滅した以上、武士道も言葉として消えて行く運命にある、だが、精神としての武士道は不滅であり、新しい時代にそれを担保するものが必要だと考えた。それが新渡戸にとっての基督教だった。
新渡戸は『人生雑感』の中で、基督教徒が正義の為にはなにも恐れない点を揚げて、「キリストの如き強さを学ばねばならぬ」と述べている。新渡戸にとっての基督教は武士道精神貫徹の延長線上にあった。いわば、脱皮した武士道の精神の復興をキリスト教の中に求めたといえよう。
新渡戸や盟友の内村鑑三は、神の道に入るにはユダヤの西の門だけでなく、もう一つの門、日本という東方の門(アハレとナサケの門)があると考えた。ユダヤの歴史を綴った旧約聖書に代わるのが、霊の修練たる旧約の日本だった。
新渡戸は、①世界の全ゆる民族の伝統文化の中にそれぞれの精神的価値がある②各文化が表面上違っても人間としてその魂の底の底では相通じるものがある③日本の魂は形こそ変わり、表現こそ違ってきても決して失われる事はない、という立場で日本と世界の架け橋たらんとした。新渡戸の「日本」発信は、『武士道』を嚆矢として、国際舞台活躍の中で、総合的日本紹介の著作『日本国民(Japanese Nation :its Land, its Peaple and its Life)』(1912)『日本(Japan)』(1931)『日本文化の講義(Lectures on Japan)』(1932)として結実している。
新渡戸稲造―「内なる光」に生きた国際人1
『武士道』―西欧に負けぬ日本人の高き精神性の世界への発信
※画像は、北海道大学構内の新渡戸稲造像の横で撮ったもの
軍人として武士道を体現し、明治天皇に殉死した乃木大将と、『武士道』を著して世界に日本を紹介し、昭和天皇の平和への大御心を体して奔走し中途で斃れた新渡戸稲造とは、魂に於て相共鳴する所があった。乃木は新渡戸より十三歳年上だが、二人が将来の日本を担う青少年の教育の責任者の立場に立ったのはほぼ同時期である。乃木は明治四十年に学習院長に任命され大正元年に殉死するまで務めた。新渡戸は明治三十九年に第一高等学校校長を拝命し大正二年まで務めている。
ある日、乃木院長は第一高等学校の視察に訪れた。それが聞き、慌てて掃除、整頓を始めようとする職員に対し新渡戸校長は次の様に語った。
●いやこのままがいいだろう。将軍はありのままを見たいので、飾り付けを見たいのではない。
校風の違う学習院と一高だったが、乃木は新渡戸の中に教育者としての深い信念を感じ取った。
爾来乃木と新渡戸との親交が続いた。新渡戸家を訪れた乃木に新渡戸は揮毫をお願いした。乃木は暫く瞑目した後に次の和歌を認めた。
「かたらじとおもふこころもさやかなる月にはえこそかくさざりけれ」。
日露戦争の戦死者(その中には二人の子息も含まれる)を背負って生きていた乃木の沈痛なる思いがこの歌には込められていた。乃木大将が明治天皇に殉死した後、新渡戸は「(乃木は)一人でその責任を感じ、最も純粋なる精神に殉じたのである」と述べている。
新渡戸稲造の青少年期
新渡戸稲造は文久二年(一八六二年)盛岡市旧南部藩士新渡戸十次郎・せきの三男として誕生した。
慶応三年七歳で父十次郎が逝去、明治四年十歳の時、叔父太田時敏の養子となり兄と二人で上京した。十二歳で東京外国語学校に入学し英語を学んだ。
明治九年、明治天皇は東北を巡幸され、新渡戸家は行在所の栄に浴した。明治天皇は、稲造の祖父と父とが手がけた十和田・三本木原の開拓を賞賛され、「子孫も先祖の志を継いで農業に励む様に」と仰られたという。この事は東京在住の稲造にも伝えられ、新渡戸少年の使命感を喚起した。
翌年、稲造は札幌農学校に第二期生として入学した。札幌農学校時代に一期生の熱心な勧誘により基督教に入信し、聖書を学ぶ様になる。又、西洋についての様々な文献を繙く。
十三年、九年ぶりに実家への帰省を果す稲造に、神は非情とも言うべき運命を齎した。稲造が実家に到着する三日前に母は帰らぬ人となっていたのである。稲造は驚きの余り「卒倒した」と記している。
十六年、二十二歳で上京、東京帝国大学入学、その面接の際稲造は、農政学と英文学を学びたいと述べた後、有名な「太平洋の架け橋になりたい。」「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたい」とその志を語った。
十七年、二十三歳で私費留学生として渡米、ジョンズ・ホプキンス大学に入学し経済学・史学等を三年間修めた。
二十年、札幌農学校助教に任じられドイツに留学。翌年、信仰で結ばれていたメアリー・エルキントンと結婚。当時としては画期的な国際結婚だった。その後帰国。翌年、長男トーマス(遠益)が誕生したが早世した。稲造は、母と子という最も身近な肉親をこの様に悲劇的な形で失っている。この事は稲造の人格に宗教的な深み与え、人々に対する人一倍の同情心を齎したのである。
稲造は、武士の子として生まれ、五歳で袴着の祝(袴を着て、裃をつけ、碁盤の上に乗せて短い刀を差す儀式)を行うなど、武士としての気概と素養とを培われて育った。東京で英語を学んでいた頃、稲造少年は近くの神社で水ごりをして兄の病気の平癒を祈っていた。それを見た神主がこの子は宗教的な素質が深いと目にかける様になり、ある時稲造に「自分の心の鏡を澄まし、自分の内面からの光に照らしてさえ行えば、他人がなんと言おうと構わないのです。」と教え、この言葉は稲造の生涯の信條となって行く。新渡戸は『幼き日の思い出』の中で職業観を述べている。
●人は内観的であるか、外観的であるかによって職業が定まるものだ。内観的な人間は、内的な衝動に駆り立てられて、一生の仕事を内なる声の命令と勧めで選ぶ。外観的気質の人々は、時代思潮、言論界、社会の要求、友人の願望、あるいは敵への遺恨などのような外的影響で動かされる。
渡米した新渡戸は、米国の荘厳なる教会には馴染めず、祈祷(行)中心で儀式も無く主宰教職もいないフレンド派(クエーカー)に入信する。その教えは「神は万人の心にある。各人は内に神の内なる光を持っていて、静黙と誠実な確信を通してそれに接する事が出来る。」というものだった。
新渡戸と陽明学
明治初期の基督教指導者になった日本人はその殆んどが武士の出であり、四書五経の素養を身に付け、陽明学にも造詣が深かった。彼らは、「神」と「天」、「良知」と「良心」とを同義的に解釈して基督教を受用した。
鈴木範久は『新渡戸稲造論集』解説の中で「新渡戸の文章を読んでいて、しきりと出会う言葉に『天』『天道』『天帝』『天命』『天職』『天意』『天性』など、一連の『天』を冠した言葉がある。『天』を相手にせよと言った西郷隆盛も、『天』が平等に人を造ったと述べた福沢諭吉も、ともに新渡戸の尊敬する人物だった。陽明学的な『天』と『良知』の思想は、キリスト教のクェーカー信徒であった新渡戸にとり、その『カミ』と『内なる光』とも通じる親近性のある思想であった。」と記している。
実際、新渡戸の文章には王陽明の事が頻繁に引用されているし、新渡戸は「理論」より「実践」を重んじる知行合一の人物であった。
●かくして知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一を繰り返して倦むところをしらなかったのである。(略)それは最も高潔なる武士中、この哲人の教訓によって強き影響を受けた者が少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著述の中に『新約聖書』との類似点の多いことを容易に見いだすであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし」という言は、王陽明のほとんどいずれのページにも見いだされうる思想である。(略)神道の単純なる教義に表現せられたるごとき日本人の心性は、陽明の教えを受けいれるに特に適していたと思われる。(『武士道』第2章「武士道の淵源」)
●王陽明は毎朝自分の弟子を皆集めて端座して暫く黙って、それから大きな声で詩を吟じて、そうして今日の言葉でいえば課業に就いたと申します。(「教育家の教育」)
●僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何者かが胸中に存在している。(「自由の真髄」)
●昔陽明学者の歌に「皆人の詣る社に神はなしこゝろの中に神ぞまします」と教えたるその神に最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賎の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは僕の固く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。(「自由の真髄」)
世界的名著『武士道』
一八八七年、欧州留学中にベルギーのド・ラブレー教授の許で過していた際、新渡戸は教授から「学校における宗教教育」についての質問を受ける。
●「ありません」と私が答えや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。(『武士道』第一版序)
又、米国人の妻を持つ新渡戸にとっては、妻が抱く日本での考え方や習慣についての質問に答える義務も負っていた。
かくて、米国での病気療養中の一八九九年(明治三十二年)に英語で著され翌年出版されたのが『武士道』である。原題は『BUSHⅠDO, THE SOUL OF JAPAN』。
この世界的な名著は欧米人に対して書かれた書物であり、日本語に翻訳されたものを読むのは日本人にとっては極めて難解である。それは、吾々には新渡戸程の欧米文化に対する教養が欠落しているからである。新渡戸はこの中で日本の風習や道徳観の説明にギリシャ・ローマの古典や各民族の歴史・文学上の名作をおびただしく引用して、双方の共通した点を指摘している。それは欧米人にとって「日本人は奇妙」との考えを改めさせて、「自分たちの祖先にも似たような事がある」と思わしめる為に書かれている。
当時日本は日清戦争に勝利し、更には日露戦争に勝利を収めた為に世界中から注目され、英語に続き、マラーティ語・ドイツ語・ボヘミヤ語・ポーランド語・ノルウェー語・フランス語・中国語・ハンガリア語・ロシア語と翻訳されて行った。
『武士道』は十七章から構成されている。
①道徳体系としての武士道②武士道の淵源③義④勇・敢為堅忍の精神⑤仁・惻隠の心⑥礼⑦誠⑧名誉⑨忠義⑩武士の教育および訓練⑪克己⑫自殺および復仇の制度⑬刀・武士の魂⑭婦人の教育および地位⑮武士道の感化⑯武士道はなお生くるか⑰武士道の将来、
である。
●【冒頭の文章】武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史の腊葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会的状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
●【最後の文章】武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。
新渡戸は、社会制度としての封建制が無くなり、武士階級が消滅した以上、武士道も言葉として消えて行く運命にある、だが、精神としての武士道は不滅であり、新しい時代にそれを担保するものが必要だと考えた。それが新渡戸にとっての基督教だった。
新渡戸は『人生雑感』の中で、基督教徒が正義の為にはなにも恐れない点を揚げて、「キリストの如き強さを学ばねばならぬ」と述べている。新渡戸にとっての基督教は武士道精神貫徹の延長線上にあった。いわば、脱皮した武士道の精神の復興をキリスト教の中に求めたといえよう。
新渡戸や盟友の内村鑑三は、神の道に入るにはユダヤの西の門だけでなく、もう一つの門、日本という東方の門(アハレとナサケの門)があると考えた。ユダヤの歴史を綴った旧約聖書に代わるのが、霊の修練たる旧約の日本だった。
新渡戸は、①世界の全ゆる民族の伝統文化の中にそれぞれの精神的価値がある②各文化が表面上違っても人間としてその魂の底の底では相通じるものがある③日本の魂は形こそ変わり、表現こそ違ってきても決して失われる事はない、という立場で日本と世界の架け橋たらんとした。新渡戸の「日本」発信は、『武士道』を嚆矢として、国際舞台活躍の中で、総合的日本紹介の著作『日本国民(Japanese Nation :its Land, its Peaple and its Life)』(1912)『日本(Japan)』(1931)『日本文化の講義(Lectures on Japan)』(1932)として結実している。
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