「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

石門心学・中澤道二に学ぶ④

2021-12-21 18:02:52 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第八十四回(令和3年12月21日)
石門心学・中澤道二に学ぶ④
「慎みを人の心の根とすれば詞(ことば)の花も美しくさく」
             (『道二翁道話』続編初編巻之下)

 道二は、人間、奉公の時や嫁入りの時も、初めは慎みを以て物事に用心深く対処するから、「よい人だ」「正直だ」との評判が良いが、だんだん慣れて来ると油断が生じ、「慎みの垣をやぶりかけて」ついつ人の悪口を言ってしまい、それが広がって逆に自らを苦しめる様になる事を述べて、次の道歌を示している。

 慎みを人の心の根とすれば詞の花も美しくさく

 慎みは朝夕なるゝ言の葉のかりそめ草の上にこそあれ

詞=言葉は心の表現であり、美しい丁寧な言葉を使い慣れれば心は美しく保てるが、いい加減な言葉や雑駁な言葉を常用すれば、心もその様になってしまう。二首目にある様に、朝夕慣れて使うちょっとした言葉のはしばしに「慎み」が必要なのである。道二は言う「このかりそめな事が怖い。かりそめな事でも、大事大事と慎めば、いい加減な事は出来なくなる。慎みと言うと貴人高位の人の前で必要だと思っているかもしれないが、その時には自然と慎しみは出る。慎み敬うというのは、平生の事。慎みは朝夕の言葉の事を言うのです。」と。

 慎みの心を失うと、心の中の鬼がはびこって来るとも道二は指摘する。

道二は、人の心の中の姿を五月幟の「鍾馗(しょうき)」と「鬼」の絵に例えて、話をする。

「鍾馗が力んでいると、その側で鬼が小さくなっている。あれが性(本性)に従う所の絵です。あの鍾馗と鬼とは、皆人々の腹の内に、本心が鍾馗、私心が鬼」

「悪は全て身勝手身びいきから出る。この身びいきの心を捨てると、初めて本真の安楽になることが出来る。此の鬼は釈迦にも君子にもある。君子にも鬼はあるが、君子は鬼を自由に使う事が出来る。そこで鬼は小さくなって、はいはいと使われておる。小人はあちらこちらで、鬼に使われている。君子も仏も形のある内は、鬼も天邪鬼もあって、折々出かけて邪魔しても、ぽいとほかしてよせつけぬ。又邪魔しに出ると、また出るか出るかと言って、鬼を𠮟りつけてお仕置きなされる。お前方は鬼に負け通し、鬼の言う事をはいはいと用いて、苦しい思いをする。それで鬼が大きくなって力む。」

「必ず必ず鬼に負けぬ様にするが良い。見ては取られ、聞いては取られ、とにかく鬼が駆け出す。見たら見たぎり、聞いたら聞いたなり、ひょっと向こうへ取られそうに成ったら、鬼が出たと思い、念仏題目ではらいのける様にするが良い。念仏題目は無明の利剣、即ち鍾馗の剣、あの剣で鬼を切り平らげねば役に立たぬ。この鍾馗に対面する為に心学がある。」

 道二は、本心と欲の関係を常に解り易い譬えを使って説明し、聞く者が心底、本心を取り戻す志が生まれて来る様に語り続けた。


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