「道の学問・心の学問」第六十九回(令和3年9月7日)
石田梅岩に学ぶ⑩
「先生道を往来し給ふに、夏は陰(かげ)を人に譲り、みづからは日あたりをあるき、冬は日あたりを人に譲り、自らは陰を歩行(あるき)給へり」
(『石田先生事蹟』)
梅岩の学問は日常の立ち居振る舞いの中に自然と表れ、それが弟子達に無言の教えとして刻まれていた。弟子達が梅岩の歿後に師を慕って編纂した『石田先生事蹟』には、その様子が具体的に示されている。その全てを現代に当て嵌める事は出来ないが、行動の中に示された一貫する人々への思い遣りの心、即ち「仁」の心を私達は学び実践すべきだと思う。
「石田先生は道を行き来される際には、炎暑の夏は日陰を他の人に譲って、自らは日の当たる所を歩かれた。冬には逆に、日当たりを他の人に譲り、自らは日陰を歩かれた。」
この事は言うは易いが実行には強い意志を要する。炎暑と酷寒、少しでも暑さや寒さを逃れたいのが人情である。だが、梅岩の仁の心は他者にそれを譲る行為となって行われていた。
『事蹟』には卑近な仁の道として、「人が歩く家の前の公道を美しく保全する事、外出する時には家の者に行く先を必ず告げて安心させる事、文字は美しく解り易い書法で記せば人々も見やすい。傘には直ぐに名前を記して置けば、人々が迷う事がない。全ての物事を扱うには、山奥で水を遣うのと大きな川で水を遣うのが自然異なる様に、其の所々に於て程良く用いて人の心を痛めない事が肝要。究極は「無欲」である事が根本だが、未だそこまでは至っていないと嘆いている。」(現代風に意訳)と記されてある。
梅岩は、無益の殺生を悲しんで、お湯を扱った時には、そのまま捨てると地中の虫を殺してしまう虞があるので、水を入れてお湯を冷まして捨てた。ある年の夏に旱魃が続いた為、梅岩は密かに沐浴して日々雨乞いをした。雨が降り出すと、風の具合を心配し大風にならぬ様にと祈った。「雨を乞ひ風しづかにと祈るなりまもらせたまへ二柱の神」と詠んでいる。二柱の神とは雨の神と風の神である。
火事が起これば、人々が難儀する事、天下の財が滅んでしまう事を痛んで、心を労した。ある年の冬の夜に下岡崎村で大火事があった時には、寒中、夜中に如何に人々が難儀しているかと胸を痛め、夜中に門人を集めて飯を炊いて握り飯として、門人を伴って岡崎に行き、難儀している人々に全て与えた。
元文5年の冬から翌年の春にかけて、人々が困窮しているのを目のあたりにして、門人を派遣して実情を調べ、そのあまりにも悲惨な現状に心を痛め、門人を伴い三・四人づつに分けて十二月二十八日より日々所を替えて銭を施された。翌年になって正月二日よりは、施しをする人も多くなって来たと言う。
これらのエピソードにある様に、梅岩の「仁」の心は、日々の営みに自ずと表現されたものであった。又、その姿こそが、梅岩の学問が本物であった事を示している。
石田梅岩に学ぶ⑩
「先生道を往来し給ふに、夏は陰(かげ)を人に譲り、みづからは日あたりをあるき、冬は日あたりを人に譲り、自らは陰を歩行(あるき)給へり」
(『石田先生事蹟』)
梅岩の学問は日常の立ち居振る舞いの中に自然と表れ、それが弟子達に無言の教えとして刻まれていた。弟子達が梅岩の歿後に師を慕って編纂した『石田先生事蹟』には、その様子が具体的に示されている。その全てを現代に当て嵌める事は出来ないが、行動の中に示された一貫する人々への思い遣りの心、即ち「仁」の心を私達は学び実践すべきだと思う。
「石田先生は道を行き来される際には、炎暑の夏は日陰を他の人に譲って、自らは日の当たる所を歩かれた。冬には逆に、日当たりを他の人に譲り、自らは日陰を歩かれた。」
この事は言うは易いが実行には強い意志を要する。炎暑と酷寒、少しでも暑さや寒さを逃れたいのが人情である。だが、梅岩の仁の心は他者にそれを譲る行為となって行われていた。
『事蹟』には卑近な仁の道として、「人が歩く家の前の公道を美しく保全する事、外出する時には家の者に行く先を必ず告げて安心させる事、文字は美しく解り易い書法で記せば人々も見やすい。傘には直ぐに名前を記して置けば、人々が迷う事がない。全ての物事を扱うには、山奥で水を遣うのと大きな川で水を遣うのが自然異なる様に、其の所々に於て程良く用いて人の心を痛めない事が肝要。究極は「無欲」である事が根本だが、未だそこまでは至っていないと嘆いている。」(現代風に意訳)と記されてある。
梅岩は、無益の殺生を悲しんで、お湯を扱った時には、そのまま捨てると地中の虫を殺してしまう虞があるので、水を入れてお湯を冷まして捨てた。ある年の夏に旱魃が続いた為、梅岩は密かに沐浴して日々雨乞いをした。雨が降り出すと、風の具合を心配し大風にならぬ様にと祈った。「雨を乞ひ風しづかにと祈るなりまもらせたまへ二柱の神」と詠んでいる。二柱の神とは雨の神と風の神である。
火事が起これば、人々が難儀する事、天下の財が滅んでしまう事を痛んで、心を労した。ある年の冬の夜に下岡崎村で大火事があった時には、寒中、夜中に如何に人々が難儀しているかと胸を痛め、夜中に門人を集めて飯を炊いて握り飯として、門人を伴って岡崎に行き、難儀している人々に全て与えた。
元文5年の冬から翌年の春にかけて、人々が困窮しているのを目のあたりにして、門人を派遣して実情を調べ、そのあまりにも悲惨な現状に心を痛め、門人を伴い三・四人づつに分けて十二月二十八日より日々所を替えて銭を施された。翌年になって正月二日よりは、施しをする人も多くなって来たと言う。
これらのエピソードにある様に、梅岩の「仁」の心は、日々の営みに自ずと表現されたものであった。又、その姿こそが、梅岩の学問が本物であった事を示している。
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