「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

石門心学・中澤道二に学ぶ⑤「元日やまたうかうかの始(はじめ)かな」

2021-12-28 15:36:24 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第八十五回(令和3年12月28日)
石門心学・中澤道二に学ぶ⑤
「元日やまたうかうかの始(はじめ)かな」
     (『道二翁道話』初編巻之上)

 令和3年も余すところ三日となった。そこで、今回は『道二翁道話』の中で「元日」について触れてある話を紹介しよう。

 道二は、ある発句に「元日やまたうかうかの始かな」とあるのを紹介して次の様に戒める。

「口ばかり祝っても、またうかうかのはじめかな。形と着物ばかりが正月で、腹の中には、何が欲しい、かにが欲しい、どうしたい、こうしたい、と(物欲による)災いの数が増えるばかりじゃ。又、松は千歳の齢というのに、可哀そうに、松の稚児を引き抜いて門口の柱に釘で打ち付けて、千歳の寿目出たいなどと言っている。松に成って見たら良い、松のはりつけじゃ、あやかって良いものか。皆死にたくないから長寿にたぐえてこの様な事を為す、病気じゃ。正月の儀式と言うのは、大切な事である。ある人の話に、正月の儀式は、大体神代の昔を尊んで、清浄潔白に身を慎み、正直質素の風儀を学ぶのじゃと有る。その様な事は棚に上げて置いて、そろそろ正月前から、ホンホンしかける。今年の御礼には、何をせねばならぬと慌てかける。女中の中には正月の衣装で気違いに成る人も居る。男達は浮かれて怠ける事ばかり考える。」

「その様な欲望にかまけている姿を見た一休和尚は、人々の目を覚ませてやろうと、元日に大慈大悲の舎利頭(しゃりこうべ)を竹の先に付けて、京都の洛中の家々を訪ねて、門口から「人間臭の無いこのしゃりこうべこそ真にかたじけないもの、元日だからと言って他に何らめでたいものはないはず。」と説いて回られた。本当にこの通りじゃ。誠に有難いお示しじゃ。人は悪念妄想を去れば、このしゃりこうべの様に清浄で、少しの穢れ不浄も無く、是ほど目出度い人の道はないのに、凡夫は此の心を知らず、ただ今日の名聞利欲にふけり、おごり高ぶりて、何が欲しいかにが欲しいと、悪念の増長するのを楽しみと思っているのは、全く不便千万な事じゃ。(略)物欲にかまけている凡夫は、心を明らめる事は知らず、一休の真意がわからず、しゃりこうべが気になって、あの忌々しい気違い坊主が来たと家々に門を閉めたとの事じゃ。ただ、蜷川新左衛門のみは、一休を招き入れて、このしゃりこうべと盃をしたという。死を極めた事ほど目出度い事は無い。この露の身を良く覚悟したものである。」

 道二も一休も、人々は正月正月と言って騒いでいるが、形ばかり正月を祝っても、ただ物欲のみを増長させ、なんら人間としての生長も無く、いたずらに齢を重ねて行く庶民の姿を見て「またうかうかの始めかな」と嘆いているのである。

 私達も、年々ただ齢を重ねるのでは無く、自らの心を、より「高く」「深く」「広く」「強く」「清く」「明るく」為して行きたいものである。心の修業に終わりは無い。本当の自分(石門心学に言う本心、陽明学に言う良知)を磨き出す為に、強い決意を持って令和4年の元旦を迎えようではありませんか。

尚、来春に『先哲に学ぶ行動哲学』(平成26年出版・絶版)の改訂増補版を22世紀アートから電子書籍として出す事と成りました。そこで、一月から三月迄は、その改訂増補作業に火曜日は費やしますので、このブログ「道の学問・心の学問」の連載は、休止します。電子版の原稿が完成し作業が終了次第、再び火曜日のこの連載は開始致します。 


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