「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その25 「山川健次郎」その1

2014-08-17 21:14:00 | 【連載】武士道の言葉
山川健次郎 その一 (『祖国と青年』平成26年8月号掲載)


文武両道の双璧乃木大将と山川総長

「フロックコートを着た乃木将軍」
(『男爵山川先生傳』)

 会津白虎隊出身の山川健次郎は、十七歳でアメリカに留学、エール大学で物理学を学び、日本人として初めて学位を取得した。帰国後は、東京大学教授、理学博士となり、わが国の物理化学の発展に寄与する。巷間で話題となっている理化学研究所の創設(大正六年)にも尽力し、顧問に就任している。

 その一方で、武士道を体現した人格の高潔さから、東京帝国大学総長、明治専門学校(現在の九州工業大学)初代総裁、九州帝国大学初代総長、二度目の東京帝国大学総長、東宮御学問所評議員、京都帝国大学総長、貴族院議員、枢密顧問官、武蔵高等学校初代校長と、わが国を代表する教育家として昭和六年に七十六歳で薨去するまで慕われ続けた。

 男爵山川先生記念会編『男爵山川先生傳』によれば、「精神」「主義」「行動」「面貌・風骨」に於て、山川健次郎と乃木将軍は多くの類似点があり、山川健次郎は「フロックコートを着た乃木将軍」と称せられ、乃木将軍はまた「軍服を着けた山川男(爵)」だと言われていたという。

 山川は「乃木大将の殉死」という文章の中で、「(旅順)攻撃の命令は死んでくれと言うのも同様であった。其の時大将は何と考えたか――お前方ばかりは死なせんぞ、おれも追付死ぬから、君等も死んでくれ…と心約したのではあるまいか、大将の人格から考えて、斯る心約があったと我が輩は確信する。」と述べている。約束には、証約(起請文など記す)・口約(口約束)・黙約(黙契)以外に「心約」があると山川は言う。

心約とは、相手に知らせずに自分だけで心の内で約束する事であり、克己心の強い者しか果たす事は出来ない。乃木将軍の殉死を「心約」という言葉で解した山川健次郎も、戊辰戦争で亡くなった会津藩士達との心約を背負って時代を生き抜いていたのである。





国家の有為な人材足らんと志す青年が、戒めるべき五事と、実践すべき五つの徳目

青年者五戒五徳 《五戒》忘国戒・奢侈戒・邪淫戒・妄語戒・軽生戒 《五徳》忠・勇・潔・断・勉 
(「学生諸君に告ぐ」明治三十九年二月二十四日東京帝大旧新総長送迎会)

 『男爵山川先生遺稿』には、帝国大学(東京・九州・京都)や私学の責任者を務めた時の演説や訓示などが多数収められ、山川の教育思想を伺う事が出来る。

 明治三十八年十二月に東京帝国大学総長を退任した山川は、翌年二月の新旧総長送迎会で、学生が青年として守るべき五つの戒めと、五つの積極的な徳目に付て語り、学生への置き土産とした。

《五戒》

一 忘国戒 自分の利益の為に、国家の存在を忘れることの戒め

二 奢侈戒 自分の立場・身分に不相応な贅沢や浪費をすることの戒め

三 邪淫戒 男女両性が正しい道によらずに相接近することの戒め

四 妄語戒 嘘や偽りを言うことの戒め

五 軽生戒 飲食を節し適当の運動と睡眠とをなし、衛生を怠らないことの戒め

《五徳》

一 忠 日本の国がらに於ては、忠君が即ち愛国であり、愛国が即ち忠君である

二 勇 沈勇、則ち世人の是非にかかわらず自らの信念に基づいて断行する勇気

三 潔 いさぎよい事で、一毫の利も不義ならば取らない、又如何なる栄誉も、義によっては、之を抛ち捨てることを塵芥の如くに顧みないこと

四 断 熟慮して決断し、勇往邁進して躊躇逡巡しないことが大事

五 勉 何事にも勉強してその事に当り、微細の事にも能く注意をして、落ち度のないように努めること


この挨拶の最後に山川は「依って日本全国数十万の青年輩が、瞻仰して其模範とせられる最高教育府にある諸君は、特に上の五戒を守ると共に、天晴れ日本青年輩の鑑たらんことを我が輩が諸君に期待する所であります。」と締め括っている。

「日本青年の鑑たれ」この言葉こそ山川健次郎が、教えを受ける青年達に訴え続けた事であった。大学生に選ばれた青年達は、国家から特別の教育を施される恩恵に浴しており、その恩に報いる事、則ち「国家に対する義務」を負うものと山川は考えていた。それ故に五戒の最初に山川は「忘国戒」を掲げたのである。

元々、大学は国家の為に建てられた最高教育機関である。そこに学ぶ学生が国家に尽す事を忘れてしまっているのなら、大学生とは言えないのである。





大和民族の生存の為に本校がある

我が校に於ては、(教育)勅語を解釈する一ツの原則に根底を置いたのである。其の原則とは大和民族の生存を云ふのである。
(明治専門学校「第九回卒業式に於ける訓示」大正十年三月五日)

 教育者としての山川健次郎の面目が躍如するのは、明治四十年に新設された明治専門学校(現九州工業大学)の総裁を任された時である。帝国大学と違い、私学である明治専門学校では、教育理念・指導方針の全てを山川流で構築する事ができた。

山川は、その後九州帝大総長や東京帝大総長再任の時にも総裁職を続け、大正十年の官立移管まで十四年間務めた。

 明治専門学校は「技術に熟達した士君子」の養成を目的とし、その方法としては、他にない四年制を採用し、人格主義・軍事教育・基礎学科尊重等を実行した。山川は先ず「徳目八箇条」を定めた。

一、忠孝を励むべし。

一、言責を重んずべし。

一、廉恥を修むべし。

一、勇気を練るべし。

一、礼儀を濫るべからず。

一、服従を忘るべからず。

一、節倹を勉むべし。

一、摂生を怠るべからず。


更に山川は「軍事教育」を導入した。

「国力には限界があるので、兵隊を五割・六割増す事は不可能である。それ故、外に工夫して一朝有事の際に十分な兵が備わる様にしなければならぬ。スイスでは小学に入ると直ぐに軍事教育を与え、中学校や他の学校でも行い、国民が徴兵として在営するのは短期間で済む。それに習って、本校では軍事教育を施す。本校が先ず行って、そして日本全国の学校にこの主義が行われる様になり、国防の一大補助となる事を希望して行うのである。」(「仮開校式に於ける訓示」明治42年4月1日)。

更には、英語教育を非常に重視した。「外国語の一つ位は自由に使える様になっていなければ、卒業後に新知識を得る事が出来ず、上に伸びることが出来なくなる。」というのだ。

 公教育に軍事教練が導入されたのは大正十四年であり、それに先立つ十七年前である。山川総裁は徳育と体育を担い、全寮制の寄宿舎にも良く足を運んで学生たちと交わった。八箇条の徳目を基礎に人物を磨き、軍事教練を通して「武」を鍛え、世界を相手に知の戦いに勝利する為に、英語力と技術力とを錬磨したのである。それは、ひとえに大和民族の生存の確保の為だった。

山川は大正天皇に献上した書に「有文事者必有武備(文事有る者は必ず武備有り)」と記している。






国民の気風が国家の盛衰を決定づける

興国の民より成る国家は興隆し、亡国の民より成る国家は滅亡する。(武蔵高等学校「開校記念式に於ける式辞」昭和三年四月十五日)

 山川健次郎の教育思想の根柢には、常にわが国の前途に対する危惧の念が込められていた。若き日に会津藩の亡国という体験を持つ山川には国家を失う事の悲惨さが身に沁みて解っていた。更には、会津藩と日本国を背負って米国に留学して新知識を持ち帰った山川は、西欧列強の手強さを実感し、それに伍すべき日本の長所と弱点とを十分に認識していた。

大正十五年、七十三歳の山川は乞われて七年制の武蔵高等学校校長に就任した。教育者としての最後の御奉公だった。

 昭和三年四月「開校記念式に於ける式辞」に於て山川校長は「国家の盛衰は国民の気風に依て決するものであるは今改めて云う迄もない。」と切り出し、更に次の様に述べた。

「質実剛健の気性を有し、国に在りては尽忠報国の志、家に在りて孝友信義の心深き国民を興国の民と云う。之に反し、浮華軽佻にして憂国愛民族の心を欠き、伝統的精神を失い、専ら利己を標準として動く国民を亡国の民と云う。興国の民より成る国家は興隆し、亡国の民より成る国家は滅亡する。(略)此の危急存亡の秋に当り、此の衰勢を挽回する為めに興国の士君子、即ち人格崇高にして君国の為めには水火の中へも飛び込むことをも辞せん熱情と勇気とを有する完全なる高等教育を受けたる士君子を養成するを以て目的とする我が武蔵高等学校が建設された。此の目的を達する為め本校の生徒たる者は此の訓戒を守り朋友相切磋琢磨し、学校を以て修養の道場とし、又一方に於ては学術研究に努力し、学校を以て知識を獲得するの学堂とせんければならん。右の次第で我が学校は人格の修養と知識の獲得とを鳥の両翼の如く、二つながら欠く可からざるものとするのである。」

 山川健次郎は四半世紀に亘って日本教育界の中心に坐し続けた。維新の戦乱を体験し、明治という国家発展の時代を担った人物には国家の盛衰を決する教育の使命が骨の髄まで徹していた。残された数々の遺稿にはその不動の信念が漲っている。

青年の質が国家の将来を決定するのは、世界共通の真実である。その点をあえて忘却した戦後教育が国家の衰退を生み出したのは必然であった。新教育基本法により甦った国家・民族の教育に則って我々は、次世代を「興国の民」とすべく教育に魂を込めなければならない。

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