「武士道の言葉」第三十三回 大東亜戦争・アジア解放 その2(『祖国と青年』27年4月号掲載)
混乱する中国に平穏な状態をもたらし、アジアの安定ひいては世界平和を実現する
期する所は、中國を保全、而て東亞久安の策を定め、宇内永和の計を立つるに在り(東亜同文書院「興學要旨」)
日本はアジアの東端に位置している。それ故、アジアの安定と平和は、わが国が生存して行く為にも無視する事の出来ない重要な課題であった。
そこで先人達は、わが国とアジア諸国との懸け橋になる人材の養成に取り組み、その中で育った人物がアジア各地の様々な場で活躍し、日本の国策を支えて来た。
わが国にとって最初の試練は日清戦争だった。その終結後に、南京同文書院を経て上海に設立されたのが「東亜同文書院」である。
実は、私の大叔父の義父である宗方小太郎が、その設立と運営に拘っている。又、私の伯父である田邊寛三郎は、熊本の済々黌から東亜同文書院に進み、戦後は熊本県庁で日中親善に尽力している。その伯父は「蒙古放浪の歌」を好んで唄い、熊本愛酒家番附の横綱に記される程の豪傑だった。
東亜同文書院は「興學要旨」と「立教綱領」を定めて、儒学的な素養に基づく実学を目標に、シナ語を取得させて日中の相互理解と協力を担える人材を育てた。あくまでも「國家有用の士、当世必需の才と成る」日本人を育てた。当今外務省の身も魂も奪われた「チャイナスクール」とはその質を異にしていた。
同文書院の学生には最終年の半年を使って、支那大陸の各地をグループで調査探検する「大旅行」が課せられ、その膨大な記録は『支那省別全誌』全十八巻として纏められるなど、学術的にも高く評価され、日本の国策にも寄与した。それらは今日、藤田佳久氏の手によって『東亜同文書院 中国調査旅行記録』全五巻として不二出版から出されているが、それらの記録を読むと、当時の大学生達の様々な体験報告により、当時の時代状況が解りかつ日本と中国との文化の違いなども見えて来る。
この様な体験を積んだ者達が戦中・戦後の日中関係を支えたのである。
自分の日常の姿で、日本人とは何かをアジア諸民族に示せ
日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。(東亜経済調査局附属研究所二期生卒業式での大川周明所長訓示より)
昭和十三年、わが国の将来に亘る東南アジア政策を見据えて、東南アジア・インド・イスラム圏との懸け橋となる人材を養成する為に発足したのが東亜経済調査局附属研究所(通称「大川塾」)である。
その所長にはアジア主義を唱える稀代の思想家・大川周明が就任した。
開設の目的は「将来、日本の躍進、発展に備うる為海外各地に派遣し、満壱拾年間当研究所の指定する公私機関に勤務しつつ、該地の政治、経済及び諸般の事情を調査、研究し当研究所に定時報告を提出せしめ、且つ一旦緩急あれば必要なる公務に服せしむる目的を以て青年を訓育す。」とある。全寮制の教育機関で、修業年限二年制、学費・必要経費一切無料(満鉄・外務省・陸軍が出資)だった。
選考基準には、
①身体強健にして激務に耐え得る者
②意志鞏固にして責任感強く、困苦欠乏に堪え得る者
③秘密を厳守し得る者
④数理的才能を有する者
⑤家庭的繋累少なき者
⑥親権者の同意を得たる者、
とある。語学教育が徹底的に重視され、専攻する言語によって班分けされた。
【第一期生】タイ班(英語・タイ語)仏領印度支那班(仏語・ベトナム語)蘭領印度支那班(蘭語・マレー語) 英領印度班(英語・ヒンドゥー語)
【第二期生】 アフガニスタン班(英語・ペルシャ語) イラン班(仏語・ペルシャ語)アラビア班(英語・アラビア語) トルコ班(英語・トルコ語)
と言う様に、植民地支配している国の欧米語と原住民語の双方を徹底して身に着けたのである。
大川所長の教育方針は二期生の卒業式での「送る言葉」に伺う事が出来る。
「諸君の任務は、一面において各地の綿密なる調査研究を進めて日本の亜細亜経綸に寄与すると同時に、他面において日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。
それには第一に、諸君は正直でなければならぬ。正直とは己を欺かず、人を欺かず、天を欺かざることである。
第二は、親切でなければならぬ。親切とは、誠実と慈悲を以て人に接することである。
この二つを行い得たならば、諸君は日本人として真面目を発揮し得ること間違いない。そして一人でも二人でも本当の友を現地人の中に見つけなさい。また、任地において趣味を見つけ、それを十年間続けることです。」
南機関長を慕うビルマの人々の謝意
父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く(鈴木敬司大佐の離緬によせてビルマ独立義勇軍から贈られた感謝状)
大東亜戦争開戦に先立つ昭和十六年二月一日、ビルマ(ミャンマー)の独立の援助と、援蒋ビルマ・ルートの遮断を目的に大本営直属の「南機関」が誕生し、機関長には鈴木敬司陸軍大佐が就任した。
四月から六月にかけて南機関は、ビルマの独立を目指すアウン・サン他のタキン党青年幹部三十名を日本に脱出させ、海南島で訓練する。その後、青年達はビルマ・タイ国境に潜入し、大東亜戦争開戦と共に、日本軍と協力してビルマ解放の為に進軍した。
そして、昭和十六年十二月二十八日、彼らが核となってビルマ独立義勇軍(BIA)が結成された(アウン・サンは後にビルマ建国の父と呼ばれ、今のミャンマーの民主化の指導者アウンサン・スーチーはその娘である。)。
ビルマには一つの民間伝承があった。それはイギリスに亡ぼされたアラウンパヤー王朝最期の王子が、ボ・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり太陽を背に東方からやって来て、ビルマを救出し解放する、というものだった。
そこで、鈴木機関長は白馬を使用し、住民達は鈴木機関長を雷帝(ボ・モージョ)と呼ぶようになった。
ビルマ解放後、ビルマの即時独立を求める民衆と時期尚早の日本陸軍との狭間で鈴木大佐は苦境に立たされ、昭和十七年七月には転任させられた。
その鈴木にビルマ独立義勇軍は感謝状を贈った。そこには、鈴木の理想と実践に対するビルマ人の真心が綴られている。
「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド、ビルマ、中国、マラヤ、フィリピン、スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々の為にも、闘ったのである。(略)
父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く、雷将軍は真の情愛をもって、ビルマ独立軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員の事に心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、この事を忘れる事は決して無い。(略)
ビルマの為にこの様な骨折りをした雷将軍は、いまや日本に帰らんとしている。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末長く懐かしむ。
将軍のビルマ国への貢献も、何時までも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶ事は無い。」
独立できる力を自ら身につけよ!
独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。(インドネシア・タンゲラン青年道場 柳川宗成中尉訓話)
昭和十七年三月一日、インドネシアに進撃した日本軍に対しオランダ軍は殆ど抵抗できずに敗北を重ね、わずか九日間で降伏した。その様は三五〇年もの長きに亘って支配してきたオランダ人の幻想を粉々に打ち砕くものであった。
インドネシアでは独立を志す青年達が陸続と生れて来る。その青年達に独立の為の知識と技量を身につけさせる為、日本陸軍は教育機関を各地に設置し、そこで育った人材が後に、郷土防衛義勇軍(ペタ)の幹部となり、更には大東亜戦争終結後の独立戦争を戦い抜く主体者となって行く。
この青年教育機関の代表的なものがタンゲラン青年道場だった。
その中心者は拓殖大学出身で陸軍中野学校卒業の将校の柳川宗成中尉だった。
タンゲランに集まった約五十名のインドネシア青年に対し、柳川中尉は日々次の様に訓示した。
「独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。与えられたものはすぐに奪われる。諸君、自らの力が備われば、自然に独立は出来る。自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。
今の状態ではまず見込は全く無いと言えよう。要は諸君たちの今後の努力如何にある。黙々と自力を養うことだ。
それが為には、私達は全霊全魂を捧げる。私達に負けるな。私達に負けるような力では独立は出来ない。独立は諸君達が私達に如何にして勝つかにある。一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ちこめ。」と。
そして教官達にも「滅私奉公の垂範」を求め、「大東亜戦争の真の意義に徹す」事を強調した。教官達は最初の三か月間は全くの休暇・外出無しで教育に当った。
当時の生徒で後にインドネシア国軍大佐になったズルキフル・ルビスは、柳川からいつも言われていた事として、
「第一番は、精神です。何事も精神。これはことあるごとに絶えず言われました。第二に、お互いの友情を大切にしろ。第三は、ウソをつくな。そして第四番目は、勇気」をあげ、
「私たちは、独立宣言(一九四五年八月十七日)ののち、オランダと戦った。私たちは、柳川大尉のこの精神でたたかいました。敵をこわいと思ったことは、一度もありません。」と述べている。
抑圧されたアジア民族に対しかつての日本人は、深い同情と強い愛情を抱き真正面から向き合った。彼らの様な強烈なる感化力・教育力を持った教師が、現在の日本にどれ程存在するのであろうか。
混乱する中国に平穏な状態をもたらし、アジアの安定ひいては世界平和を実現する
期する所は、中國を保全、而て東亞久安の策を定め、宇内永和の計を立つるに在り(東亜同文書院「興學要旨」)
日本はアジアの東端に位置している。それ故、アジアの安定と平和は、わが国が生存して行く為にも無視する事の出来ない重要な課題であった。
そこで先人達は、わが国とアジア諸国との懸け橋になる人材の養成に取り組み、その中で育った人物がアジア各地の様々な場で活躍し、日本の国策を支えて来た。
わが国にとって最初の試練は日清戦争だった。その終結後に、南京同文書院を経て上海に設立されたのが「東亜同文書院」である。
実は、私の大叔父の義父である宗方小太郎が、その設立と運営に拘っている。又、私の伯父である田邊寛三郎は、熊本の済々黌から東亜同文書院に進み、戦後は熊本県庁で日中親善に尽力している。その伯父は「蒙古放浪の歌」を好んで唄い、熊本愛酒家番附の横綱に記される程の豪傑だった。
東亜同文書院は「興學要旨」と「立教綱領」を定めて、儒学的な素養に基づく実学を目標に、シナ語を取得させて日中の相互理解と協力を担える人材を育てた。あくまでも「國家有用の士、当世必需の才と成る」日本人を育てた。当今外務省の身も魂も奪われた「チャイナスクール」とはその質を異にしていた。
同文書院の学生には最終年の半年を使って、支那大陸の各地をグループで調査探検する「大旅行」が課せられ、その膨大な記録は『支那省別全誌』全十八巻として纏められるなど、学術的にも高く評価され、日本の国策にも寄与した。それらは今日、藤田佳久氏の手によって『東亜同文書院 中国調査旅行記録』全五巻として不二出版から出されているが、それらの記録を読むと、当時の大学生達の様々な体験報告により、当時の時代状況が解りかつ日本と中国との文化の違いなども見えて来る。
この様な体験を積んだ者達が戦中・戦後の日中関係を支えたのである。
自分の日常の姿で、日本人とは何かをアジア諸民族に示せ
日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。(東亜経済調査局附属研究所二期生卒業式での大川周明所長訓示より)
昭和十三年、わが国の将来に亘る東南アジア政策を見据えて、東南アジア・インド・イスラム圏との懸け橋となる人材を養成する為に発足したのが東亜経済調査局附属研究所(通称「大川塾」)である。
その所長にはアジア主義を唱える稀代の思想家・大川周明が就任した。
開設の目的は「将来、日本の躍進、発展に備うる為海外各地に派遣し、満壱拾年間当研究所の指定する公私機関に勤務しつつ、該地の政治、経済及び諸般の事情を調査、研究し当研究所に定時報告を提出せしめ、且つ一旦緩急あれば必要なる公務に服せしむる目的を以て青年を訓育す。」とある。全寮制の教育機関で、修業年限二年制、学費・必要経費一切無料(満鉄・外務省・陸軍が出資)だった。
選考基準には、
①身体強健にして激務に耐え得る者
②意志鞏固にして責任感強く、困苦欠乏に堪え得る者
③秘密を厳守し得る者
④数理的才能を有する者
⑤家庭的繋累少なき者
⑥親権者の同意を得たる者、
とある。語学教育が徹底的に重視され、専攻する言語によって班分けされた。
【第一期生】タイ班(英語・タイ語)仏領印度支那班(仏語・ベトナム語)蘭領印度支那班(蘭語・マレー語) 英領印度班(英語・ヒンドゥー語)
【第二期生】 アフガニスタン班(英語・ペルシャ語) イラン班(仏語・ペルシャ語)アラビア班(英語・アラビア語) トルコ班(英語・トルコ語)
と言う様に、植民地支配している国の欧米語と原住民語の双方を徹底して身に着けたのである。
大川所長の教育方針は二期生の卒業式での「送る言葉」に伺う事が出来る。
「諸君の任務は、一面において各地の綿密なる調査研究を進めて日本の亜細亜経綸に寄与すると同時に、他面において日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。
それには第一に、諸君は正直でなければならぬ。正直とは己を欺かず、人を欺かず、天を欺かざることである。
第二は、親切でなければならぬ。親切とは、誠実と慈悲を以て人に接することである。
この二つを行い得たならば、諸君は日本人として真面目を発揮し得ること間違いない。そして一人でも二人でも本当の友を現地人の中に見つけなさい。また、任地において趣味を見つけ、それを十年間続けることです。」
南機関長を慕うビルマの人々の謝意
父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く(鈴木敬司大佐の離緬によせてビルマ独立義勇軍から贈られた感謝状)
大東亜戦争開戦に先立つ昭和十六年二月一日、ビルマ(ミャンマー)の独立の援助と、援蒋ビルマ・ルートの遮断を目的に大本営直属の「南機関」が誕生し、機関長には鈴木敬司陸軍大佐が就任した。
四月から六月にかけて南機関は、ビルマの独立を目指すアウン・サン他のタキン党青年幹部三十名を日本に脱出させ、海南島で訓練する。その後、青年達はビルマ・タイ国境に潜入し、大東亜戦争開戦と共に、日本軍と協力してビルマ解放の為に進軍した。
そして、昭和十六年十二月二十八日、彼らが核となってビルマ独立義勇軍(BIA)が結成された(アウン・サンは後にビルマ建国の父と呼ばれ、今のミャンマーの民主化の指導者アウンサン・スーチーはその娘である。)。
ビルマには一つの民間伝承があった。それはイギリスに亡ぼされたアラウンパヤー王朝最期の王子が、ボ・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり太陽を背に東方からやって来て、ビルマを救出し解放する、というものだった。
そこで、鈴木機関長は白馬を使用し、住民達は鈴木機関長を雷帝(ボ・モージョ)と呼ぶようになった。
ビルマ解放後、ビルマの即時独立を求める民衆と時期尚早の日本陸軍との狭間で鈴木大佐は苦境に立たされ、昭和十七年七月には転任させられた。
その鈴木にビルマ独立義勇軍は感謝状を贈った。そこには、鈴木の理想と実践に対するビルマ人の真心が綴られている。
「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド、ビルマ、中国、マラヤ、フィリピン、スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々の為にも、闘ったのである。(略)
父親がその子供に教え諭すが如く、その子供を守るが如く、雷将軍は真の情愛をもって、ビルマ独立軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員の事に心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、この事を忘れる事は決して無い。(略)
ビルマの為にこの様な骨折りをした雷将軍は、いまや日本に帰らんとしている。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末長く懐かしむ。
将軍のビルマ国への貢献も、何時までも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶ事は無い。」
独立できる力を自ら身につけよ!
独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。(インドネシア・タンゲラン青年道場 柳川宗成中尉訓話)
昭和十七年三月一日、インドネシアに進撃した日本軍に対しオランダ軍は殆ど抵抗できずに敗北を重ね、わずか九日間で降伏した。その様は三五〇年もの長きに亘って支配してきたオランダ人の幻想を粉々に打ち砕くものであった。
インドネシアでは独立を志す青年達が陸続と生れて来る。その青年達に独立の為の知識と技量を身につけさせる為、日本陸軍は教育機関を各地に設置し、そこで育った人材が後に、郷土防衛義勇軍(ペタ)の幹部となり、更には大東亜戦争終結後の独立戦争を戦い抜く主体者となって行く。
この青年教育機関の代表的なものがタンゲラン青年道場だった。
その中心者は拓殖大学出身で陸軍中野学校卒業の将校の柳川宗成中尉だった。
タンゲランに集まった約五十名のインドネシア青年に対し、柳川中尉は日々次の様に訓示した。
「独立は自らの力で取るものであり、与えられるものではない。与えられたものはすぐに奪われる。諸君、自らの力が備われば、自然に独立は出来る。自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。
今の状態ではまず見込は全く無いと言えよう。要は諸君たちの今後の努力如何にある。黙々と自力を養うことだ。
それが為には、私達は全霊全魂を捧げる。私達に負けるな。私達に負けるような力では独立は出来ない。独立は諸君達が私達に如何にして勝つかにある。一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ちこめ。」と。
そして教官達にも「滅私奉公の垂範」を求め、「大東亜戦争の真の意義に徹す」事を強調した。教官達は最初の三か月間は全くの休暇・外出無しで教育に当った。
当時の生徒で後にインドネシア国軍大佐になったズルキフル・ルビスは、柳川からいつも言われていた事として、
「第一番は、精神です。何事も精神。これはことあるごとに絶えず言われました。第二に、お互いの友情を大切にしろ。第三は、ウソをつくな。そして第四番目は、勇気」をあげ、
「私たちは、独立宣言(一九四五年八月十七日)ののち、オランダと戦った。私たちは、柳川大尉のこの精神でたたかいました。敵をこわいと思ったことは、一度もありません。」と述べている。
抑圧されたアジア民族に対しかつての日本人は、深い同情と強い愛情を抱き真正面から向き合った。彼らの様な強烈なる感化力・教育力を持った教師が、現在の日本にどれ程存在するのであろうか。
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