丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小説「白夜の人」第5章:友情

2010年07月05日 | 詩・小説
第5章 友情

 礼子は二人の後から歩きながら考えていた。
 あの日、都合で先に礼子が帰ったのが4時半頃、圭子が家に着いたのは6時頃だと聞いている。たった1時間半の間に何があったのだろうか。もし家に帰るのが圭子の方が先立ったなら、今の立場は逆転していたのだろうか。そのたった1時間半の違いで、礼子が二人の間に入り込める隙間がなくなっていた。入りづらい雰囲気が出来てしまっていた。いつの間にこんなに圭子と淳の距離は近くなってしまったのだろう。今まで自分と圭子の二人と淳は平均的な距離を取っていたはずなのに。あの日を境にして二人の間にははっきりと差が付いてしまっていた。二人の性格が似ているだけにこの現実は厳しく礼子を追いつめてしまっていた。圭子が淳との距離を縮めた結果、圭子が礼子に話しかける時間はどんどん減っていってるような気がしていた。圭子は淳との距離が近づくにつれ、ますます彼に惹かれていくように、礼子もまた、淳との距離が広がっている現実を知れば知るほど、さらに惹かれている自分を感じていた。そんなうちにも夏が過ぎ、はや季節は九月を迎えていた。

 秋になったある日の放課後、礼子は先に一人で帰ろうとする圭子を呼び止めた。礼子の表情は寂しげであったが、圭子はそんな彼女の様子に気づいてはいないようだった。
「どうしたの?何か用?」
「あなた、変わったわね」
 圭子の問いには答えずに礼子はぼそっとつぶやいた。圭子は、えっ?と首を傾げながら聞き返した。圭子には礼子の言っている意味が少しもわからなかった。
「ねえ、去年の夏休み、覚えてる?」
「何なの?今さら」
 圭子は明るく聞き返したが、礼子は圭子の言葉を聞いていないようだった。
「去年の夏は、毎日と言っていいくらいいつも一緒にいたわね。よく飽きないなって思われるくらい」
 圭子の方を見ないで礼子は言った。
「どうしたの?礼子、何か変よ?」
 くるっと振り返ると礼子はまっすぐに圭子を見て言った。
「それなのに、どう?今年の夏はあなたと会ったのは3日だけ。いつ電話しても出てこないし、会いに行ってもどこかへ出かけたと言われるばかり。数えたのよ私、本気で。3日。たった3日!」
「そうだったかしら?」
「いい、3日だけ。しかもその三日間ともあなたは淳君と一緒だった。別に淳君と一緒だと嫌だとか、あなたを独り占めしたいとかじゃないけど……」
 圭子は思い出せる限り思い出してみた。確かに、礼子と一緒にいた場面には必ず淳がそこにいた。逆に、淳と一緒の場面に礼子がいないこともたびたびあった。別に礼子をのけ者にして淳と二人だけで約束して会っていたわけではないのだが、たまたま一人で買い物に行ったり、図書館や本屋に行った時に何度も淳と鉢合わせをして、そのまま話し込むことが多かっただけなのだが。淳は父親の仕事の関係で、小学生の3年間を外国で過ごしたことがある。そんな、圭子の知らない世界の話が面白くて、ついつい会うたびに長話をしてしまったのだった。
 「人間なんてどんどん変わっていく物よ。去年がそうだからと言っても、今年もまったく同じじゃないし」
「そんなこと、わかってる。10年後、あなたと私はまったく違う場所にいて、時々こんな友だちもいたなって、思い返すだけの関係になってるかもしれない。それは仕方のないことだと思ってる。でも、人間ってたった一日で変わる物なの?」
「一日ってどういうこと?」
「あの日、淳君の誕生日の日。私が先に帰った日。あの日からあなたはすっかり変わってしまったわ」
「何言ってるのよ。私がたった一日で変わるわけないじゃない。別にあの日だって……」
「あの日何があったの?私の知らないうちに何が起きたって言うの?」
 あの日、家に帰って母と喧嘩したことは礼子にも話している。でも、淳の家でのことは、別に話す必要もないことだと思って、礼子に話してはいなかった。淳のお母さんと話したこと。もっともそれだって圭子が一方的に話してばかりで、礼子に話すような内容じゃない。すでに親友の礼子ならすべて知っていることしか言わなかったし。淳に妹がいたことだって、もうすでに亡くなっている人のことだし、あえて話す必要のないことだと思って話さなかった。思い当たることと言ったらそれくらいしかなかった。
「礼子の思い過ごしよ。別に礼子を無視して淳君とつきあってるとかじゃないから。第一淳君との交際は家から禁じられているのは知ってるでしょ」
「でも、会ってるじゃない」
「たまたま、偶然に会っただけ」
「毎日、毎日?」
「毎日じゃないわよ、ほんと、信じて。別に何も隠してることなんかないんだから」
「別にね、あなたが誰を好きになろうとかまわないわ。でも私はあなたにとって何?私はあなたのこと、大親友だってずっと思っていた。でも、あなたにとって私は、もうどうでもいい人みたい。淳君も淳君よ。あの日までは私たち二人と平等に付き合ってくれていたのに、あの日から話しかけられたことなんか一度もない。学校にいる時だって、あなたが私を誘ってくれるから彼がそこにいるだけみたいな」
 勘の鈍い圭子も、ようやく礼子の言いたいことがわsかってきた。
「私、淳君が好きよ。大好き。お圭が淳君と親しくなるずっと前から彼のこと見てた。でも自分から近づく勇気なんかなかった。今は親しくなったのに近づけない。いつもあなたが間に入り込んでしまうから。どうしていつも私の邪魔ばかりするの」
 礼子は涙声で一気にしゃべった。圭子は何も言えなかった。
「礼子……」
「もうあなたのことなんか知らない。もう親友でも何でもない。今日限り絶交よ!」
 そう言うと顔を背けて歩き出した。
「待ってよ、礼子!」
 礼子は立ち止まると、顔だけを圭子に向けた。
「もうあなたとは口も聞きたくない」
 そう言うと、再び顔を前に向けて、今度は小走りで去って行ってしまった。圭子は動くことさえできずに立ちすくんでいた。礼子の言う通りかもしれない。礼子の性格はよく知っている。彼女が淳のことを好きなことも知っている。でもどういうわけか、今度ばかりは礼子の気持ちになってやることができなかった自分がいた。知らず知らずに、淳を独占したいと思う自分がいたように感じた。心の中で礼子に謝ったが、後悔するには少し遅すぎたようだった。

 日曜日の朝、淳は公園に向かって歩いていた。礼子から携帯で呼び出されたのだった。公園にはすでにワンピースを着た礼子が先に来ていた。淳は手を振りながら彼女に近づき、声を掛けた。
「どうしたんだい、こんな朝早く。君から電話が来るなんて珍しいね」
「早かったかしら。ごめんなさい」
「今日は素直なんだね」
「いつもはもっと図々しい?」
「そういうことじゃないけど……。聞いたよ、お圭と絶交したんだって?」
「言ったんだ、やっぱり」
 礼子は聞こえるか聞こえないかのような声でぼそっとつぶやいた。
「圭子、何か言ってた?」
「いいや、ただ、礼子を怒らせたって、それだけ。彼女、寂しそうにしてたよ。」
 淳は空を見上げながら言った。そんな淳を礼子は見つめていた。
「君たち親友だろ、二人の関係っていいなぁ、っていつも思ってたんだ。うらやましいなって。何があったか知らないけれど、もっとよく話し合えば?」
 淳は礼子の方は見ずに言った。そんな彼の耳に礼子の小さな声子が届いた。
「淳君!」
「うっ?何?どうしたの、元気ないな」
「ねえ、淳君、私のこと、どう思ってる?」
「どうって?お圭の親友で、僕の友だち」
「そういうことじゃなくって……」
 礼子が何を聞きたがっているのか、淳にはわかっていたが、正面から答えたくはなかった。
「私、淳君が好き。友だちとしてじゃなく、それ以上の気持ちで……」
 そう言うと礼子に背中を向けて立っている淳の背に抱きついた。
「私……私……」
 そして、声を出さずに泣き出してしまった。肩に添えられた礼子の手を、淳は肩越しに押さえた。
「どうしたんだい、変だぞ、今日の君は」
「圭子なんかに淳君を取られたくない……」
「しっかりしろよ、木下君!」
 突然、背中の礼子がビクッと反応した。そして急に泣き止むと、淳を突き放した。
「そう……なんだ。わかったわ、淳君の気持ち。圭子には『お圭』、私には『木下君』。もうそんなに違ってたんだ。あっはっはっはっはーー」
 淳は礼子の方に振り返ると呆然として彼女を見つめた。
「そうなんだ。もう私が入り込める隙間なんてほんの少しも残っていなかったのね」
 そう言うと礼子は淳に背を向けて走り出した。
「おい、待てよ、きのし……礼子君!」
 いくら呼んでも礼子は振り返りもしなかった。

 圭子はずっと一人で部屋にこもっていた。本を読もうとしても少しも頭に入らない。礼子のことばかりが頭に浮かんでいた。確かに自分が悪いのだ。都合の良い時だけ親友面して、必要がなくなれば知らぬ振り。自分の都合の良い相手くらいにしか思ってはいなかったのではないか。謝りたかった。一生懸命謝りたかった。礼子がこれまでどれだけ自分を支えていてくれたのか。5年前のあの時、礼子がそばにいてくれたからこそ乗り越えられたのに。でも、口も聞きたくないと言われてしまっては、会いに行くわけにはいかなかった。これまでつまらない喧嘩は何度でもあるけれど、こんなきつい調子で絶交を申し渡されたのは初めてだった。どうしたら良いのかまるで考えられなかった。ぽつんと淳につぶやいてしまったが、それだって彼が間に入ろうとでもしたら、火に油を注ぐような結果になってしまうことはわかっていたから、聞かなかったことにして、と淳には言っておいたのだが。
 夕方、圭子の部屋に和子がそおっと入ってきた。
「どうしたの、お姉ちゃん?元気ないわね」
「うん、礼子とちょっと喧嘩しちゃった。絶交だって言われちゃった」
 圭子は机に向かったまま、和子の方は見もせずに返事した。
「へぇーー、信じられない」
「私も信じられないわよ、どうしてそんなことになってしまったのか」
「信じられないな、絶交した相手が部屋の中にいるなんて、どうしてだろ?」
 和子が変なことを言ってる。意味がわからなかった。
「何、それ?『部屋の中に』って、どういうこと?」
 圭子が振り返ると、和子がにやにやしていた。開け放たれたドアの前に絶交したはずの礼子が立っていた。和子は礼子の後ろを押すと、にやにや笑いながら出て行ってしまった。
 二人は向き合ったまま、しばらくじっとしていた。やがて圭子は礼子に近寄ると抱き合って泣き出した。
「今日、淳君に会ったの。言われちゃった。ごめんなさい、あんなこと言って」
「ううん、謝るのは私の方。あなたがどんな思いでいたか、少しも考えなくて」
 圭子は鼻をすすりながら、礼子と離れると、ティッシュを取り出して鼻をかんだ。礼子がハンカチをさしだしたので、ありがとうと言って涙をふいた。礼子を部屋の中に招き入れて、二人並んでベッドを椅子替わりにして腰掛けた。
「私に、あれから考えたの」
 礼子が静かに話し出した。
「私、淳君のことが好き。これは変わらない。でも、それって一方的なのね。ほら、アイドル歌手が好きだって言うのと、少しも変わらないんじゃないかって。一人で勝手に好きになって、舞い上がって、彼も私のこと好きになってくれるんじゃないかって、勝手に思い込んだり。今日、淳君に会ってわかったの。でも……」
「でも?」
「でも、誰が一番好きかって、もし聞かれたら、圭子を選ぶんじゃないかなって、ふと思ったの。ううん、変な意味じゃなくて、圭子が幸せだったら、それが私にとっても嬉しいことなんじゃないかって。私、勘違いしてた。淳君を圭子に取られた、って思ってたけど、逆なのよね。圭子を淳君に取られたって。自分に問いかけてみたの。私にとって圭子は何だったのかって。あなたに言ったわよね、あなたにとって私は何だったのって。でも私にとってあなたは何だったのか、本当には問い詰めてなかった。親友だなんて言ってたけれど、本当にはあなたのこと考えていなかったのは私の方じゃないかって。私、淳君のことが好き。でも、それ以上に圭子のことが好き。だから決めたの。淳君をあなたに譲るわ。私は応援する」
「譲るって、別に私……」
「いいの、わかってんだから。それに、あの日のことだって、何か運命的なものがあったから近づくことになったんじゃない?私と立場が逆だったとして、同じようにはならなかったと思うの。圭子には淳君が必要なのよ。そういうように運命づけられてたんだ」
「でも、礼子は……」
「気にしないで。私は平気だから。ううん、平気だって言い切るほど平気でもないけどね。でも圭子とずっと友だちでいる方が、私にとっては嬉しいことなんだから」
「ごめんなさい。もう邪魔者扱いなんてしないから」
「いいのよ、別に。いつかは邪魔者になるかもしれないことは覚悟してるから。そんな時は私に遠慮なんかしないで邪魔者にしていい。淳君と30年・40年の付き合いになるのなら、私とは100年の親友でいてほしいの」
「親友って言ってくれるの?こんな私を……」
「何言ってるのよ。あなたの方からいくら絶交と言われたって、私はしつこくつきまとうからね」
 二人は固く手をつなぎ合って、お互いの泣き顔を見合って、笑い転げた。


小説「白夜の人」第4章:初恋

2010年07月05日 | 詩・小説
第4章 初恋

「どうかしたの、圭子?顔色良くないけど」
 翌日の休み時間、礼子が話しかけてきた。
「あれから淳君と喧嘩したとか?」
「ううん、昨日は珍しく、淳君とは喧嘩はしなかったんだけれど」
「ということは、やっぱり誰かと喧嘩したんだ。妹さん?」
 それには首を振りながら答えた。
「昨日、家に帰ったら、いきなりうちの母さんが、淳君とつきあったらだめだ、って言い出して……」
 実は、今朝も家を出しなに同じ事を母に言われたのだが、聞き流して出てきたのだった。
「へえーー、あのおばさんが?夜遅くに帰るとかしたの?ひょっとして、淳君と変なことしてるとこ、見られたとか」
「いい加減にしてよ、こちらは深刻なんだから。昨日は夕方にはきっちり家に帰ったし、淳君とも、誰かに何か言われるようなことなんかまったく何もなかったし」
「じゃあ、何でだろ、あの優しいおばさんがそんなこと言うなんて」
「私にもわからない。こんなこと初めて」
「きっと年頃の娘に変な虫がついたと思って嫌がったとか」
 礼子の言葉は、圭子のことを気遣いながらも、どこか他人事のようなのんびりした口調だった。何しろその現場を見たわけではないから、こういった事態がまったく想像できなかったこともあった。
「男の子を家に連れて行ったの、初めてじゃないってことは礼子も知ってるよね。あの時はこんなこと何もなかったじゃない。もっともあれは小学生の頃だったけどね」
 そこまで言って二人はどちらともなく口を閉ざしてしまった。忘れたわけではない。もっと言えば忘れようとしてもどうしてもできない、心の傷に触れてしまうようなそんな思い出があったのだ。

 あれは小学6年生の時だった。当時から圭子と礼子は同じクラスで仲が良かったのだが、そのクラスにいた一人の男の子を二人同時に好きになってしまって、二人で奪い合うようにそれぞれの家に連れて行ったりして争ったことがあった。彼は運動神経がよくて、スポーツ選手としても活躍していて、みんなのあこがれの存在ではあったのだが、誰も知らないところで、彼には大きな悩みがあったのだった。彼は両親と3人暮らしではあったが、両親は喧嘩が絶えなかった。そしてその原因の大半が彼を巡ることであり、そんな毎日にうんざりして、そのもやもやをスポーツに打ち込むことで晴らしていたのだった。家の外では明るく元気な少年を演じていたから、誰も彼が抱えている問題に気づいてはいなかった。そんな彼が突然自殺してしまったのだった。
 小学生の自殺と言うことで、警察やマスコミは彼の友人関係や学校での生活を聞きまくった。当然彼と一番近くにいた圭子や礼子にも聞き込みが行われたのだが、思い当たる節は何もなかったし、小学生にはあまりにショックが大きすぎて、何も答えることができなかった。おかしな推測や噂が大きくなりかけた時、とうとう両親が少年の遺書を公開することでようやく事態は収束した。彼が所属していたスポーツチームで海外に行くと言うことになり、パスポートを取るために戸籍を取った時、彼は自分が両親の実の子どもではないということを知ってしまったのだった。両親は彼が大きくなった時に打ち明けるつもりではいたのだが、二人が喧嘩をしている時で、言う機会がないまま事実を知ってしまった彼は、両親の喧嘩の原因が自分の出生の秘密にあるものだと信じ込んでしまったのだった。実際にはそうではなかったのだが、一度思い込むとこれまで支えてきた物が一気に崩れるような思いをして、そして彼は自分さえいなければすべてうまくいくものと思い込んでしまったのだった。
 両親の喧嘩は時間さえ掛ければ、なんとかして仲良くさせることもできると思っていた。自分がスポーツ選手として世界に羽ばたくくらいに頑張っていればいつかはなんとかなると思っていたが、彼が実の子どもではないという事実は彼の自信を一気に崩してしまった。自分は二人をつなぎとめる何物でもなかったのだ。なまじ一つのことに向かって、回りの雑音には耳を傾けることなく、突き進もうとする性格だったため、誰に相談することもなく、自殺という行動に出てしまったのだった。
 彼が自殺したという事も圭子にはショックなことだったが、こんなに近くにいながら、一言も相談してくれなかったことがさらにショックだった。そして、こんな大きな悩みが彼にはあったのに、彼に明るいだけでない、何か影のような部分があることも少しは感じていたはずなのに、その内側のことを何も知ろうとはしなかった自分自身にも腹立たしかった。
 この事件の後、かなりの時間圭子は誰とも話をしようという気にはなれなかった。特に男子生徒には心からうちとけることはなかった。話し相手は同じようにショックを受けて落ち込んでいた礼子だけだった。二人の心の傷は時間と共に少しずつ薄れてはいき、普通の会話程度なら一応誰とでも話せるようにはなったが、本当に落ち着けるようになったのは高校生になってからだろう。中学では事件のことをよく知っている生徒が多かったが、高校となると、同じ中学から来た者もほとんどは小学校が別で、事件のことをいつまでも引きずっている者はいなかった。むしろ事件から1年ほどたてば、大方の者に彼が忘れられようとしているのも腹立たしかったが、直接彼と関わっていない者にはそんなものなんだろうとあきらめるようにはなった。事件の後、彼の両親はやっぱり離婚して、どちらも町を出て今はどうしているのか全く知らない。それほど遠い出来事になっていた。でも、圭子と礼子には、忘れてしまったように振る舞っていても、お互い、何かのきっかけでどちらも忘れていない出来事だったと確認し合ってしまうのだった。そんな状態はつい最近まで続いていた。二人が淳と出会うほんの一ヶ月あまり前までは。

 圭子は最近、小学生の時の彼を思い出さなくなっている自分に気がついた。自分の中で何かが変わったのだ。
「私……、忘れていたわ、あの子のこと」
 いきなり礼子が、まるで圭子の心の内が読めるかのように言った。
「もう5年にもなるのね。私もそう。どうしたのかしら、これまでどうしても忘れられなかったのに」
「結局、忘れよう、忘れようとするのは、少しも忘れる助けにはならなかったってことね。忘れる時には気がつかないまま、いつの間にか忘れている物なのよね」
「でも……、あの子のこと忘れてしまってるなんて、何だか寂しい」
 ぽつんと圭子が言った。礼子もそれに頷いた。
「今まで忘れようとして努力してきたのに、いざ忘れるとなると、あの子のことを好きだったなんて言ってたことも、こんなに簡単に忘れてしまう程度のことだったって思い知らされてるみたい。やっぱり本気じゃなかったのかな」
「そんなことないって。圭子がどれくらいあの子のこと思っていたか、私が一番よく知ってる。でもいなくなって、会うことができなくなって、自然に忘れるというのとはまた別のことよ。もう私たちとは違う世界に行ってしまったんだから」
 圭子のことを家族の誰よりも一番よく知っているのは紛れもなく礼子だった。小学5年生の時に同じクラスになって以来、喧嘩もしたり、別のクラスになって話す機会が少なくなった時でも、お互いにいつでもそばにいたいと思ったのは礼子だけだった。お互い、相手のことは自分のことのように一番良く知っていたし、一緒にいる機会も多かったから、性格も行動も好みもよく似ていた。初恋が同じ相手であったこともそのことが大きく関わっていた。

 その日、圭子と礼子と淳の3人はとりとめない話をしながら学校から帰っていた。その途中、道路の向こうに妹の和子の姿を認めたので圭子は思わず和子を呼び止めた。和子は圭子を認めると笑顔で手を振って近寄ってきたが、そばにいる淳に気がつくと心持ち顔をこわばらせて立ち止まってしまった。
「和子、今、帰り?ちょうどよかった、紹介するわね、淳君。こっちが私の妹の和子。生意気な中学2年生。で、和子、こっちが同級生の森本淳君、不思議なことに私と誕生日が一緒なの。おかしいでしょ」
「こんにちわ、姉がいつもお世話になっています。あなたが、あの森本淳さんですか」
 ちょっと引きつるような顔をさせながらも和子はくそ丁寧に挨拶をした。
「あのーー、一つだけお尋ねしていいですか?」
「ちょっと、和子、何言い出すの。初対面の人に向かって!」
 いきなりの妹の言葉に圭子はあわてた。まさか、あなたは姉のボーイフレンドですか、なんて言い出すんではないかと、質問を遮ろうとした。
「初めまして、うん、何でも聞いて良いよ、答えられることならね」
 そんな圭子のあわてぶりなど気にする様子はなく、淳は笑顔で答え返した。
「つまらないことなんですけれど、森本さんには妹さんとかおられるんですか?」
 圭子が予想もしていなかった質問に何か言おうとしていた口が開いたままになってしまった。
「ああ、よくわかるね。確かに妹はいるにはいたんだけど、小さい頃に死んでしまってね……、でも、どうして?」
「そうですか。すみません、悪いこと聞いちゃったみたいで。ただ、何となく妹さんかいるんじゃないかていう気がしたので。すみませんでした。じゃあ、急ぎますので失礼します」
 そう言うと和子はさっさと家に帰ろうとした。圭子は呪文が解けたみたいに動き出して和子を引き戻した。
「ちょっと、和子、待ちなさい。何よ、今の。いったいどういうこと?」
「別になんでもないわ。ほんとに急いでいるからごめんね」
「あんた、最近ちょっと変よ。何考えてるの?」
「ごめん、話は家に帰ってから聞くわ」
 そう言うと和子は今度こそ振り返りもせずに帰って行ってしまった。
「いつもは素直な良い子なんだけどな。何か最近変なのあの子。中2ともなればわからにことも出てくるのかな」
 溜息交じりで圭子がつぶやいた。
「いいじゃない、女の子のことはわからないけれど、世間はそんなものじゃない」
「何かこのごろ、うちの家族、みんな変で……」
 圭子は和子の後ろ姿を見ながら、また溜息をついた。しかし、礼子が淳と圭子の二人から少し遅れた場所にいることには少しも気づいてはいなかった。