丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

唯一の自慢話

2009年02月09日 | 個人史
小学2年生の時、唯一の自慢話があった。

今もって美術センスまったくなく、特に色のセンスはないので、美術の成績は悲惨なものだったのだが、なんと池田市の美術展に出品されたことが一度だけある。

遠足でたぶん多田神社に栗拾いとかで行ったとき。その遠足の様子を図工の時間に絵を描くことになって、とにかく絵が下手だから、特に人の顔を描くのが大の苦手だったから、
(人物画を正面から描くと絶対に類人猿になってしまう。後に目が実は顔の中間になるという事実を知ってからましにはなったが、それは大人になってからの話)
人間は描くけれど一切顔を描かない方法を思いつく。
それは電車の中で中央から見た絵にすること。つまり、乗客全員が外を見ているから一人として顔を描かなくてもすむこと。だから満員電車でたくさん乗っているのに、誰も顔がない。窓の外に景色とか他の電車が見えているだけという。

まあ今から思っても画期的な絵だっただろう。
クラスで掲示して優秀な絵の一つに選ばれ校内の展覧会に選ばれただけでなく、その後学校の代表として市の美術展に出品となる。当日は家族みんなで見に行った。
後にも先にも絵でほめられたのはこの1回かぎり。残念ながらこの絵は残っていない。

昔の通知簿とかはしっかり保管しているので調べてみたら、小学2年生の12月のことだった。通知表と一緒にもらう「褒賞表」というのに記録として書かれてあった。

運動会

2009年02月09日 | 個人史
昔の運動会って地域のお祭りでもあった。
保護者席は地区毎に分けられていて、地区対抗リレーなんかもあったような。

もっとも僕は運動会は苦手でもあった。お遊戯とかならむしろ得意なのだが、足が遅いから選手になることなどまずなかった。全員リレーなどもあったが、とにかくバトンをもらったらひたすら抜かされないことだけを考えていた。

クラス対抗全員リレーなんかもあるのだが、今から思えば不思議なことに、クラスで人数がそろわないときに、他のクラスから回されることもあった。当時は何も思わなかったけれど、よく考えれば、何でよそのクラスのために一生懸命走らないといけないのか。

小・中通して運動会・体育大会の思い出はほとんどない。とにかく走りたくなかった。
学年演技としてフォークダンスやその他体操なんかだと覚えていたりもするが。