「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その21 「明治の武士道」その1

2014-08-11 22:31:45 | 【連載】武士道の言葉
明治の武士道1(『祖国と青年』平成26年4月号掲載)

武士道を決して滅ぼしてはならない

武士道ある限り、日本は栄える。それがなくなる時は、日本の滅びる時である。
(内村鑑三「「武士道と基督教」について」昭和3年10月『聖書の研究』)

 明治維新は世界史の奇跡だと言われている。それは、身分制度の最上層にあった武士が、国家の将来を考えて、自らの特権を放棄すべく、藩を廃止し(廃藩置県)、身分制度も無くして(四民平等)、国民国家を生み出したからである。

武士主導の国家変革だから、流血の惨事も少ない。『フランス革命の代償』によれば、フランス革命の死者は二〇〇万人に及ぶ(内訳は一八〇〇年迄の戦争で四〇万人、ナポレオン戦争で一〇〇万人、内乱で六〇万人)と言われている。一方明治維新では、戊辰戦争の全戦死者数は一万三五六二人(官軍・幕軍合せて)であり、維新を担った長州藩でも戦死者は一四五六人に過ぎない。

 自分の手で、武家社会を国民国家へと変貌させた武士達は、西洋列強に対抗する為に矢継ぎ早に近代国家建設を推し進めて行った。その様な中で、幕末期に生まれ明治初期に青年期を過した武士の子供達は、「武士道」に代わる精神規範・倫理規範を切実に求めた。

その様な中で、欧米社会を築いたキリスト教のプロテスタント精神に魅かれ、クリスチャンになる者が居た。それでも彼等は、日本人としてのアイデンティテイーを失わず、戦後日本の様な無国籍キリスト者には決してならなかった。「日本基督教徒」として、祖国を愛し、日本の使命を高らかに謳った。その代表的な人物が、内村鑑三や新渡戸稲造、新島襄、植村正久などである。

 その中でも、内村鑑三は日本独自の無教会主義を貫き、聖書を四書五経の如く倫理経典として研究して行った。黄海海戦勝利の歓喜の中で記した『代表的日本人』は有名だが、それ以外でも、「日本国の天職」「我が理想の日本」「愛国と信仰」「「武士道と基督教」について」など、愛国心溢れる文章が数多くある。それらの中で、武士道への熱い思いを語っている。




軍人精神の根本は誠心

之を行はんには一の誠心こそ大切なれ。抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり。
(「軍人勅諭」)

 フランス革命から始まった国民国家は、それ迄の傭兵制度から国民全てを対象とする徴兵制度を生み出した。国民は国家から様々な保護を享受すると共に、国家を守る権利と義務とが与えられたのである。自分たちの国家を守る為に編成された国民軍が世界モデルとなって行った。

 近代国家を目指した明治国家も、当然国民皆兵を取り入れて軍隊を組織した。それ迄武士だけに許されていた「武装」が、軍隊に入った国民全てに許される事となったのである。

徴兵制度が公布されたのは明治六年一月、その後、明治十年には西南戦争が勃発、旧武士を中心とする薩摩軍に対し、政府軍の兵隊は徴兵によるものだった。薩摩武士の不屈の闘志と団結による徹底した武勇に、政府軍はたじたじとなったが、兵器の新鋭と補給の豊富さ、組織力に於て勝り、勝利する事が出来た。

だが、西南戦争の教訓は、徴兵された兵隊を如何にして精強な部隊へと育てて行くのかという課題を残した。明治十一年八月には、近衛砲兵大隊の兵二百名が暴動を起こす竹橋事件が起こった。その様な中で、プロシアを手本に帝国陸軍の制度が確立して行く。軍人は、組織上・精神的にも天皇に直属し、大元帥である天皇の統帥下、一糸乱れぬ鉄石の軍として外敵に対する事が求められた。

その体制に血を通わせる為に、天皇は明治十五年一月四日に「陸海軍軍人に賜りたる勅諭(軍人勅諭)」を示された。それは、わが国固有の武士道精神を明治の近代軍隊の支柱としたものであった。

 軍人勅諭で天皇は軍人に五つの徳目を求められている。それは

一 軍人は忠節を尽すを本分とすべし。

一 軍人は礼儀を正くすべし。

一 軍人は武勇を尚ぶべし 。

一 軍人は信義を重んずべし 。

一 軍人は質素を旨とすべし。

の五カ条で、それぞれに丁寧なる説明の言葉が副えられている。

その上で天皇は、これらは全て「誠心」に帰一する事を仰せられている。そして、軍人が天皇の教えに従って道を守り行い、国に報いる務めを果たすならば、日本国の蒼生(国民)全てが悦ぶであろう、私だけの喜びではない。と勅諭を結ばれている。

 日本軍の精強さは、様々な戦史に詳しい。それは将兵共に、この勅諭の武士道精神が涵養されていたからに他ならない。





今わの際に発した一水兵の憂国の情

「まだ沈まずや、定遠は」その言の葉は 短かきも、皇国を守る国民の、心に永く しるされん。(「勇敢なる水兵」の最後の歌詞)

 朴槿恵大統領の韓国は、反日で米国を煙に巻きながら中国に擦り寄る「二股外交」を推進しており、庇護を求めて中国に急接近する姿は、本来の宗主国への先祖帰りに他ならない。再び中国の属国へと回帰している。

明治日本が初めて戦った日清戦争は、朝鮮を宗主国である清国(中国)の勢力圏から独立させて、自主独立の国家として近代化に導き、アジア防衛のパートナーとする為に戦われた。当時の清国は「眠れる獅子」と恐れられ、その経済力によって、欧米から巨大戦艦を購入するなど、わが国の国力とは比較にならない巨大国家であった。

 だが、明治日本の武士道精神は、相手の巨大さに屈するような軟な物ではなかった。相手が強大ならば、それに打ち勝つ精鋭を育てて打ち破るというのが、明治日本の精神だった。

かくて、大国清との戦争が明治二十七年八月に勃発した。朝鮮半島を巡る戦いである以上、戦いの場は朝鮮から遼東半島、北京に至る大陸であり、日本軍は日本海や黄海を安全に渡航する為の制海権を確保しなければ、勝利は覚束なかった。

 九月十七日に黄海で、わが国の連合艦隊十二隻と清国北洋艦隊十四隻とで戦われた決戦が「黄海海戦」である。日本には甲鉄艦は一隻しかなく、清国は六隻もの甲鉄艦を有していた。その中でも排水量7335tの、東洋一の巨大甲鉄艦、定遠・鎮遠は最大の脅威だった。連合艦隊は大口径砲の数では劣っていたが、艦隊の速力や中口径砲の数では勝っていた。そして、練度の違いが勝利を招き、清国海軍の主力艦五隻を大破した。その結果、制海権を確保する事に成功した。

 甲鉄艦同士の砲撃では、双方に多大な被害を生じたが、わが国の水兵達は勇敢に己が任務を全うして戦い抜いた。連合艦隊の旗艦松島に定遠の30センチ砲が命中し死傷者八十余名を出した。

その時、三等水兵三浦虎次郎は瀕死の重傷を負い乍らも、かたわらの副長向山少佐に敵艦の情勢を問うた。その時の様子を聞き知った歌人の佐佐木信綱は、気品の高い十連の叙事詩にまとめて明治二十八年「大捷軍歌」に発表した。それが「勇敢なる水兵」の歌である。

三浦三等水兵が今わの際に発した「まだ沈まずや、定遠は」の言葉は、日清戦争に賭けた日本人の心意気を示すものであり、名も無き民の愛国心に日本中が泣いた。





敗北した敵将に示した伊東長官の礼と誠心

僕は世界に轟鳴する日本武士の名誉心に誓い、閣下にむかいて暫く我邦に遊び、もって他日、貴国中興の運、真に閣下の勤労を要するの時節到来するを竢たれんことを願うや切なり。閣下、それ友人誠実の一言を聴納せよ。
(連合艦隊司令長官伊東祐亨が清国北洋艦隊丁汝昌提督に送った降伏勧告書)

 黄海海戦で敗北した清国北洋艦隊は、基地のある威海衛に逃げ込んだ。明治三十八年二月、わが国は海陸双方から威海衛を攻撃、海軍は史上初の水雷艇による夜襲を敢行し、清国艦隊を次々と沈めて行った。清国の軍営では水兵の叛乱が起こり、北洋艦隊の丁汝昌提督は窮地に陥っていた。

そこで連合艦隊司令長官伊東祐亨中将は、旧知でもあった北洋艦隊丁提督に礼を尽して降伏を勧めた。伊東長官は丁提督に対し、囚われても後に軍功を立てた幾多の先例を示しながら、「世界に轟く日本武士の名誉心に誓って、閣下が降伏され、暫く日本に来られて、後に清国が再興し、再び閣下の勤労を必要とする時節が到来する時を待たれてはいかがでしょうか。閣下の友人の誠から発するこの言葉をお聞き容れ下さい。」と切々と訴えた。

だが、丁総督は伊東長官の至誠に深謝するも、申し出を拒んで服毒自殺し、北洋艦隊は降伏した。

伊東は丁総督の棺が粗末なジャンク船で送られる事を聞き及び、運送船「康済丸」を捕獲せずに清国に提供して、丁の棺の運送に当てさせ、多数の日本軍艦で見送った。タイムス誌はこれを「丁汝昌提督は祖国よりも却って敵によってその戦功を認められた」と報じた。伊東提督の示した武士道を世界が絶賛した。

 「勝敗は時の運」との言葉があるが、明治の将軍達は、自らが勝利を修めても決して奢り高ぶる事はなかった。勝敗が逆転すれば己が敵の虜となっていたかも知れないのである。それ故に、敗軍の将を思いやる誠心を有していた。

武士道の世界では、礼儀が重んじられ、それは現代に続く武道でも守られている。剣道では、試合に勝利して喜びの素ぶりでも見せようものならば、勝利は取り消される。相手を侮辱したことになるからであり、「残心(勝負がついた後も決して緩めない張り詰めた精神)」を失った事とみなされるからである。試合を終えて、自座に戻るまでは淡々と礼を尽さねばならない。その自制の姿に武士道精神が残されている。その事が国際化した柔道や大相撲では守られて居ないのが残念である。

 現代は言論戦の時代である。その中にあって武士道精神を貫く戦いの姿を我々は求め続けねばならない。「礼節」と「信義」と「誠心」、それを失った運動は、左翼の亜流に堕してしまうであろう。

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