「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その23 「山岡鉄舟」その1

2014-08-12 09:29:50 | 【連載】武士道の言葉
山岡鉄舟 その一(『祖国と青年』平成26年6月号掲載)

天が私を使ってこの事(西郷隆盛との談判)を為さしめたのである。

是れ余が力にあらざるなり。天吾をして此挙に出でしめずんば、安ぞ私人の力、能く茲に至らんや。
(「戊辰の変余が報国の端緒」明治二年八月)

 慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、徳川慶喜を討伐すべく東海道・中山道へと軍を進めた。徳川慶喜は、朝廷に対し恭順の意を表わしていたが、勢いに乗る官軍は江戸城を実力で奪取すべく江戸に迫っていた。

そこで慶喜は勝海舟等と相談して、官軍の本営に使者を送って和睦の道を探ろうと考えた。だが、今日と違って通信手段は発達していない。雲霞の如く押し寄せる官軍の中に分け入って直接交渉を行うしか方法はなかった。そこで選ばれた使者が「剣術使い」の山岡鉄舟(鉄太郎)だった。

 海舟の計らいで案内役に薩摩藩の益満休之助を得て、二人で官軍の中を突き進んで駿府に居た官軍参謀・西郷隆盛との直接談判に見事成功する。

鉄舟は、慶喜の恭順の意志の間違いない事、もし江戸が戦火となれば天下は大乱となり、日本国の存立そのものが危うくなることを述べて、幕府側の受け入れ可能な寛大なる措置を求めた。

山岡鉄舟の至誠に動かされた西郷はその事を了承する。二人の間に生まれた「信」が、この後の江戸城無血開城へと結実して行くのである。

 最終的な合意は、江戸に歩を進めた西郷と幕府側代表の勝との間成ったが、その場には鉄舟も同席していた。しかし聖徳記念絵画館の「江戸開城談判」画には鉄舟の姿は描かれていない

。自らの効を誇る事のない鉄舟は、これらの事をあまり人には語らなかった。

そして、「これは私の力で行ったのではない。天が私を使って此の事を成し遂げさせたのでなければ、何で一私人の力でこの様な大業に至る事ができようか」と述べている。

歴史的な大業を成就する為に天は、必ず相応しい人を生み出す。現在、わが国の外交と防衛に画期的な指針を確立し、戦後レジーム(占領憲法体制)に風穴を開けつつある安倍首相もその一人に相違ない。








ことさらに外見を飾りたてる人間は、心にやましさがあるからなのだ

殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得可く候 (「修身二十則」嘉永三年正月行年十五歳の春謹記)

 山岡鉄舟は、天保七年(1836)江戸で、幕臣の家に生まれた。武術を重んじる家柄だった為、幼い頃より剣術や槍術に励んだ。父母の教えにより「忠孝」の道を志し、十三歳からは剣に加えて禅の修行にも打ち込むようになる。

嘉永三年正月、十五歳の鉄舟は自ら「修身二十則」を記して求道の手引きとした。

一、 嘘を言ってはいけない。

一、 主君の御恩を忘れてはならない 。

一、 父母の御恩を忘れてはならない。

一、 先生の御恩を忘れてはならない。

一、 人から受けた恩を忘れてはならない。

一、 神仏と長者を粗末にしてはならない。

一、幼い者をあなどってはいけない。

一、 自分の心に照らして良くない事は、人に求めてはいけない。

一、 腹を立てるのは人の道ではない。

一、 何事でも不幸な事を喜んではならない。

一、 力の及ぶ限り、善い方につくす事。

一、 他をかえりみずに、自分の好きな事ばかりしてはならない。

一、 食事の度に、食べ過ぎの災いを思え。草木土石でも粗末にしてはならない。

一、 殊更に着物を飾ったり、上辺を繕う者は、心に濁りがあるからである。

一、 礼儀を乱してはならない。

一、いつでも誰にでも、お客に接する様に丁寧に応対せよ。

一、自分の知らない事は、相手が誰であっても教えてもらう様にせよ。

一、 名誉や利益の為に、学問や技術を身につけるべきではない。

一、 人には出来る事出来ない事がある。一概に人を見下したり笑ったりしてはいけない。

一、 自分の善行を誇り顔に人に知らせてはならない。全て、自分の心に恥じない様に務める事。

 明治維新後の鉄舟は、天皇の侍従など社会的名声の伴う立場へと推挙されて行くが、終生この「修身二十則」を守り続けた。

来客する者は必ず迎え入れ、畳に頭をつけて丁寧にお辞儀をしたという。鉄舟は心の内面の充実のみを希求した。それ故、若い時には「ぼろ鉄」と綽名される位貧窮する中で修行に励み、その時代の事を生涯忘れず質素に生きた。正に「ぼろは着てても心は錦」を地で行った生涯だった。






神道・儒教・仏教、これら三つの道の融合した「道念」を「武士道」という

我が邦人に、一種微妙の道念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付けて武士道と云ふ。
(「武士道」万延元年三月二十日・二十五歳)

 剣と禅とに打ち込む中で鉄舟は、自分の心のあり様を追求し、自分の生命の根源を探求して行った。

安政五年、二十三歳の鉄舟は「宇宙と人間」について論じる一文を記している。その中で自分と宇宙とは本質的には同じである事、宇宙界の中に一定不変の道理が存在する事を書いている。その上で、宇宙の中の地球、地球の中の日本、日本の中の「武門」に属する自分のあり方について考察している。鉄舟は、自分の中にも存在している宇宙の道理を見出す為に、日々修行に明け暮れていたのだった。

 当時の武士達は、四書五経(儒学)を幼い頃から学び、神道や国学をも学んでいた。鉄舟の場合は、それに加えて禅(仏教)の哲理の深い学びが加わっている。学問の積み重ねの中で鉄舟は、自らが追い求める日本人の道を「武士道」と呼び、武士道こそが最高の真理であり、生涯をかけて求むべき「道」だと確信した。

二十五歳の時に記した文章には次のように書かれている。

「日本人には一種微妙なる『道念(人の生き方を求める思い)』がある。それは神道や儒道、仏道の事を指しているのではない。神道・儒教・仏教の三つの道が融合して生まれたものであって、わが国の中世以来もっぱら武家に於て培われてきた道である。それを私は『武士道』と名付ける。」と。

神道・儒教・仏教単独では無く、それらの全てを融合させた世界観を鉄舟は「武士道」として自分の人生目標に定めたのである。

 古代からの日本人の世界観は神道として現在でも脈々と続いている。日本には次々と外来文明が伝来し、その代表的なものが仏教と儒教だった。だが仏教や儒教は、日本人に広がり浸透して行くにつれて、日本化、則ち神道と融合して日本独自の仏教と儒教が生まれた。

 今日でも、日本人は違和感なく神社と仏閣とを参拝し、神様と仏様に手を合わせている。更には、日本人の道徳や生き方を導く格言や諺には、儒教を中心とするシナ古典や仏典の名言が多数含まれ、私達の精神生活の導きの栞となっている。
戦後六十九年の精神的空白の中で日本人は再び「武士道」に着目し始めている。それは、山岡鉄舟が言う様に、日本人独特の「道念」が為せる業であり、神儒仏融合の中で育まれた日本人の精神的な高貴さが求められているからに他ならない。







眼の輝きに魂が現われる

眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず
(清水の次郎長に書き与えた書)

 山岡鉄舟と清水の次郎長とは、鉄舟が駿府の西郷隆盛に談判に赴いた際に、次郎長の手助けを借りたのが縁となり、親交は鉄舟が亡くなる迄続いた。次郎長は十七歳年下の鉄舟に心酔し、「自分の親分は山岡鉄舟だ」と語っていたという。

ある時、次郎長が鉄舟に対して「剣術なんてたいして役には立たない。自分の体験では、刀を持って相手に向うとよく怪我をするが、刀を抜かずににらみつけると、たいてい相手は逃げ出してしまう。」と述べた。鉄舟は次郎長に長刀を持たせて打ち掛かる様に言い、自分は短い木刀を持って坐っていた。だが次郎長はどうしても打ち掛かる事が出来ずにすくんでしまった。そこで、その事を述べると鉄舟は、「お前が相手を睨みつけてすくませるのと同じだ。その時はお前の眼から光が出ているのだ。」と言い、「お前が剣術を稽古すれば、更に眼から光が出る様になる。」と述べて「眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず」と書き与えたと言う。

 私は、自室の手鏡の横に、この「眼不放光輝非大丈夫」の文字を記して長いが、武道の修練が未熟な故に、中々目から光を放つ迄には至らないでいる。それ故ここでは、眼、光輝を発するに至る前提としての「気」の充実について記したい。

 武道では「気」の戦いという事が言われる。「気」が途切れたり、「気」が抜けたりする事は厳禁である。太刀や杖の先から気が出て相手を圧倒できる迄の修練が求められる。日本人は武道の修練を通して「元気」を培い、「気合」を以て偉大なる事を難し遂げて来たのである。その「気」は眼、更に言えば瞳に表されて、眼光の鋭さや輝きが人物評価となる訳である。

その事を孟子は、「其の言を聴きて、其の眸子を観れば、人焉ぞ廋さんや。」と述べている。言葉を良く聴いて、其の瞳を見れば、相手の人物が解るという意味である。

「澄んだ瞳」は「澄んだ心」の表れであり、「濁った瞳」は「濁った心」の表れとなる。心に隠し事があれば、瞳は落ち着かず、心の不安は瞳を虚ろにしてしまう。「澄んだ輝く瞳」を備えるには、澄み切った心境と輝く志を抱き、その事が生き方に反映され、日常に積み重ねられていなければならない。鉄舟のこの言葉は鉄舟の激しい生き方そのものなのである。

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2 コメント

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『国会議員の神聖な責務「国防」』 (豊岳正彦)
2021-03-03 11:56:54
hougakumasahiko.muragon.com/entry/147.html
【日本国憲法41条立法府国会議員の国政調査が真の国防を成就する武士の魂護国の刀である】
blog.goo.ne.jp/hougakumasahiko6th/e/b637479f9919c9828e496b7eeaaff8df
令和3年3月3日首相官邸ホワイトハウスネットメディアに送信。
『青山繁晴チャンネル【ぼくらの国会・第116回】ニュースの尻尾「誰が『軍艦島』を捏造したのか」』
youtube.com/watch?v=AC1L3CuV3Pc
豊岳正彦1 時間前(編集済み)
「NHKとは何か」を国会議員を集めて公開勉強会すれば1時間で正体がわかりますよ。
NHKは現在、日米密約安保条約米軍地位協定治外法権と同じ国連外交官治外法権を有するイスラエルモサドです。

日米安保条約はサンフランシスコ国際講和条約と同日に、
当時の吉田茂総理が単独で国際講和会議会場を離れて秘密裏に米国内空軍基地の士官室で米軍将校と単身署名密約した、
日本国の国会でも合衆国国会でも条約内容の審議が為されてない国際法違反の二国間密約だから、
国際法で正当と認められる憲法98条の国際条約ではありません。
即ち日米安保条約は現在も日本国最高法規憲法98条違反です。

豊岳正彦43 分前(編集済み)
北方領土も竹島も尖閣もすべてNHKが事実を隠ぺいして日本国民に捏造報道した反人道戦争犯罪のたまものです。
放送法と日本学術会議法という2つのGHQ立法が日本国憲法41条違反の違憲立法であり、
その違憲立法を極東軍事裁判の設営に喜々として協力した東大法学部卒の売国官吏が全員送り込まれた最高裁で、
憲法81条に最初から違反して憲法施行以来一度も違憲立法審査したことがない国家反逆外患職務怠慢汚職裁判官どもによって、
憲法違反のまま放送法総務省行政させている奇形司法もまた、
戦後日本のGHQ国際法違反反人道占領統治(GHQののちイスラエルモサドが交替した)の最初から、
放送法と日本学術会議法(文科省)が犯し続けている国家反逆外患誘致罪の一味同心なのです。

豊岳正彦34 分前(編集済み)
現在5類感染症以下の低レベル感染症であるコロナウイルス鼻かぜを、
頑強にペストやコレラの致死性流行性細菌による2類感染症と同等であるとして、
こどもでもわかる事実に反する明らかな捏造報道を全世界に向けて繰り返している大元の真犯人が、
まさにNHKそのものであることも、
今回のこの軍艦島の研究で明らかに証明されたでしょ。
NHKが悠久の大和国の歴史上最悪の獅子身中の虫です。
日本国憲法41条違反違憲立法「放送法」を日本政府内閣総理大臣は直ちに総理大臣職務権限で廃法しなければならず、
廃法しなければ総理大臣が日本国憲法15条が命じる全体奉仕責務に違反する憲法最高法規99条違反の特別公務員職権乱用汚職の罪と、
国民に対する憲法違反の暴行陵虐罪という特別公務員汚職刑事犯罪に問われることになりますよ。
その場合全ての日本国国会議員が総理大臣すなわち衆議院議員と立法府国会で癒着談合した共謀共同正犯の汚職犯罪者になってしまいます。
国会議員青山先生、立法府公務員に日本国憲法が付与した国政調査権を使って、
「NHKとは何か」を全世界に公開で明らかにする国会議員全員の研究会を躊躇逡巡無く即刻開催して下さい。
1時間で日本の内乱外患スパイ犯罪が全て一掃できます。
これが真の国会議員選良による日本国の真の国防です。

豊岳正彦13 分前(編集済み)
日本の国は宇宙とともに悠久の大昔から、
文武両道老若男女が親孝行親切武士道を歩んで代々働いて子育てして暮らす、
三つ子の魂百までの躾を受けた和を以て貴しとなす十七条憲法民のかまどの、
塩と茶に恵まれた竜宮海幸と稲作山幸の成等正覚豊秋津洲大和国ですから。
返信する
「家康(すこ)やかにして国安らぐ」 (豊岳正彦)
2021-02-21 20:17:40
【仏教聖典第237版 ほとけ 勝(すぐ)れた徳】
hougakumasahiko.muragon.com/entry/146.html
首相官邸ホワイトハウスインターネットメディアへメール送信
「 国家安康の言霊」
 原初生命は海を母胎として父なる太陽の光が降り注ぐ地表の浅い海で生じました。
 人は誰もが父親と母親の間に児として生まれ元服成人して人の親となります。
親思う心にまさる親心(吉田松陰)
味噌汁は命育む母の手よ焙じ茶番茶は父の楯也(私作)
 戦国の覇者信長秀吉家康は海山が広がる中部地方の生まれですが、
天寿を全うし国を安らげたのは東海の家康です。
東海は海の幸の塩と山の幸のお茶が鎌倉時代から栽培されていました。
塩は身体を温めて動物が元気に動く活力の源です。
お茶の葉のカテキンはあらゆるウイルスを身体の内外で消毒不活化します。
 三人のうち幼児期天然痘に罹って死にかけたのは家康ですが、
乳母が己を捨てた親心で懸命に看護したお蔭で無事快復し元服成人できた家康は、
死ぬまで乳母が施してくれた親心の深く高い恩を忘れず、
報恩感謝の心で15代250年戦を止め日本国の天下万民を安んじた徳川幕府の祖となりました。
 子孫の我々も神君家康権現ご先祖様に学び習って、
塩とお茶の山海鍋を囲む和やかな団欒で一家全員康(すこ)やかに、
日光をたっぷり浴びて屋外で元気に働く勤勉な晴耕雨読で銘々が互いに親切し合い感謝し合って、
天下無双島国日本から地球国家を安んじましょう。
家康やかにして国安らぐ。

hougakumasahiko.muragon.com/entry/127.html
___

竹千代時代天然痘に罹った話
youtube.com/watch?v=UpNn3rThfE8
【伝説】徳川家康 影武者説の真実『徳川の歴史から消された異母兄弟・穎新』、少年時代の竹千代を難病から命懸けで救った『侍女・於松の悲話』「早わかり歴史授業36 徳川家康シリーズ4」日本史 - YouTube

家康は天下を仏法仏道で治めるために幕府を開いた話
youtube.com/watch?v=V1kF1Z2rlJc
信長との桶狭間の戦いの敗戦から岡崎城主へ 徳川家康の人質生活から自立「早わかり歴史授業38 天下人 徳川家康シリーズ6」日本史 - YouTube
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