「日本の誇り」復活
―その戦ひと精神(九)
今再び恋闕の情を共に燃え上がらせん
皇室典範改正問題は、地方に住む多くの勤皇の人々の意識を喚起しつつある。熊本では、二月十八日に皇室の伝統を守る県民集会が開催され約八百名が集まつた。土曜夜の集会であつたが、女性の方も多く、熱心に耳を傾けてをられた。熊本では、昨年十二月から約二十団体で実行委員会を組織してこの問題への対応を協議してきた。国会情勢の推移と共に集会名称も変はり「皇室典範改悪阻止県民集会」から「皇室典範の拙速な改定に反対する県民集会」更には「皇室の伝統を守る県民集会」へと三転した。この間、多くの方が国会議員一人一人に手紙やFAXを送つて下さり大きな影響を与えた。又、カンパを寄せて下さる方や新聞広告の為の資金提供を申し出て下さる方も現れ、名も無き「勤皇の人」の存在が実感される日々であつた。集会当日も、病院経営者の方や保育園と福祉施設の経営者の方が職員にも解らせたいと、多数連れて参加して下さつた。
更には、集会終了後も高校同窓会や自民党女性部、ロータリークラブなどから皇室典範について話して欲しいとの依頼が寄せられてゐる。皇室の伝統を自分の周りの一般の方々に解つて欲しいとの願ひからその様な場を積極的に作つて下さるのである。皇室典範問題の集会を企画し、開催する事によつて「勤皇の心」が次々と伝播して日本人が日本に回帰しつつある。
熊本での感動が覚めやらぬまま私は、翌日の二月十九日から三月二日にかけて中国五県・四国四県訪問の旅に出発した。この十一泊十二日に及ぶ訪問の間、日本協議会の中国ブロック会議・四国ブロック会議、五県での講演(国民運動セミナー・皇室典範問題集会・日本協議会徳島県支部結成式典)、九県に於ける日本会議県本部役員会を行つた。広島や岡山でも皇室典範問題への取り組みが行はわれ、勤皇の輪が着実に広がりつつあった。私が、この様に長期に亘つて各県を訪問するのは、昭和六十一年夏の全国縦断キャラバン隊隊長、更には平成二年冬の皇紀二千六百五十年奉祝御神火行進隊長以来で、実に十六年ぶりの事であつた。かく行動せしめたものは、皇室典範問題への決起を全国の心ある方々に訴えずんば已まずとの熱き思ひからであつた。
過去にも同じ思ひで立ち上がつた事があった。学生時代に反天皇勢力が渦巻く中で、天皇陛下御在位五十年奉祝の集会を企画し、毎日毎日昭和天皇の御製と日本近代史の真実をビラに書いて訴え、九州の各大学で戦後初めて天皇陛下万歳の声を轟かせた戦ひ。御在位六十年時に「赤誠奉祝五百日キャラバン隊」として一人一隊十名の青年で二年間全国津々浦々を廻り昭和天皇の御聖徳を訴えた戦い。更には今上陛下ご即位十年奉祝時に熊本国体に行幸啓された天皇皇后両陛下を盛大にお迎えし、七千名の奉祝式典、八千名の提灯行列、沿道奉迎時に配布した国旗の小旗十三万本といふ前代未聞の奉祝・奉迎を行つた事などが思ひ起こされる。
これらの超人的な活動の原動力になつたものこそが、昭和天皇や今上天皇に対する恋闕の情であり、日本人の血の中に脈打つ勤皇の精神であつた。
私は、今から十二年前に四十歳を迎えた時に自らの生き方を「わが信條」といふ五条項に定めた。
わ が 信 條 多久善郎
一、 吾人は、天皇を中心に戴くわが國體を、最高至上の生命と信じ、大御心の恢弘、御製の伝道の為、決死の努力を為す者也。
一、 吾人は、祖國の生命を護り来られし多くの先人達の高く貴き御志、とりわけ英霊の方々の純粋なる御心を伝へ、その名誉を守る為死力を尽す者也。
一、 吾人は、松陰先生・南洲先生を最も深く尊敬し、その遺文を心読し、両先生の御精神を自らに体現せんと、心底より志す者也。
一、 吾人は、しきしまの道の道統に連なり、和歌を学び詠み行く中で、歌魂剣心の境地を開拓せんと志す者也。
一、 吾人は、機縁により出会ひ、心境を一転せしめし、陽明学の奥義を極むべく、自らを平成の陽明学者と自任する者である。
私にとつては、「不惑」の年に定めたこの「わが信條」の言葉が自らの人生を導く大道となつてゐる。そして、この第一条項こそがわが勤皇心の源なのである。
私達は、日本会議を設立する事により、国家を動かすに足る大きな力を形成しつつある。実際今回の皇室典範改正問題では、改悪を阻止する国会勢力を生み出した。だが、吾々の歩みにも増して日本社会の崩壊は加速度的に進行し、今回の危機的な事態が齎されたのである。このままで日本は本当に救へるのだらうか。日本会議の組織力は今のままで良いのだらうか。日本会議の実力が今大きく問はれてゐる。それ故にこそ、全国の同志に是非日本会議と共に万世一系の皇統護持の為に立ち上がつてもらひたい。その為に自己変革を課し、祖国日本の為に捧ぐべく魂を更に高めてもらひたいと願ふ。
御在位六十年奉祝運動の時、昭和天皇の御聖徳を訴える日々が続き声が出なくなった時に私は次の歌を詠んだ。
のどは枯れ声は出ずともすめらぎのおんこと語らむいくたびとても
今や、日本は万世一系の皇統を護持出来るか否かの重大な岐路に立たされてゐる。かつてのような反天皇論ではなく、皇室の伝統を変容させる事によつて、皇室の自然消滅を計らんとの奸計が行われてゐるのだ。今こそ、皇室の歴史、皇室を戴く日本人の幸せ、世界中から讃えられる万世一系の意義について、私たちは声を大にして訴えて行かねばならない。
最後に幕末維新の志士佐久良東雄の歌から、今肝に銘ずべきものを紹介する。
かゝる時心長閑(のどか)にある民は木にも草にも劣りてあるべき
何事を成して果てゝば顕(うつそ)身(み)の世に生(あれ)出(いで)し験(しるし)はあらむ
皇(きみ)がため四方(よも)の丈夫(ますらを)筆捨てて兵(つはもの)とらむ時ぞこの時
―その戦ひと精神(九)
今再び恋闕の情を共に燃え上がらせん
皇室典範改正問題は、地方に住む多くの勤皇の人々の意識を喚起しつつある。熊本では、二月十八日に皇室の伝統を守る県民集会が開催され約八百名が集まつた。土曜夜の集会であつたが、女性の方も多く、熱心に耳を傾けてをられた。熊本では、昨年十二月から約二十団体で実行委員会を組織してこの問題への対応を協議してきた。国会情勢の推移と共に集会名称も変はり「皇室典範改悪阻止県民集会」から「皇室典範の拙速な改定に反対する県民集会」更には「皇室の伝統を守る県民集会」へと三転した。この間、多くの方が国会議員一人一人に手紙やFAXを送つて下さり大きな影響を与えた。又、カンパを寄せて下さる方や新聞広告の為の資金提供を申し出て下さる方も現れ、名も無き「勤皇の人」の存在が実感される日々であつた。集会当日も、病院経営者の方や保育園と福祉施設の経営者の方が職員にも解らせたいと、多数連れて参加して下さつた。
更には、集会終了後も高校同窓会や自民党女性部、ロータリークラブなどから皇室典範について話して欲しいとの依頼が寄せられてゐる。皇室の伝統を自分の周りの一般の方々に解つて欲しいとの願ひからその様な場を積極的に作つて下さるのである。皇室典範問題の集会を企画し、開催する事によつて「勤皇の心」が次々と伝播して日本人が日本に回帰しつつある。
熊本での感動が覚めやらぬまま私は、翌日の二月十九日から三月二日にかけて中国五県・四国四県訪問の旅に出発した。この十一泊十二日に及ぶ訪問の間、日本協議会の中国ブロック会議・四国ブロック会議、五県での講演(国民運動セミナー・皇室典範問題集会・日本協議会徳島県支部結成式典)、九県に於ける日本会議県本部役員会を行つた。広島や岡山でも皇室典範問題への取り組みが行はわれ、勤皇の輪が着実に広がりつつあった。私が、この様に長期に亘つて各県を訪問するのは、昭和六十一年夏の全国縦断キャラバン隊隊長、更には平成二年冬の皇紀二千六百五十年奉祝御神火行進隊長以来で、実に十六年ぶりの事であつた。かく行動せしめたものは、皇室典範問題への決起を全国の心ある方々に訴えずんば已まずとの熱き思ひからであつた。
過去にも同じ思ひで立ち上がつた事があった。学生時代に反天皇勢力が渦巻く中で、天皇陛下御在位五十年奉祝の集会を企画し、毎日毎日昭和天皇の御製と日本近代史の真実をビラに書いて訴え、九州の各大学で戦後初めて天皇陛下万歳の声を轟かせた戦ひ。御在位六十年時に「赤誠奉祝五百日キャラバン隊」として一人一隊十名の青年で二年間全国津々浦々を廻り昭和天皇の御聖徳を訴えた戦い。更には今上陛下ご即位十年奉祝時に熊本国体に行幸啓された天皇皇后両陛下を盛大にお迎えし、七千名の奉祝式典、八千名の提灯行列、沿道奉迎時に配布した国旗の小旗十三万本といふ前代未聞の奉祝・奉迎を行つた事などが思ひ起こされる。
これらの超人的な活動の原動力になつたものこそが、昭和天皇や今上天皇に対する恋闕の情であり、日本人の血の中に脈打つ勤皇の精神であつた。
私は、今から十二年前に四十歳を迎えた時に自らの生き方を「わが信條」といふ五条項に定めた。
わ が 信 條 多久善郎
一、 吾人は、天皇を中心に戴くわが國體を、最高至上の生命と信じ、大御心の恢弘、御製の伝道の為、決死の努力を為す者也。
一、 吾人は、祖國の生命を護り来られし多くの先人達の高く貴き御志、とりわけ英霊の方々の純粋なる御心を伝へ、その名誉を守る為死力を尽す者也。
一、 吾人は、松陰先生・南洲先生を最も深く尊敬し、その遺文を心読し、両先生の御精神を自らに体現せんと、心底より志す者也。
一、 吾人は、しきしまの道の道統に連なり、和歌を学び詠み行く中で、歌魂剣心の境地を開拓せんと志す者也。
一、 吾人は、機縁により出会ひ、心境を一転せしめし、陽明学の奥義を極むべく、自らを平成の陽明学者と自任する者である。
私にとつては、「不惑」の年に定めたこの「わが信條」の言葉が自らの人生を導く大道となつてゐる。そして、この第一条項こそがわが勤皇心の源なのである。
私達は、日本会議を設立する事により、国家を動かすに足る大きな力を形成しつつある。実際今回の皇室典範改正問題では、改悪を阻止する国会勢力を生み出した。だが、吾々の歩みにも増して日本社会の崩壊は加速度的に進行し、今回の危機的な事態が齎されたのである。このままで日本は本当に救へるのだらうか。日本会議の組織力は今のままで良いのだらうか。日本会議の実力が今大きく問はれてゐる。それ故にこそ、全国の同志に是非日本会議と共に万世一系の皇統護持の為に立ち上がつてもらひたい。その為に自己変革を課し、祖国日本の為に捧ぐべく魂を更に高めてもらひたいと願ふ。
御在位六十年奉祝運動の時、昭和天皇の御聖徳を訴える日々が続き声が出なくなった時に私は次の歌を詠んだ。
のどは枯れ声は出ずともすめらぎのおんこと語らむいくたびとても
今や、日本は万世一系の皇統を護持出来るか否かの重大な岐路に立たされてゐる。かつてのような反天皇論ではなく、皇室の伝統を変容させる事によつて、皇室の自然消滅を計らんとの奸計が行われてゐるのだ。今こそ、皇室の歴史、皇室を戴く日本人の幸せ、世界中から讃えられる万世一系の意義について、私たちは声を大にして訴えて行かねばならない。
最後に幕末維新の志士佐久良東雄の歌から、今肝に銘ずべきものを紹介する。
かゝる時心長閑(のどか)にある民は木にも草にも劣りてあるべき
何事を成して果てゝば顕(うつそ)身(み)の世に生(あれ)出(いで)し験(しるし)はあらむ
皇(きみ)がため四方(よも)の丈夫(ますらを)筆捨てて兵(つはもの)とらむ時ぞこの時
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