未来への絆 【江戸っ子畳職人物語】

この物語は畳の仕事や日々の暮らしを通し
      家族の愛と信頼を
  余すところ無くブログ化したものでる。

明日は柳橋盆踊り祭り。

2008年07月17日 11時59分45秒 | 今日の祭り

神田川最下流の橋で、東京都中央区と台東区に、またがって架けられている。

もともとは神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったということである。

元禄年間(1698年)に初架橋。現在の橋は関東大震災の後につくられた鋼鉄製のものである。

江戸時代には「浅草橋」と「柳橋」の間の河岸が遊郭で有名な吉原に通う「猪牙舟(ちょきふね)」など様々な舟遊びの場となり、周辺には船宿や料理屋が並んでいた。

「河岸」とは狭義では河川・運河・湖・沼の岸に作られた港や船着場のことであるが、江戸時代には河岸に問屋を商う商人やその蔵が集まって一つの商業集落をなしたことから、広義には、町・村そのものを指すと言ってもよい。

柳橋は、そのような河岸の一つとして「柳橋芸者」で知られる花街のイメージもあるところである。

正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」と歌われた花街としての賑わいは、辰巳芸者で有名な深川花街が江戸幕府の寛政の改革・天保の改革の風紀の粛清・質素倹約の流れの中で弾圧を受け、芸者衆が集まってからのことである。

以来明治時代以降も、文人・画家に愛された花街「柳橋」であったが、現在花街の風情を残すのは橋近くの料亭「亀清楼(かめせいろう)」のみとなっている。

神田川に架かる140の橋 柳橋 参照

わたしが子供の頃、良くこの橋を通ると、黒塗りの高級車がずらりと並んでいて

運転手が、タバコを吸いながら、先生と呼ばれる人たちを待っていた。

上記説明にもある様に、花町として古くから粋な場所の一つに上げられている場所です。

家の前を、毎朝決まった時間に必ず通る、綺麗な芸者様はいまでも鮮明に覚えている。

そんな浅草橋の隣町でもある、柳橋地区にて、明日盛大に、盆踊り大会が行われます。

私も、青少年部員として、スーパーボールの的屋として参加します。

子供の頃より慣れ親しんだ、盆踊り。張り切って頑張って参ります。


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