先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十五回(『祖国と青年』23年5月号掲載)
(乃木希典―軍服の聖者2
皇孫殿下の聖徳ご涵養を通じて今日に伝わる純忠の至誠
※画像は東京・青山墓地の乃木大将夫妻のお墓
旅順陥落直後の明治三十八年一月十四日、乃木第3軍は旅順招魂祭を斎行し、乃木将軍は自ら祭文を奏した。その中で将軍は二百十余日の将兵の奮戦を讃え、その栄誉に対し「顧みて諸子が遺烈を念えば、あに独りこの光栄を享くるに忍びんや。嗚呼、諸子とこの光栄を頒たんとして幽明相隔つ、哀しいかな。」と呼びかけた。
旅順を陥落せしめた第三軍は、日露陸軍の総力戦ともいうべき奉天大会戦(日軍25万VS露軍37万)に臨むべく北上した。露将クロパトキンは第三軍の出現を極度に恐怖し、退却を決断するに至る。五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った連合艦隊は日本海海戦に完勝し、遂に九月五日、日露講和条約が調印される。満州・法庫門に宿営する第三軍は十月十日に再び慰霊祭を斎行し、乃木大将は「戦友諸子を祭る文」の中で「曩きに堅城を抜き、勁敵を破り、皇軍の威烈を発揚せるもの、一に諸子の身命を擲ち、卒先危を踏み、堅忍艱に克たるるの大勇威力に依らざるはなし。(略)当初に諸子と心に相約する処のもの、我身を終ふるも誓って遺るなけん。」と述べた。ロシアに勝利したものの乃木将軍の心は晴れなかった。凱旋の日が近づく中、乃木将軍は「蒙古王になって残りたい」と洩らしたという。その苦衷の中で生れたのが次の漢詩である。
●皇師百万強虜を征す 野戦攻城屍山を作す 愧づ我れ何の顔あつて父老に看えん 凱歌今日幾人か還る
一月十四日に凱旋帰京した乃木大将は、直ちに参内して明治天皇に「復命書」を奏上し、
●作戦十六箇月間我将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るるもの皆 陛下の万歳を喚呼し、欣然として瞑目したるは臣之を伏奏せざらんと欲するも能はず。然るに斯くの如き忠勇の将卒を以てして、旅順攻城には半歳の長月日を要し、多大の犠牲を供し、奉天付近の会戦には、攻撃力の欠乏に因り退路遮断の任務を全うするに至らず、又敵騎大集団の我が左側背に行動するに当り、之を撃嶊するの好機を獲ざりしは、臣が終生の遺憾にして、恐懼措く能はざる所なり。
と述べて、陛下に「死」を賜らんことを訴えた。だが、明治天皇は許されず、「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知る。しかれども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ。」と仰せになられた。乃木大将は再び「死に勝る」苦悩を背負って生きていかねばならなくなった。
乃木大将は戦傷者の為の廃兵院の建設を推進し、多額の寄附をし、自ら足を運んで励した。戦死者家族の慰問を積極的に行うと共に第三軍戦死者墓碑への揮毫は決して断らなかった。
●かゝなへば早く三歳もすぎてけりかへらぬ友を思ふ今日哉(明治四十年八月二十日旅順第一回総攻撃三周年の日に)
●岩角に咲く撫子の紅を誰が血潮ぞと偲てぞ見る
撫子の花にも心おかれけり我友人の血にやあらぬと(明治四十一年初夏旅順戦跡を訪ねし折)
明治天皇御自身も、宮城御苑内に篤く戦死者を祭られていた。君臣共に戦歿者を背負って生きていかれた。その事が国民の支えだった。当時の乃木大将の覚悟を示す歌。
●大君の御楯とならん身にしあればきたへざらめやみがかざらめや
お前に沢山の子供を授けよう
日露戦争後、乃木大将を参謀総長に推す話が持ち上がったが、明治天皇はそれをお許しにならずに次の様に仰られた。「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした。」。
四十年一月三十一日、乃木大将は学習院長に任命された。明治天皇は「おまえは二人の子供を失って寂しいだろうから、その代り沢山の子供を授けよう。」と仰られたという。乃木夫妻が二人の子供を亡くした事に最も同情されたのは明治天皇と皇后であり、三十九年五月二十六日には皇后陛下も特別に静子夫人に拝謁を賜っている。
学習院長を拝命した乃木大将の言葉。
●私は一介の武弁であって教育者ではない。かなり躊躇逡巡したものであった。しかし、御諚とあっては拝受のほかより道はありえないのである。兵士を訓練する事と諸子を教育することとは勿論同一目的ではない。がしかし至誠を以て人に接する一事に至りては、決して変りはないと信ずるのである。
●身は老ぬよしつかるともすべらぎの大みめぐみにむくいざらめや (明治四十一年奈良大和地方演習時)
乃木院長は皇族方のご教育方針を次の様に立てた。
●1、御健康を第一と心得べきこと。2、御宜しからぬ御行状と拝し奉る時は、之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。3、御成績につきては御斟酌然るべからざること。御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。4、成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。5、将来陸海の軍務につかせられるべきにつき、其の御指導に注意すること。(以下、各種訓示は学習院輔仁会編『乃木院長記念録』)
●【初等学科に於ける訓示】
口を結べ。口を開いて居るような人間は心にもしまりがない。眼のつけ方に注意せよ。始終きょろきょろして居るのは心の定まらない証拠である。敬礼の時は先方をよく注視せよ。自分の家の紋所、家柄、先祖のことはよく聞いて忘れないやうにして置け。先祖の祭は大切であるぞ。男子は男子らしくなくてはいかん。弁当の風呂敷でも赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶやうでは駄目だ。決して贅沢をするな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰る位にせよ。寒中水で顔を洗ふものは幾人あるか。湯で洗ふようではいかん。寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ。
破れた着物を其の侭着て居るのは恥だが、そこをつぎをして繕って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない。恥を知れ。道にはづれたことをして、恥を知らないものは禽獣に劣る。健康の時は無理の出来るやう体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら、医者のいふことをよくきけ。洋服や靴は大きく作れ。恰好などはかまふな。学習院の学生は成るたけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、体の丈夫なものは、なるべく軍人にならなければならぬ。けれども生まれつき体の弱いものもあり、又いろいろの事情で軍人になれないものもあらう。之も仕方ないが、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、或は国の害になるやうな人間は、死んでしまった方がよいのである。
●【風紀に関しての訓示(教師に対して)】
要するに皇室の為め國家の為め純忠至誠の人物を養成するを以て主眼とすべし。決して自己一身の栄達の為めに奮励努力するが如き、利己主義の人物を造るべからず。至誠純忠の人物を造らん為めには、之を教導するものも、至誠純忠なる人ならざるべからず。
質実剛健の「乃木式」が将来の日本を背負う家柄の皇族・華族の子供達に叩き込まれて行った。乃木院長は剣道や木剣体操を重視され、夏季には片瀬に遊泳場を設け、自らも天幕生活を共にして、簡易生活・共同生活の範を示し、自営・自治・克己の精神を涵養して行った。
乃木院長の感化力
乃木院長の下で寮長を務めた教師の服部他助は『恩師乃木院長』の中で乃木院長の感化力について次の様に記している。
「乃木院長が『忠君』とか、『愛国』とかいふ言葉を言語に出して云はれることは罕である。(略)人は口に言ひ表はし得ざる大真理なるものを、外に表はす力を言語以外に有つて居る。これ即ち無形の力、所謂『感化力』である。此の如き力は日夜に此の品格高き院長から、四方八方に発散して居る事を実見する。此の感化の力は、即ち一の高遠なる真理を抱いて居る人の心から、自然に外部へ発散する光輝である。」
「乃木院長は遠き前方にある一目標を定め、後方より其の目標に向つて前進すべしとの号令を下す人ではない。身自ら先づ無言の間に率先して、其の目標に向つて前進せらるる故に、何人もそれに向つて前進するを躊躇しない。院長は『彼処へ行け』と命令せずして、『此処へ来れ』と手招きされるのである。」
乃木院長は、寮長を引き受ける事を躊躇する服部氏に対し次の様に語られたという。
●学生の心を教へる事は只あなたの心に善いと思ふことを基礎として、やつて貰へばそれで宜しい
乃木院長は、日常生活を通して生徒達に人の有り方を示して行かれた。正に「人を教ふるに行を以てして、言を以てせず」「事を以てして理を以てせず」の感化であった。
日露戦争後の日本は、戦勝の自信が驕奢を生み、欧米化が尚一層進み、華美な風潮が蔓延する様になって行く。明治天皇は憂えられて四十一年十月に「戊辰詔書」を出して「華を去り実に就」く事を述べられた。乃木院長も「さみだれに、もの、みな腐され、はてやせん、ひなも、みやこも、かび(黴・華美)の世の中」という歌を詠んでいる。
院長は生徒達に、国に自信を持ち確固とした根を植えつける為に、学習院学則も「崇皇国之懿風」を「履聖人之至道」の前に置かれ、「不通国典何以養正」を「不読聖経何以修身」の前に置き換えられた。院内に「皇基碑」を建立され、後には大神宮遥拝所として自ら鍬を執って榊を植えられた。
当時の乃木院長の澄み切った心境は次の漢詩や和歌にも伺われる。
●崚そうたる富嶽千秋に聳ゆ 赫灼たる朝暉八洲を照らす
説くを休めよ区々風物の美 地霊人傑是神州
●われゆかば人もゆくらん皇国のたゞ一すぢの平らけき道
●國のため力の限りつくさなむ身のゆく末は神のまにまに
明治四十五年七月二十日、明治天皇の御不例が発表になった。乃木大将は皇居に毎日参内してご快癒を祈り続けた。だが七月三十日午前零時四十三分、天皇は崩御された。乃木大将は殯宮に伺候し、秘かに覚悟を定め身辺整理をして行かれた。
九月六日、学習院生徒に最後の訓示が行われた。
●勉強するといふことは、決して自分一個の為と思ってはならぬ。常に君の為、国の為にすることと心得べきである。
九月十一日、乃木大将は裕仁親王殿下と二人の弟君を訪ねられ、山鹿素行『中朝事実』と三宅観攔『中興鑑言』を渡して次の様に語られた。
●以後は 皇太子殿下として御取扱ひ申上げるやうに相成るべく、就ては一層の御勉学あらせられんことを願ひ奉ります。殊に陸海軍にも御任官遊ばせられ、他日皇位に即かせられて大元帥陛下と仰がれ給ふべき所の御学問も最も御必要なれば、御身体を御大切に遊ばすと共に、是れよりは中々御多端なれば、御油断なく幾重にも御勉強の程を願ひ奉ります。之は希典が平素愛読仕ります本にて、肝要の処には希典が自ら朱点を施し置きましたが、今は未だ御分かりは遊ばされざるべきも御為になる本にて、追々御分かり、遊ばさるるやう、献上仕り置きます。
乃木院長が朱点を施された所は、『乃木院長記念録』で伺う事が出来るが、君徳の涵養に重要な箇所を選び出してある。
乃木大将は、四十四年八月には、裕仁親王殿下の為の「皇孫殿下御学問所規定草案」を作り、学習院後の特別御学問所の設置を考えていた。大将の志は小笠原長生等に受け継がれ大正三年四月一日の東宮御学問所設置に結実する。
九月十三日午後八時、明治天皇御棺の皇居ご出立に合わせ、静子夫人と共に自宅で自刃して天皇の後を追われた。乃木大将六十四歳、静子夫人五十四歳だった。
●遺言「第一 自分此度御跡を追ひ奉り自殺候段恐入候儀、其罪は不軽存候。然る處、明治十年之役に於て軍旗を失ひ、其後死處得度心掛け候も、其機を得ず。皇恩の厚きに浴し、今日迄過分の御優遇を蒙、追々老衰最早御役に立候時も無余日候折柄、此度の御大変何共恐入候次第。茲に覚悟相定候事に候。(全部で十項目が記されている)」
●辞世「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」
「うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり」
※静子夫人辞世「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」
乃木大将の殉死は多くの国民に衝撃を与え、明治という時代の終焉を印象付けた。十八日の国民葬の沿道には二十万人が並んで乃木大将との最後の別れを行った。
横山健堂は 「日本精神のわが国に維持されなん限り、彼夫妻は国民の儀表たらん」と記している。
(乃木希典―軍服の聖者2
皇孫殿下の聖徳ご涵養を通じて今日に伝わる純忠の至誠
※画像は東京・青山墓地の乃木大将夫妻のお墓
旅順陥落直後の明治三十八年一月十四日、乃木第3軍は旅順招魂祭を斎行し、乃木将軍は自ら祭文を奏した。その中で将軍は二百十余日の将兵の奮戦を讃え、その栄誉に対し「顧みて諸子が遺烈を念えば、あに独りこの光栄を享くるに忍びんや。嗚呼、諸子とこの光栄を頒たんとして幽明相隔つ、哀しいかな。」と呼びかけた。
旅順を陥落せしめた第三軍は、日露陸軍の総力戦ともいうべき奉天大会戦(日軍25万VS露軍37万)に臨むべく北上した。露将クロパトキンは第三軍の出現を極度に恐怖し、退却を決断するに至る。五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った連合艦隊は日本海海戦に完勝し、遂に九月五日、日露講和条約が調印される。満州・法庫門に宿営する第三軍は十月十日に再び慰霊祭を斎行し、乃木大将は「戦友諸子を祭る文」の中で「曩きに堅城を抜き、勁敵を破り、皇軍の威烈を発揚せるもの、一に諸子の身命を擲ち、卒先危を踏み、堅忍艱に克たるるの大勇威力に依らざるはなし。(略)当初に諸子と心に相約する処のもの、我身を終ふるも誓って遺るなけん。」と述べた。ロシアに勝利したものの乃木将軍の心は晴れなかった。凱旋の日が近づく中、乃木将軍は「蒙古王になって残りたい」と洩らしたという。その苦衷の中で生れたのが次の漢詩である。
●皇師百万強虜を征す 野戦攻城屍山を作す 愧づ我れ何の顔あつて父老に看えん 凱歌今日幾人か還る
一月十四日に凱旋帰京した乃木大将は、直ちに参内して明治天皇に「復命書」を奏上し、
●作戦十六箇月間我将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るるもの皆 陛下の万歳を喚呼し、欣然として瞑目したるは臣之を伏奏せざらんと欲するも能はず。然るに斯くの如き忠勇の将卒を以てして、旅順攻城には半歳の長月日を要し、多大の犠牲を供し、奉天付近の会戦には、攻撃力の欠乏に因り退路遮断の任務を全うするに至らず、又敵騎大集団の我が左側背に行動するに当り、之を撃嶊するの好機を獲ざりしは、臣が終生の遺憾にして、恐懼措く能はざる所なり。
と述べて、陛下に「死」を賜らんことを訴えた。だが、明治天皇は許されず、「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知る。しかれども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ。」と仰せになられた。乃木大将は再び「死に勝る」苦悩を背負って生きていかねばならなくなった。
乃木大将は戦傷者の為の廃兵院の建設を推進し、多額の寄附をし、自ら足を運んで励した。戦死者家族の慰問を積極的に行うと共に第三軍戦死者墓碑への揮毫は決して断らなかった。
●かゝなへば早く三歳もすぎてけりかへらぬ友を思ふ今日哉(明治四十年八月二十日旅順第一回総攻撃三周年の日に)
●岩角に咲く撫子の紅を誰が血潮ぞと偲てぞ見る
撫子の花にも心おかれけり我友人の血にやあらぬと(明治四十一年初夏旅順戦跡を訪ねし折)
明治天皇御自身も、宮城御苑内に篤く戦死者を祭られていた。君臣共に戦歿者を背負って生きていかれた。その事が国民の支えだった。当時の乃木大将の覚悟を示す歌。
●大君の御楯とならん身にしあればきたへざらめやみがかざらめや
お前に沢山の子供を授けよう
日露戦争後、乃木大将を参謀総長に推す話が持ち上がったが、明治天皇はそれをお許しにならずに次の様に仰られた。「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした。」。
四十年一月三十一日、乃木大将は学習院長に任命された。明治天皇は「おまえは二人の子供を失って寂しいだろうから、その代り沢山の子供を授けよう。」と仰られたという。乃木夫妻が二人の子供を亡くした事に最も同情されたのは明治天皇と皇后であり、三十九年五月二十六日には皇后陛下も特別に静子夫人に拝謁を賜っている。
学習院長を拝命した乃木大将の言葉。
●私は一介の武弁であって教育者ではない。かなり躊躇逡巡したものであった。しかし、御諚とあっては拝受のほかより道はありえないのである。兵士を訓練する事と諸子を教育することとは勿論同一目的ではない。がしかし至誠を以て人に接する一事に至りては、決して変りはないと信ずるのである。
●身は老ぬよしつかるともすべらぎの大みめぐみにむくいざらめや (明治四十一年奈良大和地方演習時)
乃木院長は皇族方のご教育方針を次の様に立てた。
●1、御健康を第一と心得べきこと。2、御宜しからぬ御行状と拝し奉る時は、之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。3、御成績につきては御斟酌然るべからざること。御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。4、成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。5、将来陸海の軍務につかせられるべきにつき、其の御指導に注意すること。(以下、各種訓示は学習院輔仁会編『乃木院長記念録』)
●【初等学科に於ける訓示】
口を結べ。口を開いて居るような人間は心にもしまりがない。眼のつけ方に注意せよ。始終きょろきょろして居るのは心の定まらない証拠である。敬礼の時は先方をよく注視せよ。自分の家の紋所、家柄、先祖のことはよく聞いて忘れないやうにして置け。先祖の祭は大切であるぞ。男子は男子らしくなくてはいかん。弁当の風呂敷でも赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶやうでは駄目だ。決して贅沢をするな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰る位にせよ。寒中水で顔を洗ふものは幾人あるか。湯で洗ふようではいかん。寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ。
破れた着物を其の侭着て居るのは恥だが、そこをつぎをして繕って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない。恥を知れ。道にはづれたことをして、恥を知らないものは禽獣に劣る。健康の時は無理の出来るやう体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら、医者のいふことをよくきけ。洋服や靴は大きく作れ。恰好などはかまふな。学習院の学生は成るたけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、体の丈夫なものは、なるべく軍人にならなければならぬ。けれども生まれつき体の弱いものもあり、又いろいろの事情で軍人になれないものもあらう。之も仕方ないが、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、或は国の害になるやうな人間は、死んでしまった方がよいのである。
●【風紀に関しての訓示(教師に対して)】
要するに皇室の為め國家の為め純忠至誠の人物を養成するを以て主眼とすべし。決して自己一身の栄達の為めに奮励努力するが如き、利己主義の人物を造るべからず。至誠純忠の人物を造らん為めには、之を教導するものも、至誠純忠なる人ならざるべからず。
質実剛健の「乃木式」が将来の日本を背負う家柄の皇族・華族の子供達に叩き込まれて行った。乃木院長は剣道や木剣体操を重視され、夏季には片瀬に遊泳場を設け、自らも天幕生活を共にして、簡易生活・共同生活の範を示し、自営・自治・克己の精神を涵養して行った。
乃木院長の感化力
乃木院長の下で寮長を務めた教師の服部他助は『恩師乃木院長』の中で乃木院長の感化力について次の様に記している。
「乃木院長が『忠君』とか、『愛国』とかいふ言葉を言語に出して云はれることは罕である。(略)人は口に言ひ表はし得ざる大真理なるものを、外に表はす力を言語以外に有つて居る。これ即ち無形の力、所謂『感化力』である。此の如き力は日夜に此の品格高き院長から、四方八方に発散して居る事を実見する。此の感化の力は、即ち一の高遠なる真理を抱いて居る人の心から、自然に外部へ発散する光輝である。」
「乃木院長は遠き前方にある一目標を定め、後方より其の目標に向つて前進すべしとの号令を下す人ではない。身自ら先づ無言の間に率先して、其の目標に向つて前進せらるる故に、何人もそれに向つて前進するを躊躇しない。院長は『彼処へ行け』と命令せずして、『此処へ来れ』と手招きされるのである。」
乃木院長は、寮長を引き受ける事を躊躇する服部氏に対し次の様に語られたという。
●学生の心を教へる事は只あなたの心に善いと思ふことを基礎として、やつて貰へばそれで宜しい
乃木院長は、日常生活を通して生徒達に人の有り方を示して行かれた。正に「人を教ふるに行を以てして、言を以てせず」「事を以てして理を以てせず」の感化であった。
日露戦争後の日本は、戦勝の自信が驕奢を生み、欧米化が尚一層進み、華美な風潮が蔓延する様になって行く。明治天皇は憂えられて四十一年十月に「戊辰詔書」を出して「華を去り実に就」く事を述べられた。乃木院長も「さみだれに、もの、みな腐され、はてやせん、ひなも、みやこも、かび(黴・華美)の世の中」という歌を詠んでいる。
院長は生徒達に、国に自信を持ち確固とした根を植えつける為に、学習院学則も「崇皇国之懿風」を「履聖人之至道」の前に置かれ、「不通国典何以養正」を「不読聖経何以修身」の前に置き換えられた。院内に「皇基碑」を建立され、後には大神宮遥拝所として自ら鍬を執って榊を植えられた。
当時の乃木院長の澄み切った心境は次の漢詩や和歌にも伺われる。
●崚そうたる富嶽千秋に聳ゆ 赫灼たる朝暉八洲を照らす
説くを休めよ区々風物の美 地霊人傑是神州
●われゆかば人もゆくらん皇国のたゞ一すぢの平らけき道
●國のため力の限りつくさなむ身のゆく末は神のまにまに
明治四十五年七月二十日、明治天皇の御不例が発表になった。乃木大将は皇居に毎日参内してご快癒を祈り続けた。だが七月三十日午前零時四十三分、天皇は崩御された。乃木大将は殯宮に伺候し、秘かに覚悟を定め身辺整理をして行かれた。
九月六日、学習院生徒に最後の訓示が行われた。
●勉強するといふことは、決して自分一個の為と思ってはならぬ。常に君の為、国の為にすることと心得べきである。
九月十一日、乃木大将は裕仁親王殿下と二人の弟君を訪ねられ、山鹿素行『中朝事実』と三宅観攔『中興鑑言』を渡して次の様に語られた。
●以後は 皇太子殿下として御取扱ひ申上げるやうに相成るべく、就ては一層の御勉学あらせられんことを願ひ奉ります。殊に陸海軍にも御任官遊ばせられ、他日皇位に即かせられて大元帥陛下と仰がれ給ふべき所の御学問も最も御必要なれば、御身体を御大切に遊ばすと共に、是れよりは中々御多端なれば、御油断なく幾重にも御勉強の程を願ひ奉ります。之は希典が平素愛読仕ります本にて、肝要の処には希典が自ら朱点を施し置きましたが、今は未だ御分かりは遊ばされざるべきも御為になる本にて、追々御分かり、遊ばさるるやう、献上仕り置きます。
乃木院長が朱点を施された所は、『乃木院長記念録』で伺う事が出来るが、君徳の涵養に重要な箇所を選び出してある。
乃木大将は、四十四年八月には、裕仁親王殿下の為の「皇孫殿下御学問所規定草案」を作り、学習院後の特別御学問所の設置を考えていた。大将の志は小笠原長生等に受け継がれ大正三年四月一日の東宮御学問所設置に結実する。
九月十三日午後八時、明治天皇御棺の皇居ご出立に合わせ、静子夫人と共に自宅で自刃して天皇の後を追われた。乃木大将六十四歳、静子夫人五十四歳だった。
●遺言「第一 自分此度御跡を追ひ奉り自殺候段恐入候儀、其罪は不軽存候。然る處、明治十年之役に於て軍旗を失ひ、其後死處得度心掛け候も、其機を得ず。皇恩の厚きに浴し、今日迄過分の御優遇を蒙、追々老衰最早御役に立候時も無余日候折柄、此度の御大変何共恐入候次第。茲に覚悟相定候事に候。(全部で十項目が記されている)」
●辞世「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」
「うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり」
※静子夫人辞世「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」
乃木大将の殉死は多くの国民に衝撃を与え、明治という時代の終焉を印象付けた。十八日の国民葬の沿道には二十万人が並んで乃木大将との最後の別れを行った。
横山健堂は 「日本精神のわが国に維持されなん限り、彼夫妻は国民の儀表たらん」と記している。
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